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ぼくしのめがね

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ローマ九章  神の選びの不思議

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私のメンターのキャリー牧師の礼... 私のメンターのキャリー牧師の礼拝している姿。麗しいです。先週は、入院されて、とても心配しました。いつまでもお元気でいてほしいです。。。。
2016年11月26日日曜日礼拝音声は、下をクリックしてくださいー


前回は、八章で、御霊に生きるという素晴らしい、何にも勝利できる道があるのだということをパウロは話しました。今週は、九章で、それにあずかっていない、同胞イスラエル人について、パウロは語っています。

★ パウロの心の苦しみ

ローマ9:1-3
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。I tell the truth in Christ, I am not lying, my conscience also bearing me witness in the Holy Spirit, 2 that I have great sorrow and continual grief in my heart. 3 For I could wish that I myself were accursed from Christ for my brethren, my countrymen according to the flesh,

○エンパシー共感について

sympathy = syn (共に) + pathos (苦しみ) [感情共鳴]
empathy = en (内部へ)+ pathos (苦しみ) [感情移入]

sympathy はその人と一緒に悲しむことですが、empathy は、その人の心の内部へ入って、その人の苦しみを自分の苦しみとして悲しむことです。

ちょうど、イエス様が「この小さい一人にしたことは、わたしにしたのです。」と例え話中でされてますが、(マタイ25)イエス様は、私たちの日ごろの状態を自分のこととして、飢え渇き、憂い、とりなして祈っていてくださる方なのです。
パウロもまた、自分の同胞に対して、大きな悲しみ、絶えない痛みがある。自分が代わりに地獄に行ってもいいほどに、その同胞の救いのための願いと祈りが溢れています。

私たちが、共に感じる、伝道したい相手の痛みと一体化するところに、何かブレイクスルーがあるように感じてなりません。それが、イエス様のしてくださったことだからです。私たちは、日ごろ祈っている人のことに対して、どれほどその人と一体化しているでしょうか。この章のはじめに、パウロが大きなチャレンジをくれたと思います。

v4,5 栄光も、律法も、礼拝も約束も彼らのものです。先祖たちも、キリストさえイスラエルから出てるのに、それなのに、なぜ、イスラエル人がみな救われないのか。。。。。

★ イスラエルとは

ロマ9:6-7
しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。
But it is not that the word of God has taken no effect. For they are not all Israel who are of Israel, 7 nor are they all children because they are the seed of Abraham; but, “In Isaac your seed shall be called.”

パウロは、しかし、同胞イスラエル人が救われていないからと言って、神の言葉が無効になったのでも、意味がなかったのでもない。。。と主張しています。
信仰によってそもそもイスラエル人となるのであって、血統ではない。肉の子供ではなく約束の子供でなければならない。自動的にはなれない。というのです。

○約束の子と肉の働きの子

アブラハムの例では、アブラハムは、神様から子孫の約束を受けたけれども、待ちきれなくて、セラとの間ではなくと他の人との間に子供をもうけました。しかし、それは、肉の働き、自分の働きであって、神の約束の子ではありませんでした。私たちは、自分の肉の力によって、神の計画を実現しようとしていまう、肉の強い働きを宿して生きています。

また、その態度がイスラエル自身の態度でもあります。一生懸命、自分で義を達成していこうとする、律法を肉の行いで満たそうと必死になってる。そこには救いがないのです。

約束を待ち望み、約束のものに気が付き、それを受け取らなければならないのです。

★ 事は憐れんでくださる神による

では、約束ってなんなの? ということになります。みんながみんな受け取れる約束ではないのか? という質問が出てきました。

ロマ9:16-17
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。So then it is not of him who wills, nor of him who runs, but of God who shows mercy. 17 For the Scripture says to the Pharaoh, “For this very purpose I have raised you up, that I may show My power in you, and that My name may be declared in all the earth.”

