《雅羅・/・ 襍囈〝干支・辰〟  ❖ ’24-25 ❖》

浅草・浅草寺・雷門
雷門大提灯から仲見世方向、奥が浅草寺。
大提灯の底面・龍画。
《 辰・・龍!! 》
今年は、辰年・・龍の歳。身近に、昔は相模國江島と言われた藤沢江ノ島がある。
其の江ノ島に鎮座おわします、三姉妹神。今年の初詣は、さぞ賑わった事だろう。
江島神社に祀られている女神様、
田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)、
市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、
多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、
この3姉妹は海を護る女神様で元々江島明神と呼ばれていた。
が、仏教との習合で弁財天女となった。
今では海を護るに留まらず、幸福招来、芸事上達にもご利益があるとされる。
江島神社の初詣、久しくしていない。
更には、正月三日の東京初詣、箱根駅伝の復路ゴール観戦にも行っていない。
昨今は、携帯で実況中継を見れる。走り去る一瞬を見なくても満足できる。
以前は駅伝ゴール観戦後、神田明神から湯島天神そして浅草寺へと詣でた。
浅草寺・仲見世通り入り口の雷門。中央の大提灯は、なんとも圧巻で!!
大提灯の底を見る人は少ないだろうが、見事な龍が描かれている。
今年の辰年にあやかって、拜しに参りたいと思っている。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月25日、記」
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《雅羅・/・ 襍囈〝狂い咲き ??〟  ❖ ’24-24 ❖》

ウキツリボク(浮釣木) アオイ科 (Malvaceae) 
学名:Abutilon megapotamicum A.St.Hil. et Naudin 
別名:アブチロン・メガポタミクム、チロリアンランプ
《おとぼけなのか、季節を勘違いしたのか・・木 花?? 》
ウキツリボク(浮釣木);
季節の前倒し・・勘違い・・間違えた?? 
浮釣木に花がついている? 一輪だけ。葉も繁々と。
温暖化なんて云いたくない。気温の上下が激しい時ってあるだろう。
長いスパンで見ると温暖化と言う程ではあるまい。
自然界は、厳格なはずだが、微妙な変化に植物は率直に反応したか。
驚きを以ってしばし立ちすくんでしまった。それにしてもかわいい。

だが人間界は、安易な方向に向かってはいまいか??
美的感覚に偏り、服飾・ファッションに心を寄せ自然に背を向けた?
動植物に見習う所が多々ある、と思ってやまない。
ペットに衣装を着せ、、、人間のエゴ横暴と映る!?!
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月24日、記」
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《雅羅・/・ 襍囈〝一瞬の姿??〟  ❖ ’24-23 ❖》

《 画になる富士嶽!! 》
冬場の富士嶽、遠き湘南の海岸より見ゆる姿、強風が手にとって見ゆる。
風が強い、駿河・相模湾、太平洋からの吹き上げる風。冬場の特徴である。
麓の富士五湖に映る富士嶽の優美な姿、訪れた人々を魅了してやまない。
真冬のある時、ある一瞬、風が止んだ時、湖面に見事な鏡富士が現れる。
これが、云うに云われぬ静寂な、なんとも云えぬ魅せる光景だ。
これを狙って愛好撮影者は、あとをたたない。一瞬をもとめて・・・!!
旅って、旅先で出会える一瞬の妙!!然るにスチール写真は止められない。
一瞬だから・・・一瞬を求めて旅にでる。一瞬ってドキドキだ。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月23日、記」
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《雅羅・/・ 襍囈〝垣根の花??〟  ❖ ’24-22 ❖》

《 綺麗に咲くも見分けの付かない樹花?? 》
寒椿・侘助・・・寒椿と山茶花は、一見すると見分けがつかない。
散る姿、地に落下した花弁、姿を見た時!!
これぞ・・!!と知る。自然界の妙に驚きを隠せない。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月22日、記」
 
 
 
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《雅羅・/・ 襍囈〝1980 ??〟  ❖ ’24-21 ❖》

