さてさて、詩に関わる活動で今週はなかなか密な感じになってきた。今までは詩を書き、ネットの掲示板サイトへ投稿していただけだったけど、詩人会の活動、投稿された詩への感想や評の書き込み、詩誌への作品を書き、ツイッターのテーマ詩企画、送られてきた詩集を拝読、そして七月七日はいわき市で行われる朗読会へ参加する。なんとも詩に関わる環境がここ数年でかなり変わってきた。すべて自分から望んで行なっているのだから、たいへんだけれども楽しいにきまっている。その分、自分の詩には興味が薄れてしまった気がしている。でも、それでいいと最近は思っている。ひとの詩活動を盛り上げたい、という気持ちの方が上回っているのだから、それでいい。やっとやりたいことの手掛かりが見えてきたようだ。 いわき七夕朗読会では、被災地に立ち詩を朗読するといった復興を願う朗読会になっている。震災の詩は、私にとっては難しかった。しかし、正直な気持ちをのせた作品が書けたと思っている。声高らかに朗読しよう。
絶対精度の光を使うと 時間の歪みを知ることできる 重力があるほど ゆっくりと時間を刻む 退屈な時には やたらと時間が長く感じる 俺の中にある時間精度は 重力の影響を受けているのか いや、そういう事ではない 楽しい時は気分が無重力って事だ (なんやっ、それっ!?)
物干し竿にぶら下がった いつ買ったかも覚えていない風鈴 風情などなく 無理に踊らされている ダンサーの悲鳴に聴こえてきます 風が怒って ゾワゾワと擦れた音で向かってきます 残酷な物語は目の前で始まり この圧力に草臥れてしまいます 風鈴を外さなければ しかし私の手には収まろうとしない 髪をなびかせながら抵抗されます 何もかも想像はズレていました 風鈴は身をまかせ自由だったのです
みなさま 私は毎日が記念詩だと 申し上げたい 詩が芸術、文学とか 難しいことは置いときまして 毎日ある記念日をテーマに 詩としてアップすれば みなさんが楽しい 生活感のある詩というのも 素晴らしい、と 詩域コミュニティ これからの詩はそんな時代です
詩が芸術とか 文学とか そんなことは もうどうでもよくて 生きている 生きて行こう思いに 繋がり広がり ひとりの詩が飛び立つ 聴こえてくる あなたの声 僕の声 自分だけの詩でなくなった時 詩が詩として生き生きと 成長し僕らは微笑む
十八歳 家賃一万円の四畳半アパート 共同トイレ 共同炊事場は床がいつも水浸し 共同電話は同アパート住民の集金者が 料金を払わず使えない 雨が降るとネズミが天井を走り 下の階からは早朝にお経が聞こえる それでも 住む場所より寂しさが問題だった 孤独の住む自分がなにより辛かった
とてもふあふあとした気分です お酒を飲んだわけでもなく 薬を飲んだわけではないのに これがそんなに悪い感じではなく そうなんです、ふあふあした気分なのです この状態ではどんな詩が書けるのだろうか、と 今、このだらだらふあふあした なんの意味も無さげを表現しようとしています いや、すでにしています 横になりタブレットに右手の中指で とんとんとん、と なぜか右眼を瞑って左目で ぼんやり画面を見て打ち込んでいます 雨が窓ガラスにあたり始めました たしか窓が開いているのですが 立ち上がるほど現実にはいません ああ、顔に冷たい雨が吹き込んできました 困りました、この時間が奪われるのは嫌です でも現実は脅かして急かし始める さあ、この詩を閉じなければならない ふあふあはすでに無くなりました あるのはいつもの痛みを感じる身体 ああ、タブレットを置かなくちゃ 窓が閉めれない詩が終われない
バリバリとその響く音は 遠く彼方のあなたに届いてますか 止められないのです そっとあなたが 僕の手を握ってくれたのなら 微笑みながら止めれるのでしょう 残念です もう袋には入っていません 塩の染み込んだ指を齧っています 僕は止められないのです あなたがいないと駄目なんです
不安になったり なんだか無敵な気分になったり 日々の浮き沈みに少し疲れ わたしは今、早朝のホームでベンチに座り やさしい風を 落ちる雨音を 駅のアナウンスを 電車の通過する音を 身体に響かせながらひとりを感じている 浮き沈みの真ん中あたりで 過ぎ去った月日の不思議を思う 進んで来たのだろうけど 進んで来たのだろうかと 疑問の視線は一点を見つめ わたしに帰っている今を感じ 目的や希望や夢なんかない世界の 平らなところで静かに座っている
書かれた詩と 音読される詩は 作品は同じでも感受が違う 読むひとによって 聞く時の雰囲気によって 詩にある 世界の許容はどこまでも膨らむ それぞれにそれぞれの世界を広げ さあ 詩を読んでみよう 声を出し読んでみよう 新しい世界が……