神は、私たちの知恵を越えた知恵で、選びをもっていらっしゃる。ちょうど、陶器師が器をいろいろな用途のために作り分けるようだという。そんなのフェアじゃない。とあなたが言おうが、造られたものが造り主にたいして偉そうに言えることではない。。。とあります。(v19-22)

「親分は、イエス様」という本や、映画が日本にはありますが、本当のお話しで、やくざがイエス様に出会って変えられてく。という話しです。また、クリスチャンの家に生まれていても、イエス様に出会わない人もいます。また、ユダも、もしかして、死ぬときにはイエス様に悔い改めて救われていたかもれませんが、彼もイエス様に選ばれておきながら裏切りました。そして、彼がいたからこそ、イエス様は十字架にかかりました。エジプトの王パロも神様がその心をかたくなにしたので、10の奇跡合戦をモーセとし、その神の名が高らかに世界中に証しされました。

すべて造り主のためです。たとえそこに、悪い器と見えるものがあっても、それを忍耐を持つての神様がゆるしておられるのです。

★ あなたも憐れみの器として召されている

ロマ9:24  
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
23 and that He might make known the riches of His glory on the vessels of mercy, which He had prepared beforehand for glory, 24 even us whom He called, not of the Jews only, but also of the Gentiles?
神様は、選びの民イスラエルを差し置いて、律法も礼拝も知らないような、今や、私たちのような遠い国の民族に届いてくださって。こんな私を憐れみの器として召してくださったのです。

不思議なことです。

あなたに、神の栄光を示し、そして、神の御名を世に知らしめるためにあなたは、召されているに他ならないことを覚えておきましょう。当たり前のように、また、何か自分が達成したかのように思わないようにしましょう。

事は、人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。So then it is not of him who wills, nor of him who runs, but of God who shows mercy.

ですから、選挙のことでも、心を騒がせないようにしましょう。どちらになっても、神の御心がすでにはたらいているのです。

★ イスラエルの躓きの石

ロマ 9:31-33 
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」but Israel, pursuing the law of righteousness, has not attained to the law of righteousness. 32 Why? Because they did not seek it by faith, but as it were, by the works of the law. For they stumbled at that stumbling stone. 33 As it is written: “Behold, I lay in Zion a stumbling stone and rock of offense, And whoever believes on Him will not be put to shame.”

   イスラエルは、イエス様が分かりませんでした。約束を待ち望んでいましたが、約束を見出せませんでした。それは、「行い」すなわち、律法、肉の働きに、とらわれていたからです。イエス様という恵みによって、行いからも解放する、救い主がかえって彼らの躓きの石となってしまったのです。ケニーさんが先週話したように、イスラエル人は、イエス様にすっかり気を悪くしてしまったのです。。

今日三つのこと、覚えてください。
① パウロやイエス様のような、エンパシー共感を持つこと。
② あなたは、神のあわれみの器として選ばれていること。
③ 「行い」にとらわれるのでなくて、約束を信じる信仰に生きること。

来週は、エリックがメッセージですが、その次は、神の選びに対して、私たちの側の選択についてお話ししたいと思います。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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かわいい一コマ

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礼拝中、ワーシップをしていたら... 礼拝中、ワーシップをしていたら、子供たちが前に自然に集合。しずかに一緒にワーシップリードをしました。笑。。。。
子供は、大人の真似をしながら育つんですね。。。
神様の臨在も肌で感じてきたかなー?
礼拝後、今週から、クリスマス会... 礼拝後、今週から、クリスマス会の歌の練習をしています。
みんな上手に振り付けできました。
小さいちゃんは、さすがにすぐうろうろして、写真からいなくなってます。まだ二歳にもなってないですからねーーー。クリスマスが楽しみですーー

今週は、ケニーさんがメッセージをしたので、ノートがありません。

#ブログ #子供 #教会 #日曜日 #礼拝

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ロマ八章 いのちの御霊の原理

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先週は洗礼式がありました。中国... 先週は洗礼式がありました。中国人の方が二名。。中国では、キリスト教信者が急激に増えていて、すでに求めている人が多いです。不思議に教会に引き寄せられてきたこのお二人は、お友達やお母さんもクリスチャンだったそうです。 トレーダージョーズはすでにクリ... トレーダージョーズはすでにクリスマスモード。おいしそうなトリートがたくさん並んでいます。もうすぐ感謝祭。もうすぐクリスマスです。アメリカはホリデーシーズンです!
2016年11月13日日曜日礼拝メッセージ音声は、下

先週は、クリスチャンに対してのパウロのメッセージ律法に対しても死ななければならないことを話しました。今日は、続きで、それよりも素晴らしい道、生き方を神様が用意してくだった。御霊によって生きることをお話ししたいと思います。

ロマ8章

★罪と死の原理から御霊の原理へ

ロマ8:1-2
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。There is therefore now no condemnation to those who are in Christ Jesus, who do not walk according to the flesh, but according to the Spirit. 2 For the law of the Spirit of life in Christ Jesus has made me free from the law of sin and death.