懐かしい。1980年代!!
段返りラペル。好んで着てる、今でも。
《 正統派?? 米国・男性服飾メーカーのカタログ 》
昨年末より納戸のダンボール箱(沢山ある)を整理してる。
探しものがあるのだが、目的のものがいまだ見つからない。
少々困っているのだが、懐かしいものが出てきた。
画像がそれ!!1980年の服飾カタログ。
若い頃から憧れ続けてる米国の服飾ブランド。
米国ニューヨークに本店がある“Brooks Brothers”。
伝統的ファッションメーカーの代表的存在である。
何点か大切に今でも着ている。数十年前のものばかり。
好みゆえだが、今でも古めかしい感覚を持たない。
日本のメーカーは、長く継続してるところは???
温暖化とやらで、厚手のコートを羽織る機会がない。
今日は、久し振りにネクタイを締めての会合があった。
服飾製品、昔のものは丁寧に作られている。
今や、背広の語源、セビルロー式な裁断のスーツを見ない。
時代とともに変わっていくが、ユニクロの如く復古調!!
微妙に変化はしている。でもトラディショナル感覚は好きだ。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月21日、記」
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《雅羅・/・ 襍囈〝款冬華〟大寒  ❖ ’24-20 ❖》

フキノトウ(蕗の薹) キク科 (Asteraceae /Compositae) 
学名: Petasites japonicus (Sieb. et Zucc.) Maxim.
※ 蕗の薹 とは、蕗の若芽のこと ※


廿日団子。
 
《 弐阡弐拾肆年壱月廿日!!》
歳をとったからなのか!! 否、偏屈なのか、古い事柄等に拘りを持っている。
漢字にしても旧字体を大切に感じ、あえて使ってみたり。
子供頃から家にあった辞書を未だに使っている。昭和七年(1932)二月発行。
親爺の辞書だが、書斎に行っては辞書を参考に勉強した(親爺は不在がちだった)。
 
今日は、大寒。“二十日正月”とも呼ばれる日で正月最後の日とされて来た。
正月最後として納めの行事を行う。骨正月、骨おろし、頭正月等とも呼ぶ。
資料によれば関西では「二十日正月」、関東では「正月納め」と呼ぶらしい。
大寒“初候”の頃を款冬華(ふきのはなさく)と表現していた。
款冬(ふきのとう)が顔を見せ咲き始める頃を云う言葉。“和”を感じさせる。
寒さが厳しい大寒の時期に徐々に冬の終わりへ向かう様を見せる事象。
この大寒頃に、冷水や空気を有効に利用する知恵、古来から行われている行事。
小寒から大寒の時期に水を汲む行事を「寒の水」と呼んだ。
寒の水は、冷え込む時期に汲む為、雑菌の腐敗がなく清らか、体にも良い。
保存性に優れる寒の水は、寒い時期に仕込む味噌、醤油、日本酒作りに適した。
又、心身を清める力があると考えられており寒の水を直接飲む風習も残ってる。
日常生活の中では、大寒の頃に寒餅と云う自然乾燥させた餅を作ったりもした。
この餅のことを「かきもち」や「こりもち」とも呼んだ。中には着色された餅も。
寒の水で炊いた餅を使って作ると健康に過ごせるともいわれ家庭で作ったものだ。
二十日正月に食べるものに、「二十日団子」というものもあった。
小豆団子と呼び、「小豆粥」と同様、「厄除け」「無病息災」を祈ったものだ。
和菓子屋さんで売っていたものではない。生活の知恵、余り物の活用だ。
お供えを細かく砕き乾燥させサイコロ状にして揚げて頂いた覚えもある。
又、祝い事や行事の時、福茶を頂いたが、昨今はとんと頂いていない。
二十日正月と云う正月の終わり“節目の日”家庭的に継承したい行事である。
毎年1月20日に、正月お迎えした歳神様(年神様)がお帰りになる日。
正月納めをする日等と我が孫たちには伝えたい。そして継承して欲しい。
「令和陸年(皇紀2684年)1月20日、記」
 
  
 
 
 
 
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《雅羅・/・ 襍囈〝忘見花〟木  ❖ ’24-19 ❖》