おにぎりとウインナー ああ、どこかで野菜ジュースでも 息子よ 手抜き弁当で悪いなあ そんなに頑張ってない父ちゃんだけど 大きめのおにぎりを握ったから 今日一日を頑張ってくれよ 最近は自分でおにぎりを握る息子 夕ご飯もたまに作ってくれる 自立への始まり それはおにぎりなのかもしれない
ちょっと太い針だけど 僕でも役に立つことがあった 高校生の時、学校に献血車が来て 友達とノリで始めた献血 気の向いた時しかしないけれど そして、大げさかもしれないけれど 僕でも役に立つことがあった 見返りのない行為に生きている意味を 少しわかったり気がして (ジュースやお菓子はいただきますが……)
砂漠のガーラは 里の人間から恐れられ 孤独の中でしか生きれなかった 額の「愛」の文字は 「自分だけを愛する」の意 そして、敵という孤独が現れ 孤独は孤独と共鳴する そこに繋がりを感じ始めた 心に「友」の文字を刻む
うじゃうじゃを言葉にまとめて できたできた具現化した世界 でもかなり薄まった世界 うじゃうじゃは無限で うじゃうじゃと湧いて出る ひとは僕のうじゃうじゃを知らない 僕もひとのうじゃうじゃを知らない だから一度でいいから ひとのうじゃうじゃを感じてみたい
行き先のない若者は 甘い、と言われ 焦りから逃げるように 心の空洞を囲む頑丈な孤立 若者だった私たちは 突き放すのでもなく 過保護にするのでもなく 固まった感情を溶かすように そばにいてゆっくりと声を待つ
カリスマ詩人さんへ しょっ中お見舞い申し上げます こっちは蒸し蒸し暑くて しかもあなたのいない日々に 汗と涙まみれで過ごしていますよ そちらはどうですか? 相変わらずハワイのビーチで トロピカルカクテルを飲みながら 詩を書いているのでしょうか 今度、日本に帰ってきた時には また、荒川の土手でふたり 朗読会をしましょう テイメイ詩人より
ちょっと太い針だけど 僕でも役に立つことがあった 高校生の時、学校に献血車が来て 友達とノリで始めた献血 そして、大げさかもしれないけれど 僕でも役に立つことがあって 見返りのない行為に生きている意味を 少しわかったり気がして (ジュースやお菓子はいただきますが……)
部屋には鉛筆も紙もありません だから歌っているわけです カラカラ、コンコン、カンカン と、伴奏が僕だけに響いています 無いはずのあったりする世界で やっと笑えた気がしています 誰にありがとうを伝えよう 誰もいないけれど 誰かにありがとを言ってみたい 今、僕は熱くなっています なんとか、の向こう側に ガラクタが歌っています ひとがいなかったり 僕が迷走したりするならば カンカン、コンコン、カンカン と、聴こえてくるわけです ガラクタが歌っています それが救いだったりします 僕の声に笑えた気がしています
僕は今、公園のブランコに座っている 揺らすつもりはないけど たまにキーキーと鳴っては驚く 希望の反対側で見ているのは 翼をつけて遊んでいた景色 間違った道を歩いて走って ここまで来てしまった 誰にも言えない後悔は続いている それなら、の言葉の続きがない 想像さえ消していった日々 僕が悪いわけではない この気持ちがなくなった途端 もっと苦しい日々をめくる 上手に生きようなんて思わないけど もう少し上手く呼吸をしたい でも僕は希望の反対に座っている 後悔に押し潰されては カラダは無重力を知らない 景色は希望を語らない それでも、の続きは鎖が キーキーと鳴って驚くくらい
この日が来たのね やさしいあなたの笑顔や悲しい顔を わたしはいつも見てきたから この二十二年という年月をふり返ると とても感慨深いものがあるわ ちいさい時からきちょう面で わたしを隅から隅まできれいに 拭いてくれたあなた お陰でわたしは心地よく 家族のみんなを映すことができたの 鏡として生まれてきたことに 幸せを感じていたのよ お母さん、わたしが今度 家へ帰ってきた時に 鏡が汚れていたらゆるさないわよ はいはい、わかりました 大丈夫ですよ ずっと大事にしていたのを 知っていますからね わたしもできることなら 一度でいいからあなたのように 涙をながしてみたいそんな気持ちよ 旅立つあなたへ 二十二年間、幸せをありがとうね そしてあなたの幸せをずっと願って わたしはここにいますから さあ、いってらっしゃい 涙を拭いて