先週からの言葉を受けて、私たちは、キリストによって罪に定められることが決してないこと。また、いのちの御霊の原理が私たちを解放したとあります。
どんなにがんばっても、神を喜ばし、律法を全うできない。良い人間に自分の力でなれないこと。。先週見ていきました。

★御霊の中にいる

ロマ8:8-9
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。So then, those who are in the flesh cannot please God. 9 But you are not in the flesh but in the Spirit, if indeed the Spirit of God dwells in you. Now if anyone does not have the Spirit of Christ, he is not His.

肉の働きは、神を喜ばせることができません。肉が生きている限り、何も良いものが出てこないのです。

御霊の原理は、このように説明できます。人間のどんな優れた肉体の能力を使っても走って飛んで、2m45 が最高記録。それだけ飛べたら金メダル。世界一の身体能力の飛び能力。これが、肉の働きの限界。しかし、生まれたばかりの赤ちゃんでも、飛行機に乗るなら、7620m の高度を肉体の努力なしで飛べます。
あなたの能力、手腕、頑張りはいらないのです。赤ちゃんでも飛行機に乗ったら飛べるんです。あなただって、御霊の中にいれば、高く飛べるのです。どうやって乗るのですか? How? Why? という質問が心にわいたら、いつもこの答えです。信じることです。信仰によってその飛行機に乗るのです。自分で何とか乗ろうとすればするほど乗れません。

★御霊の人の祝福と希望

この章を読んでいるとたくさん希望の言葉が出てきます。とても励まされます。

○神の子とする

ロマ8:14-16
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God,

今までは、罪の奴隷であり、律法の奴隷であり、自分のしたいことができない状態でした。しかし、御霊の人は、神の子だというのです。そして、御霊ご自身が証ししてくださるというのです! 自分で頑張ってそれを証明しなくてもいいのです。先週の話しではありませんが、クリスチャンらしく、聖霊の九つの実を結ぼう結ぼうとしても結べるものではないのです。むしろ、あきらめて肉が死んだ方がいいのです。

○被造物も待ち望んでいる

ロマ8:18-19
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 For I consider that the sufferings of this present time are not worthy to be compared with the glory which shall be revealed in us. 19 For the earnest expectation of the creation eagerly waits for the revealing of the sons of God.

私たちのこの天地は、やがてその時が来るとき、神様によって新たにされます。完全な回復がこの地にやってきます。これも、すべて、神の子たちの現れにかかっているのです。御霊の人が満ちることを被造物も待ち望んでいるのです。待ち望むというのは、希望を持っていると訳してもいいでしょう。希望は、将来の夢を描いてそこに日々向かうことであります。私たちは、希望のトラックを今走っているのです。苦しみについてパウロは言及していますが、人生世の中苦しみはつきものであるし、キリスト者として苦しみも未信者の時よりも多いのは事実です。しかし、苦しみと希望がいつも背中合わせであることをパウロは指示しているのではないでしょうか。

○御霊のとりなし

ロマ8:26-27
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。Likewise the Spirit also helps in our weaknesses. For we do not know what we should pray for as we ought, but the Spirit Himself makes intercession for us[b] with groanings which cannot be uttered. 27 Now He who searches the hearts knows what the mind of the Spirit is, because He makes intercession for the saints according to the will of God.

私たちは、苦しみの中で、もう自分の力も限界だ。力も根気も尽きた。祈って神様にすがる気力さえないという時があります。そんな時であっても、内にいらっしゃる御霊が私たちのいいようのない祈りをよく知り、とりなしてくれているというのです。しかも、みこころに従ってとあります。なんということでしょうか。

○すべてが益とされる

ですから、例えあなたが祈る気力さえ失っても、御霊様は必ずあなたの苦しみをも益に変えてくださるというのです。

ロマ8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。And we know that all things work together for good to those who love God, to those who are the called according to His purpose

また、誰も御霊の中にあるならば、誰も私たちに敵対できるものはいないとあります。

○誰も敵対できない

ロマ8:31
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。What then shall we say to these things? If God is for us, who can be against us?