〝夢待桜〟:
登録品種データベースより;
農林水産植物の種類 Prunus L(サクラ属)和名:夢待(よみ:ユメマチ)観賞樹
 登録品種の名称, 夢待 (よみ:ユメマチ ). 出願公表時の品種名称. 出願番号, 24847.
樹形は盃状、樹高は亜高木性、樹幹の色は灰褐色、皮目の多少は中、
枝の太さは中、枝の色は灰褐色、分枝性は中、葉の全体の形は楕円形、
葉の先端の形は尾形鋭尖形、葉の基部の形は円形、葉縁の鋸歯の深さは中、
葉の鋸歯の形は単鋸歯、葉の鋸歯の先端の形は芒形、葉の長さは中、葉の幅は中、
葉の厚さは中、蜜腺の有無は有、蜜腺の位置は葉柄上部、花序の形は散房状、
花序の花数はやや多、蕾の色は64B、花の向きは横向き、花の形は一重咲、
花の開き方は平開形、花の大きさは中輪、花の色は65C、
花弁全体の形は円形、花弁の先端の形(切れ込みの多少)は少、
花弁の基部の形は鈍形、花弁の脈の色は目立たない、花弁の数は約5、
雌ずいと雄ずいの長さの比較は同、雄ずいの数は中、がく筒の形は盤状形以外、
盤状形以外のがく筒の形は鐘形、がく筒の毛の多少は無、がく裂片の形は長卵状三角形、
花柄の長さは短、花の香りは殆ど無、通常開花期は極早である。
(カラーチャートはRHSを使用)
 出願品種「夢待」は、対照品種「カワヅザクラ」と比較して、
花の向きが横向きであること、
花弁の長さが中であること等で区別性が認められる。
対照品種「カンザクラ」と比較して、花の大きさが中輪であること、
花弁全体の形が円形であること等で区別性が認められる。
以上、データベースより。
「夢待桜」は、伊豆大島の故尾川武雄氏が作出した新種の桜。
美しい姿形と優しい色合いが特徴で、
正月頃に満開になる「おめでたい桜」として知られる。
*       *       *
冬に咲く桜、十月桜・寒緋桜・寒桜・子福桜等々、総じて冬桜と呼ぶ。
しばらく前、藤沢市にある長久保公園に“夢待(よみ:ユメマチ)”
なる桜の若木が植栽されているのを見た。1月上旬に咲くとされる。
未だ実際に花に出会っていない。今年も見に行けなかった。
若木も成長したことだろう。来年は是非に見に行きたい。
画像を探したが見つからず、登録に提示された画像を借用した。
 
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月19日、記」
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《雅羅・/・ 襍画〝希少白花〟植物  ❖ ’24-18 ❖》

ウチダシクロキ(打ち出し黒木)   ハイノキ科(Symplocaceae)
学名:Symplocos kawakamii 
別名:オガサワラクロキ
  《 限られた場所に見える絶滅危惧種の花!!》
ウチダシクロキは、東洋のガラパゴスと称される東京都小笠原諸島の父島のみに生育するハイノキ科ハイノキ属の常緑低木です。小笠原諸島に生育する同属植物として、他にチチジマクロキ、ムニンクロキがあり、これら3種類の先祖から適応放散によって分化したものと考えられています。ウチダシクロキは岩石が多い感想した斜面に生育しています。乾燥した場所は多くの植物にとっては生育には適した環境とは云えないでしょう。ウチダシクロキの葉は、縁が内側に巻こまれた厚い皮質で、表面には深いしわが刻まれています。また枝は、著しく張り出した翼状の稜がついています。長い進化の過程でウチダシクロキは、乾燥した環境の中で生き残る術を身につけていったのでしょう。戦前からすでに個体数が少なかったと報告されているウチダシクロキですが、1980年の夏の厳しい旱魃(かんばつ)によって、乾燥に強いウチダシクロキさえ、大きな株が何本も枯れてしまったそうです。さらに近年の乾燥化によって、ますます個体数は減少しています。また、ウチダシクロキを絶滅に追いやるもう一つの要因が父島に生息するノヤギの増加です。低木であるウチダシクロキは、ノヤギにとって食べやすい高さに葉があります。場所によっては、ウチダシクロキを選んで食べている様子さえあります。環境省では、保護増殖事業を実施しており、ノヤギの食害防ぐため、ウチダシクロキの周りに柵を設置しています。その他、保護増殖事業では野生復帰のための人工繁殖にも取り組んでいます。元々限られた場所にしか生えない植物が環境の変化によって固体数を減らし、外来生物のノヤギによって選択的に食害を受けるという、二重の圧迫を受けて絶滅にひんしています。以上環境省資料より。
 