はいはい、おっさん むにゃむにゃ愚痴をこぼしながら だらりとぶら下がり 酒臭いのはちょっと勘弁だな 何があったんだかは知らねえけど 飲み過ぎて、腹が出て、臭いのは 俺たちつり革をやっている 身からしたら「情けねえ」って 感じなんだよなあ まあ、いろいろあるとは思うけど おっさんたちは好きで おっさんやっているんだから 随分と恵まれた人生じゃねえか 俺たちつり革の気持ちを 考えたことはあるかい あるわけねえよなあ すべて人間のためだけに存在している 俺たちの気持ちってわかんねえ、だろうなあ まあ、そこはどうでもいいけど もう少しカッコよく生きて欲しいのさ いちおう俺たちも生まれ変わったら 人間になりたいなんて思っているんだからさあ ほらほら、シャキっとしろよ ああ、俺にその脂っこい頭をつけるなって ベタベタで気持ち悪いじゃねえか おっと、ほぼ寝ている感じだなあ しっかりつかまっていないと 膝カックンでぶっ倒れるぞ それにしてもずいぶんとお疲れだね なんだかんだ言っても 頑張っているんだよな、おっさん まあ、今晩は大目にみてやるよ おいおい、そろそろ降りる駅じゃねえのか ほい、シャキっとして 家に帰りなよ そして、ただいまのひと言は 忘れちゃいけねえよ
ひとりでは たいしたことはなく そのたいしたことのないを 知りつつも綴ってゆく それしかなくて それがあれば充分で 大勢のひとたちと創り上げる エネルギーはないけれど 線香花火のように ちりちりと燃えながら なるべく微笑んでいたい それしかなくて それがあれば充分で
環境に影響を受けない 僕のもともとある踏ん張る力が 生かしてくれている 人間という概念から外れた 宇宙にある運命といえるだろう ほら、僕が生きていられる不思議 考えたってわからないだろう どんなに惨めな思いをしても 静かに笑っていられるのさ しなやかに強い心根は変わらない どんな時だって僕は僕に優しい 裏切ることなんて皆無だけど もしも裏切る時があるとしたら 宇宙を生み出したトコロが 僕をゆるしてくれるのだから
詩の締めきりに追われ、やっと詩作から逃げることができた。逃げるといったら詩が嫌いなんじゃないかと思われてしまうか。 でもそこっ、今風(死語?)に言うと微妙って感じなんだよな。縛られる感じで詩を書くのも悪くない。 絞り出せ、絞り出せ、そして頭の回転に歪みが出てきて、それをなんとか軸を真っ直ぐに立たせながら組み立ててゆく。 ちょっと作業? いや、創作、創作と言っておこう。なっ、わけで締め切りから解放されたら何をするかと言うと、やはり詩作をしてしまう。 馬鹿のひとつ覚え、そう詩沢山の日々なんだよなあ。ああ、幸せ。これ、幸せ。それなあ、幸せ。 ♫ 詩作は詩を書く、コツコツコツ、コツコツコツ 詩作〜、詩作〜
「楽器に合わせて歌ってくださいね!」 僕らはみんな鳴っている 鳴っているから楽しんだ 「はい、もうサビだよ!」 ダンボール箱だって お鍋だって ぽんぽんお腹だって みんなみんな鳴っているんだ 楽器なんだ 「さあ、ごいっしょに!」 みんなみんな鳴っているんだ 楽器なんだ〜
先日、埼玉詩人会の詩祭において高校生の朗読を拝聴する機会がありました。学生の表情と声から緊張がとっても伝わってきて、おっさんの私は頑張れと心の中で応援していましたね。 でも学生から言葉の強さが伝わってきます。詩の趣きは日々において模索しながらも進んでいる、といった学生たちの共通した険しい感情を聴くことができ、たいへん刺激を受けました。 詩はやはりどれだけ気持ちが言葉にのっているかだなあ、なんて学生の朗読を聴きながらあらためて感じたわけです。詩を書くという行為より、自分の思いをどれだけ強く持っているかが、詩が活かされる条件であることを気づかせてくれましたね。 詩に慣れてはいけない、ってことでしょうか、反省している私でした。ああ、でも戻れないんだよなあ……(複雑なおっさん心・笑っ)
とある地形を測量していると あることに気づいたのです 測った地形を立体的に表すと あるものが現れてきたのです ここの地面が揺れるのは 地震だとばかり思って…… すぐに私たちは逃げました ぐわっー と、地面は叫び立ち上がったのです 私たちは巨人そのものを測っていたのです
さあ、新しい詩を書こう そう思い意味がわかりにくい 個性のない感じで綴ってみても 新しいくもない詩ができあがり 途方にくれる言葉は 正直であることを教える それなら何を語るため 生まれてきたのだろう、なんて さも自分を強調したのなら 吐き出した無意味が尖り 胸に刺さってくるのだから なかなか詩は使いこなせない それでいい、と言っている自分もいて 所詮は鼻歌のように 気張らず、走らず、怒らず、頬を緩ませ 自然の自分をさらけ出せばそれでいい 詩は自分を越えない言葉しか認めず もし越えたとしてもそれは新しい詩ではなく 詩人が亡くなってから詩が成長するという話だ さあ、いつもの詩を書こう