※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ヤブツバキは、花芽がいい。この花芽は、「かが」とも呼ばれ蕾になる前の状態。 野生種をヤブツバキと呼び、これから改良された園芸種をツバキと呼び区別する。 海岸近くに多いが内陸でも見かける。又、数は少ないが白花も在り白藪椿と呼ばれる。 日本海側に育つユキツバキも、日本のツバキの原種の一つ。 ツバキ名の由來は、葉が厚いとか艶があることで「厚葉木」「艶葉木」が訛ったとある。 高さ約5m程の常緑高木で離弁花、赤色の花をつける。 花に鳥達が蜜を求めてやって来る。葉は厚く光沢があり、縁に小さな鋸歯がある。 花は一番乾燥した頃に開くため、葉が厚くツヤツヤしている。 果実が厚い皮に覆われ固い、種子も固い種皮で覆われていること等は、乾燥に耐える工夫。 日本固有種で野生種は、本州・四国・九州・沖縄、冬に乾燥する地域でよく見られる。 種子を絞ってツバキ油を採ったり、観賞木とされてきた。 藪に生え、葉につやがあることから「艶葉木」に由来するとか。 花は11月末頃から見られるが、開花が盛んになるのは1月末頃から。 花は直径5~7cmの5弁花。雄しべは多数で花糸が中間部で合着して筒状になる。 雄しべの基部は花弁と合着、花も筒状で離弁花であっても合弁花のように咲いたままの形で落ちる。 花の蜜が多く花筒の底に蜜がたまる。子供の頃、花を取って吸った思い出がある。 サザンカの花は花弁が平開し、雄しべの基部だけが合着し、筒状にならない。 それ故、花後に花弁がバラバラに落ち、雄しべがあとから落ちる。 日本では、縄文時代から生活材として用いられており鳥浜貝塚で石斧の柄や櫛が出土している。 『万葉集』巻12/3101には、 紫は 灰指す物ぞ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に あひし児(こ)や誰(たれ) とあり、当時ツバキの灰をムラサキの根で紫色を染めるときの媒染材として用いたことが知られる。 またツバキは庭にも植えられた。 あしひきの やつお(八峰)のつばき(都婆吉) つらつらに み(見)ともあ(飽)かめや う(植)ゑてけるきみ (20/4481,大伴家持が大原真人今城の宅に宴して「植えたる椿に属(つ)けて作れり」) 江戸時代には、一般にヤブツバキの栽培が広がり、多くの観賞用品種が作られた。 安楽庵策伝『百椿集』(1630)には100、伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)には229、 『椿花図譜』(元禄(1688-1704)年間)には600以上の、品種が載る。 * * * * * 「大寒」の頃、落ちたやぶ椿の花弁を縁側にかざって、お汁粉を食べるのが楽しみだった。 昭和30年代、火鉢や堀炬燵で暖を取るのが普通のことだった。 炭火を遊ばせる事なく、時間をかけてコトコト煮物をする。それが晩ご飯のご馳走に。 又、小豆を煮て、鏡割りの残り餅を焼いて作った汁粉がおやつでもあった。 親子の会話; 乾燥豆は種類によって煮方が違うと教えられた。 白餡の原料白インゲンや大豆、えんどう豆は水につけ十分に吸水させてから本格的に煮る。 が、小豆や大角豆、大正金時やとら豆、うずら豆は、下煮するだけで柔らかくなる、と。 でも小豆が柔らかく煮えるまでは30~40分はかかる。火鉢を囲んでの会話を持ったものだ。 我が母の郷里は北海道(函館)、戦後の昭和20年代から豆類・芋類が、親戚より届いた。 母の話によれば、自家の畑で採れた豆の中から種子用豆を選ぶのが冬の間の大切な仕事だったとか。 豆類の栽培歴史は古く永禄5年(1562)頃には函館・旧渡島国で五穀栽培の記録がある由。 渡島国の松前藩は、その頃すでにアイヌ交易を行なっていた由。 アイヌの人達にとっては迷惑なことだったとも聞いたことがある(伯父は郷土史家)。 開拓とは、原住民との間で軋轢もあった、と感慨をもつ。 アイヌの人たちが守り伝えてきた豊かな大地をもっと大切にすべきと、脳裏をよぎる。 「鎌倉市稲村ヶ崎2017/1/19」 ※ ※ ※ ※