東京都文京区 小石川植物園(温室)で生育中;2024・01・13
小笠原諸島の父島にのみ生育する高さ0.5~2mの常緑低木。葉は楕円形で厚く、縁が裏面にカールする。葉腋に白い小さな花を数個つける。花冠は5深裂し、雄しべ多数。小笠原諸島には同属の植物として、本種の他にチチジマクロキとムニンクロキがある。花期は11月頃。
花冠は白色で5深裂し、長い雄しべが多数あるので見栄えがします。ハイノキ属の花は小さくて、白色・5深裂・長い雄しべのものが多いようです。(例:ハイノキ、サワフタギ、クロキ等)
ウチダシクロキは小笠原諸島の父島にのみ生育する希少植物です。レッドデータブックによりますと絶滅危惧ⅠA類(CR):「ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの」となっております。
なお、小笠原諸島のハイノキ属には本種の他にも「ムニンクロキ 絶滅危惧ⅠA類(CR)」と「チチジマクロキ 絶滅危惧ⅠB類(EN)」の2種があります。
葉は楕円形で厚く、縁が裏面にカールしています。いかにも乾燥に強そうな葉です。
東京都文京区 小石川植物園資料より。
*       *        *
余り人目に触れない場所に珍しい植物が生きている。なんとか保護して頂きたい。楚々として魅せる野草だ。
通常は、11月頃に花を付けるようだが、
温室では今の季節でも見られる。
 
「令和陸年(皇紀2684年)1月18日、記」
#ブログ #希少植物

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《襍・/・囈“叛逆のろれつ;国交??”❖’22-83》

芒のようにさり気なく魅せた、故安倍晋三元首相。
安らかにお休みください。 合掌

令和時代中に、より良き時代になるように。。!
かつて、黄金の国・ジパングと言われた日本。米文化に幸あれ。
《“感動”安倍晋三的戦略❖’22/09/30》
安倍晋三元総理の国葬儀も無事に終わった。二日後の09/29は、歴史的日である。
1972(昭和47)年9月29日、日本と中華人民共和国は、国交正常化共同声明調印式が北京で行われた日。
この国交正常化以降、日本から中華人民共和国へODA(政府開発援助)が実施された。
総額3兆円を超えた額を援助したと聴いている。が、今の日本と中国の不協和音なんだろう?
日本は、毅然と隣国に対峙すべきだ。日本が軍国化してるなどと戯れ言でしかない。
途上国から世界第2位の経済大国にのし上がった中国の方が大問題と言えよう。
軍事力の増強を進め、覇権主義的なふるまいを隠さなくなった中華人民共和国。
我が日本と東アジア、インド太平洋地域の平和を如何にして保つか?
防衛・経済・学術分野も含めて如何に対するかを真摯に検討すべき時と肝に銘じたい。
戦争の傷を癒やし、中国との安定した友好を築こうとした日本の希望は完全に逆方向に。
中国共産党政権は、日本の支援を利用し国力増強し、強面(こわもて)姿勢を日本に向けている。
日本固有の領土である沖縄県尖閣諸島の奪取に野心をみせているではないか。
海警局船の領海侵入や接続水域に徘徊を常態化させていることをメディアは取り上げない。
台湾併吞(へいどん)を視野に入れ、これに懸念を示す日米などの国際社会も威嚇する。
中国が対外強硬姿勢や国内の人権弾圧を改めない。日本の安全保障、我が政治家たちは???
平和を脅かす大国に手を貸してしまった事を日本は反省しなくてはいけない。
日本の痛恨の極みは、1989年の天安門事件を巡る対応だ。
民主化を求める学生を戦車で蹂躙する弾圧を行った中国は国際社会の制裁を受けたのだが!?!
日本政府は、真っ先に経済支援を再開し、孤立からの脱却を助けた。
専制主義のまま中国は自由貿易の恩恵に浴しながら、不公正な貿易慣行は改めなかった。
日本政府が防衛力の抜本的強化策の検討を進めているのは、対中抑止を、平和を守るためだ。
日本の防衛努力、経済界や学術界の思考・意識、対応は大変に遅れをとっている。
学術の世界に関しては少し分かり得る小生には、甚だ疑問を持つことがある。
経済安全保障・新疆ウイグル自治区での強制労働等の人権問題を真摯に考えるべきだ。
経済安保の観点で、軍事転用が可能な機微技術を国外流出を防ぐことは重要なことだ。
しかしながら日本学術会議が、軍民融合を掲げる中国側と協力促進を図る覚書締結をしている。
国交正常化50年を機に日本のなすべき対処、対中関係の根本からの見直し。
国交正常化50年を期に日中友好の根幹を見直すべきである。