また、すべて私たちに必要なことは与えられると書いてあります。御霊の中にあると信じられるなら、私たちは、7000メートル以上上空を飛べると信じれますよね。それなら、続くみ言葉もしっかりと心に受け止められるでしょう。

○すべての恵みがある

ロマ8: 32
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。He who did not spare His own Son, but delivered Him up for us all, how shall He not with Him also freely give us all things?

○神の愛から離すものは何もない

ロマ8:37-39 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。37 Yet in all these things we are more than conquerors through Him who loved us. 38 For I am persuaded that neither death nor life, nor angels nor principalities nor powers, nor things present nor things to come, 39 nor height nor depth, nor any other created thing, shall be able to separate us from the love of God which is in Christ Jesus our Lord.

何とかして神を喜ばせなければという肉の思いから、もうすでに神にとらえられ。愛の中に守られているという飛行機に私たちは、乗らなければなりません。ジャンプして到達しようという肉に死ななければなりません。いつも聖書の答えは一つです。How? Why? と心に浮かぶときは? 何ですか? 信じることです。今日、イエス様を信じて、この素晴らしい御霊の中に入りましょう。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ロマ七章 絶望的な自分を知ること

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新しくできた、サウスレイクユニ... 新しくできた、サウスレイクユニオンのCafe Zoka の中。。。コーヒーは、相変わらず美味しかったです。中は、すごく意外でした。他のZoka はなんだか落ち着く木の家具や大きなカウチがあるんですが。。。アマゾンのビルの中にあるからからなー? イメージが少し違ってました。
2016年11月6日日曜日礼拝メッセージ




先週、ローマ書六章では、罪に対して死ぬこと、キリストに継ぎ合わさせて恵みの支配下に行くことを話しました。今週は、有名なローマ書七章です。ある人は、どうしてこの順番にこの章が来るのか。。。と思うそうです。五章と六書の間に来ればいいのに。。。と思うわけです。どうしてでしょうか。。。。

ロマ7: 1

それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか—私は律法を知っている人々に言っているのです。—Or do you not know, brethren (for I speak to those who know the law), that the law has dominion over a man as long as he lives?

★律法と私の関係

先週は罪と死のことでしたが、今週は律法です。パウロは、初めに、これは、律法を知っている人に対して言っているのですよ。と但し書きしています。そうです。これは、未信者ではなく、むしろキリストの死に継ぎ合わされたクリスチャンの葛藤のことを言っているのです。

続く二節からは、結婚関係に例えて話しています。
完璧な清い夫が重箱の隅をつつく。夫は完璧だが、私がついて行けない。。ちくちくつつかれることから解放されるには、夫が死ぬか、私が死ぬかしかない。。。という、結婚関係にたとえています。しかし、死を経験するなら、律法と別れて、新しい恵み・御霊という夫と結婚し幸せになれるというのです。

律法と私たちの関係もそうです。「天地が滅び行くまでは、律法の一点一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」For assuredly, I say to you, till heaven and earth pass away, one jot or one tittle will by no means pass from the law till all is fulfilled. (マタイ5:18)と聖書に書いてある。切っても切り離せないのです。人間のために与えられた律法は、天地の終わりまで堅くたつのです。

★律法の役割

ロマ7:7-8 

7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさごりを知らなかったでしょう。
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。What shall we say then? Is the law sin? Certainly not! On the contrary, I would not have known sin except through the law. For I would not have known covetousness unless the law had said, “You shall not covet.” 8 But sin, taking opportunity by the commandment, produced in me all manner of evil desire. For apart from the law sin was dead.

これは、未信者の葛藤ではない。むしろクリスチャンの葛藤である。私たちは、クリスチャンになる前よりも、なった後の方が罪に対して敏感であり、律法に対して注意深い。クリスチャンになった後の方が、どれだけ自分が罪深いかよく理解できるのである。
律法に照らし合わされなければ罪は分からない。律法に従おうとし、聖くなろうとするから、罪が分かり、自我に死がもたらされるのです。ですから、律法は、罪ではなく、律法は、私たちを成長させる養育かかりであり、良いものです。善人の良い夫なのです。

★内なる葛藤

キリスト者の純粋な願いは、聖くなることではないでしょうか。私は、キリストによつて救われた、だから、キリストに従っていきたいと思うのは、当然であり、自分から罪を犯そうとは、先週のお話の通り、思わないのです。
もっと、キリストのように、もっと神様に喜ばれる子になりたいと思うのです。
律法は、正しくて良いことをすることであるから、大いにしたい。自分を殺すことなく、生きたまま、律法を行い、聖なる神様の基準に合う生き方をしようと頑張るわけです。

ロマ7:15 
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。For what I am doing, I do not understand. For what I will to do, that I do not practice; but what I hate, that I do.

