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栃木県の歴史散歩

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興味深い浅香内8H遺跡

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 黒羽町・不動院裏遺跡の袋状土壙の研究から縄文時代の中期から後期にかけて、食糧の獲得、配分、貯蔵は共同で行われたらしいと考えた。そこで今回は、珍しいタイプの黒羽町・浅香内8H遺跡の袋状土壙から、当時の生活の新しい一側面を考えてみたい。
 この遺跡は、那須黒羽カントリークラプの敷地内にあり、従来その存在が知られていなかった。昨秋、文財化パトロール員の黒羽高教諭小森浩氏が調査して、遺跡が判明した。8Hとはゴルフ場の8番ホールの意味である。
 建設会社の厚意で黒羽町教委が主体となり、県文化課の協力で黒羽高社会部(当時部長 増子美行女史)が緊急発掘した。全山紅葉の美しい11月初旬だった。いま、資料の整理と報告書作りを急いでいる。
 遺跡から発見されたのは竪穴住居跡1基、その東側の狭い地域にかたまって10個の袋状土壙、3個のふつうの穴。住居跡と土壙は意識的に配置されたと思われる程のあり方である。土壙から出土した土器は縄文中期のものだった。
 不動院裏遺跡の場合、土壙群は集落の近くにあり、集落の食糧貯蔵に使われた、と考えられた。が、「8H遺跡」の場合、近くには1基の住居跡しかない。10個の土壙は、この1軒のものなのか。この1軒は共同体から離れたアウトサイダーだったのだろうか。あたかもサル社会の離れザルのような…。
 実はそうではない。竪穴住居は直径4m程の円形で、この時期としては中規模のものだ。しかし、住居内に肝心の炉がない。住居の南に2個所の焼土があり、炉の代わりに使われたらしいが、人が常住した形跡はない。
 しかも、土壙からは4個、あるいは8個の完形土器が発見されたものがあるが、住居内からは1個の完形土器も出土しなかった。日常の生活用具が全く見当たらないのである。こうした住居は、一時的なすまいと考えるほかはない。
 この住居はおそらく土壙の管理、つまり貯蔵食糧の管理棟だったのだろう。8H遺跡は食糧の貯蔵地だったと思われる。集落の本拠がどこにあったのかはわからないが、 一つの候補地は、近くの鉢木遺跡である。
 このように、8H遺跡の袋状土壙は、共同体がその集落の外に食糧基地を持っていたことを示している。このことは、一つの共同体が必ずしも一つの遺跡から成りたっていたとは限らず、いくつかの種類の遺跡から構成されていた可能性を示すとともに、具体的な食糧獲得地域をも示しているという二重の意味で重要である。
 では、この食糧基地で何を獲得して、袋状土壙へ貯蔵したのだろうか。残念ながら、この遺跡でも、それを示す直接資料はない。遺跡からみつかった石器から推察すると、やはり、植物質の食糧らしい。
 石皿や敲石といった石器は調理用具である。従ってこの場所は、単に食糧貯蔵だけでなく、調理までおこなわれた場だったようだ。
 その植物性食糧が、自然のものをそのまま得たのか人間が管理・栽培したものかは、この遺跡でもわからなかった。こうした現状では、この住居が作物の「出作り小屋」の意味もあった、とまで考えるのは早計だろうか。
 8H遺跡の規模を数倍したのが9H遺跡である。いくつか面白い事実をつかむことができたが、そのことはまた次回紹介しよう。それにしても土壙の問題は、用途が決定されれば、こと足れりとしたり、袋状土壙が縄文中期に盛んになるのは、中期の繁栄からみて当然だ、とするような議論がある。
 こうした姿勢と作業から、いったいどれだけの歴史が復元できるのか、疑間このうえない。おそらく実証ということを、事物から言えることを、絶えずその安全圏内で言うことにすりかえてしまったからに違いない。その打開策は、異なった分野間の共同作業以外にはあるまいと思う。

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