以上のよう思考を持つ小生だが、この思考は如何に???と報道記事を読んでいると、、。

YAHOOニュース(web版)の記事を見つけ(以下)、思う所、大である。

※   ※   ※   ※   ※   ※   ※

日中正常化50年、中国共産党の本質を見誤った瞬間;
日本と中国の国交正常化から50年を迎えた。
岸田文雄首相と中国の習近平国家主席は9月29日に祝電を交換したものの、
経団連などが開いた記念行事に岸田首相が出席せず、
中国側の記念式典も5年前より実質的な格下げした会場での開催となった。
米国のペロシ下院議長の訪問に端を発した台湾周辺の緊張状態など日中関係の冷え込みが影響しているとみられる。
日本は中国とどう付き合っていくべきか。
さまざまな課題や対応策が取り沙汰されているが、
中国共産党の本質を見ない限りは解を見出すことは難しい。
そのためには、天安門事件が起きた1989年にさかのぼることが必要だ。
そこで、2022年7月19日に本サイトで掲載した記事を再掲する。
日中両国は9月29日に国交正常化50周年を迎える。
8月2~3日、ペロシ米下院議長の台湾訪問に激怒した習近平国家主席は弾道ミサイルを次々発射し、
うち5発を日本の排他的経済水域(EEZ)内に着弾させ、対日威嚇を強めた。
日中高官は8月17日、天津で7時間にわたり協議したが、緊張はなお続く。
友好と対立が交錯した50年間の日中関係の「分水嶺」はどこかと尋ねられれば、
共産党が存亡の危機に瀕した1989年の天安門事件での日本政府の対中政策だろう。
日本政府はあの時、一党独裁体制の維持のためには人民の流血も厭わない共産党の本質を見誤ったのではないか。
「民主化」に進むか「強権国家」のままか筆者は、秘密指定を解除された日本の外交文書と、
当時の外交官の証言を基に7月に『天安門ファイル―極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』
(中央公論新社)を上梓した。序章にこう記した。
「天安門事件前夜は、中国が最も民主主義に近づいた瞬間だった。
それが6月3~4日の武力行使によって崩れた。
6月4日以降、外交官たちは次のことで悩み、中国共産党の本質をつかもうとしたに違いない。
中国は改革開放が進めば、民主化や自由化に進むのか、あるいは、もともと市民に銃口を向け、
実際に発砲することもためらわない強権国家なのか――。
贖罪意識を強く持ち、『友好』と『協力』を主流とした戦後日本の対中外交にとって『分水嶺』であった」(中略)。
日中国交正常化の大失敗は台湾との断交という交換条件を呑んだことと、
「鄧小平の神格化」により天安門事件後の対中制裁を解除したことだ。
それにより中国の強大化を招き、日本は中国への経済依存を今も強化している。(以下略)
日中国交正常化の報道をするなら、こういう重要なポイントに注目しなければならないが、
どのメディアもそのようなことはスルーしている。
林外相は29日のレセプションで、中国に対して「言うべきことは言う」と言いながら、
「日本が言えなくなる状況」を創り出すことに専念していることに気が付いているだろうか?
言ったところで、「遺憾です」くらいのことで、中国にとっては痛くもかゆくもない。
中国という国家が、どれだけ戦略的に動いているか、日本は分かっているのだろうか?
この戦略性の欠如が中国を強くさせ、
最終的には日本国民に「言論の弾圧」という見えない手段を通して不幸をもたらすことにつながっていく。
そのことに対する警鐘を鳴らし続けたい、と。
言ったところで、「遺憾です」くらいのことで、中国にとっては痛くもかゆくもない。
中国という国家が、どれだけ戦略的に動いているか、日本は分かっているのだろうか?(中略)
その視点から見たとき、日本の戦略性の決定的な欠如と甘さには、耐えがたいものを覚えるのである。
中略。最終的には日本国民に「言論の弾圧」という見えない手段を通して不幸をもたらすことにつながっていく。
そのことに対する警鐘を鳴らし続けたい。
ーー遠藤誉;中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士ーー