ロマ7:18 
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 For I know that in me (that is, in my flesh) nothing good dwells; for to will is present with me, but how to perform what is good I do not find.

ロマ7:22-23 
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。For I delight in the law of God according to the inward man. 23 But I see another law in my members, warring against the law of my mind, and bringing me into captivity to the law of sin which is in my members.

しかし、やろうとすればするほど、できないとパウロは、その苦しみをあらわにしています。律法を愛し、書かれている通りにしたいが、自分の内なるところに違う律法が働いていて、何をしても空回り。。。と。

私も、若いクリスチャンのころ、頑張りました。自分の理解の限り、人を愛そうとしました。やればやるほど、裏目に出ました。自分が浮き彫りとなりました。愛することと、人を甘やかすことを混同しました。従順になることと、人を恐れることと混同しました。律法に従おうとすればするほど、自分の中にある律法が反応し、神様の意図している働きができないのです。どうしたら、神様に完璧にしたがえるのか。完全に律法を守れるのかと、ああでもない、こうでもないと祈り、試し、真剣に取り組みました。断食もし、聖書も読み、伝道も熱心にし、たくさんの信仰書も読みました。

私は、川で溺れかけたことがありますが、まるで、それは溺れる人のようです。もがけばもがくほど助からないものです。川と海は怖いです。。。海でも、去年も今年もバケーションで、エリックと私ともども、溺れかけました。怖かったです。。。まるでこの苦しみは溺れている人のようです

★絶望と死

パウロは次のような結論に行きつきます。

ロマ7:24-25

 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
O wretched man that I am! Who will deliver me from this body of death? 25 I thank God—through Jesus Christ our Lord! So then, with the mind I myself serve the law of God, but with the flesh the law of sin.

結局この罪の体から。。。。に行きつく。絶望に至る。一体私の内に何の良いものがあるというのだろうか。。。と

その境地に至らなければ、分からない自由がある。

溺れている人を元気な人が助けに行っては、いけません。溺れている人が元気なので、必死でしがみつかれ、もがかれ、助けに行った人ともども溺れてしまいます。溺れている人が力つきなければ、その人を水に浮かせながらスムーズにレスキューできないのです。

私たちは、罪に対してでだけでなく、律法に対しても死ななければならないのです。良いことのためにさえ、自分の力で生きることができない自分についてよく知らなければならないのです。

私の恩師がよく言いまた。「働き人は、情熱ばかりのものは、使い物にならん。情熱有り余って、わーっと走り、壁にばしーんとぶち当たり、ばたんと倒れる。その倒れた地点が一番いい塩梅なんだ。」と。

★新しい御霊によって仕える

ロマ7:6 

しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。But now we have been delivered from the law, having died to what we were held by, so that we should serve in the newness of the Spirit and not in the oldness of the letter.

パウロは、律法に対しても死んだ人についての、ヒントを少し、七章のはじめの方で話していました。新しい御霊によって仕える道があるのです。罪にも、律法にも死んで、御霊に生きるみち。来週はそのことをお話ししましょう。


クリスチャンに時々足りないのは、自分の罪・弱さを認めることかもしれないですね。自分を知ること。自分がどれくらい罪深いものであるかということ、それは、真剣に神様に従ってみないと分からないことでしょう。真剣にやってみて、失敗し、そして、自分に絶望する。自分に愛想が付かさなければ、本当の意味で自分を愛し、神を愛することはできません。

とりあえず、今日。おきざりにしている課題に取り組みませんか。家族の救いですか? 誰かと仲直りすることですか? 毎日聖書を読むことですか? 祈ることですか? 一日一善することでしょうか?  なんでもいい、神の聖さのために、従順してみましょう。思い切りやって絶望しましょう。

#キリスト教 #クリスチャン #教会 #聖書

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