この10年、安倍晋三元首相の外交戦略は、味方も敵にも真摯に対応していた。中国・ロシアを思う。
而して北朝鮮・韓国に対しても緻密な外交戦略を繰り広げた。途半ばで倒れた安倍さん痛恨の極みだ。


ド素人の小市民だが、故安倍晋三元首相の凄さを実感し、心より哀悼の意を捧げます。



「令和肆年(皇紀2682年)9月30日、記」
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《襍・/・囈“叛逆のろれつ;報道??”❖’22-82》

憲政史に残る、弔意文だろう。故前総理への後継総理の弔意文。
安倍晋三総理、そして官房長官であった二人三脚は、凄かった!!


身近な土手に咲く、白曼珠沙華。故安倍晋三元首相の如く繊細だ。




《“感動”菅義偉前首相の弔辞❖’22/09/27》
9月27日に営まれた安倍晋三元首相の国葬(国葬儀)に際して感じたこと。
NHKの報道番組に呆れる以上に怒りを覚え、而して日本人として恥ずかしかった。
NHKは、受信料を徴収する放送局だ。公平な事実放送のはずが、偏向してる!?!
異国の友は、ネット報道で色々と知ったと逆に教えてくれた。如何ともし難い。
国葬儀に際して、一般献花の場に長蛇の列が長時間にわたって続いた、と。
友達からの連絡、画像を観て嬉しかった。献花者に若者が多かった、事!!。
9/28朝の地上波局番組の一つを見ると、葬儀批判が前提で報じているように映った。
批判は自由だ。が、葬儀会場近くでの小さな反対デモを大きく報道するがよしか?
日頃TV番組を見ない僕だが、聞き及ぶメディアの偏向ぶりを実感し、腹立たしく思った。
語っておられる方々は、さぞ高名な方々なのだろう。上から目線で客観的でない??
今回の国葬儀、吉田首相の時とは、諸々置かれた環境が違うだろうに。
後期高齢者年代、且つ70年安保を体験し勉強をもしたつもりの者として言いたい。
この30年余り静観的に事象を見聞してきたが、安倍晋三元首相の行動に畏敬の念を持つ。
国葬儀の最初に映し出された映像は、安倍総理の足跡・人柄そのものだろう。
日本国民への遺言にも見える。直近の課題提示でもあり国民に向かっての提示と思えた。
その基を、菅義偉前首相は友人代表として追悼の辞で示しておられた、と思う。
菅さんは、安倍さんとの出会いや第2次安倍政権時代の日々を振り返り、
「あらゆる苦楽を共にした(第2次安倍政権での)7年8カ月。
私は本当に幸せでした」と述べられた。未来に向かって進まれたお二人に敬意を表したい。
菅さんの追悼の辞の後、大方の会葬者自身の気持ちが、“拍手”であったと思う。
場違い、と批評すべきではないだろう。“拍手”を演出と宣った輩の非礼は目に余る。
演出と発言した、TV朝日の社員が今朝の番組で訂正謝罪した由。
この玉川徹なる人物、番組を使って言いたい放題、と家人から聞いた。
一コメンテーターなら個人の責任で済むが、TV朝日の社員、それもベテランの??
玉川徹なる人物のここ数年のコメントを調べてみるといい加減さ独断・偏見が多々あった。
正確な事実に基づく取材の発露に乖離する発言、地上波TV全体が歪んでいるとも思える。
野党の政治家にして然り。事実・公平の上にたって主張をして頂きたい。
リベラル派とか謳ってネットでコメントしてる面々、他人に厳しく、己にやさしい??
近々国会が開かれるが、不毛だった、もり・かけ議論を再度、旧統一教会問題でやらないで頂きたい。


僕自身、己の忘備録として、菅氏の追悼の辞の全文を記録しておきたい。



※   ※   ※   ※   ※   ※   ※



《◇7月の8日でした。信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。
あなたにお目にかかりたい。同じ空間で同じ空気を共にしたい。
その一心で現地に向かい、そしてあなたならではの温かなほほ笑みに、最後の一瞬、
接することができました。あの運命の日から、80日がたってしまいました。
あれからも朝は来て、日は暮れていきます。
やかましかったセミはいつのまにか鳴りをひそめ、高い空には秋の雲がたなびくようになりました。
季節は歩みを進めます。あなたという人がいないのに、時は過ぎる。
無情でも過ぎていくことに、私はいまだに許せないものを覚えます。
天はなぜ、よりにもよってこのような悲劇を現実にし、
生命(いのち)を失ってはならない人から生命を召し上げてしまったのか。口惜しくてなりません。
悲しみと怒りを交互に感じながら、今日のこの日を迎えました。
しかし、安倍総理とお呼びしますが、ご覧になれますか。
ここ武道館の周りには花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、
たくさんの人が集まってくれています。20代、30代の人たちが少なくないようです。
明日を担う若者たちが大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。
総理、あなたは今日よりも明日の方がよくなる日本を創りたい。
若い人たちに希望を持たせたいという強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。
そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲き誇れ。これがあなたの口癖でした。
次の時代を担う人々が未来を明るく思い描いて初めて経済も成長するのだと。
いま、あなたを惜しむ若い人たちが、こんなにもたくさんいるということは、
歩みをともにした者として、これ以上にうれしいことはありません。報われた思いであります。
平成12年、日本政府は北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。私は当選まだ2回の議員でしたが、
「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、
自民党総務会で大反対の意見をぶちましたところ、これが新聞に載りました。
すると、記事を見たあなたは「会いたい」と電話をかけてくれました。
「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれればうれしい」と、そういうお話でした。
信念と迫力に満ちたあの時のあなたの言葉は、その後の私自身の政治活動の糧となりました。
そのまっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は直感いたしました。
この人こそはいつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。
私が生涯誇りとするのは、この確信において、一度として揺らがなかったことであります。
総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。
そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選出馬をずいぶんと迷っておられました。
最後には2人で銀座の焼鳥屋に行き、私は一生懸命、あなたを口説きました。
それが使命だと思ったからです。3時間後にはようやく、首をタテに振ってくれた。
私はこのことを「菅義偉、生涯最大の達成」として、いつまでも誇らしく思うであろうと思います。
総理が官邸にいるときは欠かさず、一日に一度、気兼ねのない話をしました。
今でも、ふと一人になると、そうした日々の様子がまざまざとと蘇ってまいります。
TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉に入るのを、
私はできれば時間をかけたほうがいいという立場でした。
総理は「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、
どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。一歩後退すると勢いを失う。
前進してこそ活路が開けると思っていたのでしょう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。
安倍総理。日本国はあなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、
特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など難しかった法案を、
すべて成立をさせることができました。どの一つを欠いても、わが国の安全は確固たるものにはならない。
あなたの信念、そして決意に、私たちはとこしえの感謝をささげるものであります。
国難を突破し、強い日本を創る。
そして真の平和国家日本を希求し、日本をあらゆる分野で世界に貢献できる国にする。
そんな覚悟と決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは常に笑顔を絶やさなかった。
いつもまわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。
総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした。
私だけではなくすべてのスタッフたちがあの厳しい日々の中で明るく生き生きと働いていたことを思い起こします。
何度でも申し上げます。安倍総理、あなたはわが国、日本にとっての真のリーダーでした。
衆議院第1会館1212号室の、あなたの机には読みかけの本が1冊、ありました。
岡義武著『山県有朋』です。ここまで読んだという最後のページは、端を折ってありました。
そしてそのページにはマーカーペンで、線を引いたところがありました。
しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、
故人をしのんで詠んだ歌でありました。
総理、今、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」
深い悲しみと寂しさを覚えます。
総理、本当にありがとうございました。どうか安らかに、お休みください。
令和4年9月27日 前内閣総理大臣 菅義偉》


「令和肆年(皇紀2682年)9月29日、記」

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