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信仰とは何か What is faith?

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信仰とは何か What is ...

2020年9月20日日曜日礼拝


今週は、信仰についていろいろと考えさせられる週でした。
私の仕えているシェルターで、ロックダウンの中で教会に行けないけれども、イエス様を信じて救われた人がいます。その人は、神を心に信じるようになり、みるみる変わっていきました。中毒からのリカバリーも、心の癒しも同時に良い経過を見せています。つくづく神に根差して人生を見るとは、こうも力強いのかと思わされました。
また、今週は、私たちの家族に悲劇が起きました。目の前にある状況は悲惨なものです。しかし、私の腹の奥底には平安があり、神を強く信じる信仰で、考えが守られています。
信仰とは、エペソでは、大盾と表現され、いろいろな攻撃から身を守るものになぞらえられてしますが、本当に、霊の戦いの大原則であると痛感しています。
先週は、アブラハムについて話しました。アブラハムは、信じて義とされた信仰の父です。
ロマ4:3
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。What does Scripture say? “Abraham believed God, and it was credited to him as righteousness.”
ロマ4:5
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。However, to the one who does not work but trusts God who justifies the ungodly, their faith is credited as righteousness.

私達は、往々にして何かを欲しいから信じると言いやすいものです。義とされるために信じる。とか。しかし、アブラハムは、信じたから、義とされたのです。義は、信仰の報酬ではないのです。私たちは、信じるとき、どう、何を信じているのでしょうか。Faith is not a work!!! 信仰は自分の働きではない。

今日は、信仰について考えてみたいと思います。聖書を開きましょう。へブル11章です。

★信仰とは。。。Faith is…
ヘブル11:1
信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.
ヘブル11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。2 For by it the elders obtained a good testimony.
ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 But without faith it is impossible to please Him, for he who comes to God must believe that He is, and that He is a rewarder of those who diligently seek Him.
ヘブル11:39,40
この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。And all these, having obtained a good testimony through faith, did not receive the promise, 40 God having provided something better for us, that they should not be made perfect apart from us.

●信仰 Faith
ギリシャ語 ピスティス=believe, trust, trust in, put faith in, rely upon / 信じる、信頼する、~に信仰を置く、~に頼る) と言う意味。ただし、人間が自分の信念を信じとおすという意味ではなく、神との関係において信じるということ。神を信じるという意味が前提にある。
1) A firm conviction 強い確信 
2) a personal surrender to Him 神様への降伏/完全に身をゆだねること
3) a conduct inspired by such surrender 神に完全に身をゆだねることによって霊感された行為
「保証し」は、英語では、substance 実体。望んでいるそのものの実体とえる。そして、ギリシャ語では、hupostasis/hypostasis from hupo/hypo = under + histemi = stand 「下に 立つ」ですから、建物の土台というような意味。決して揺るがない確信とも言える。
「目に見えないものを確信させる」まだ、目に見えないものの証拠である。と英語ではいう。私たちは、肉の目で見るものによって左右される。恐れが入ったりする。しかし、信仰というのは、いわば、霊の目である。肉の目で見えないものを見ることである。そして、それを見ながら行動することである。

聖書が語る信仰は、「ペンが落ちることを信じます」と念ずることでなく、「ペンは落ちます」と確信していることです。「そのとおりである」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中で体験されていることになります。
ですから、信仰とは、神がいる、ということを信じ、神は、信じる者に報いてくださる、ということを霊の目で見ること。

◎わたしの献身の証し。私はこれがはじめ理解できないなかった。神様は、それをまず理解させるために試練を通して下さったと今気づく。。。。

●賞賛された-素晴らしいと証明された  Obtained a good testimony
ヘブル11:2
昔の人々はこの信仰によって称賛されました。2 For by it the elders obtained a good testimony.
とあります。日本語では。私たちは、賞賛を受けるなら、何か大きな歴史をこの世に残した。とかより大きな成功を収める人は賞賛される。より多くの金額をチャリティーに捧げるなら賞賛されるなどと思いがちですが、聖書には、「昔の人は、この信仰によって賞賛された。」とあるのです。そして、英語の聖書では、2 For by it the elders obtained a good testimony. 良い証しを得たとあります。証しとは、自分のストーリーではなく、神様がどんなに私に良くしてくださったかを話すこと。また、神様がどんなに働いて私を変えてくださったかを話す。神様の栄光、神様の素晴らしさを話すことです。聖書の昔の人々は、神様を信じて、信仰による行動によって、神様の栄光のストーリーを世に残したのです。
ですから、ポイントは、私が何をした、何を得た、何を達成したかよりも、私の人生の中に、神がどう働かれたのか、が注目点となります。

★リスクTaking a risk
私達は、神を信じる時には、リスクが伴います。それは、み言葉が、彼に信頼するものは失望させられることはない。とあるにも関わらず、失望を恐れることです。すなわち、神に裏切られるのではないか、という気持ちを乗り越えなければならないことです。
ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 But without faith it is impossible to please Him, for he who comes to God must believe that He is, and that He is a rewarder of those who diligently seek Him.

私たちの、世界には、さまざまな出来事や環境があり、それらを通して、この世に神がいないのではないか。と神を疑るようになる。また将来を恐れる。恐れと、疑いは、信仰の反対。否定的なことを信じることです。しかし、恐れは、神様の世界にはありません。全き愛は、恐れを締め出すPerfect love cast out fear。なぜなら、恐れには刑罰がともなう。とあります。私たちは、罰せらることがないのですから、There is no condemnation in Christ!!! キリストにあっては罪に定められるとはない。恐れる必要はないのです。また、神様の完全な愛の中にいて、ものごとを信じて行っているのなら、恐れる必要はないのです。神様は、愛です。しかし、私たちをゆすぶるような試練がやってきます。その時、自分がどなたを信じているか挑戦されているのです。
信じるものに必ず報いてくださる方を私たちは、信じているのです。このお方を信じて、信頼して、辛いことがあっても、神様は必ず、おられ、わたしたちを助けてくださると信じましょう。

◎ある献身者の証し:アメリカに留学に行くためのお金が無かった。しかし、アメリカに行くのは神の御心であると信じていた。口座には二万円。それを全部、聖会にお金が無くて行けないという、神学生の友達に上げた。彼は、祈り続けていた。結局、兄の結婚資金を泣く泣く借りて旅立とうとした、が、しかし、出発当日、アメリカでの生活費が全部与えられた。Because he believed God.

☆このV7-38 節までは、聖書にでてくる、さまざまな人たちの証しが書かれています。彼らも、神様を信じて、いろいろな試練に合い、また打ち勝ち、神様の栄光のストーリーを残して死んで行った。
信仰によって捧げたアベル、信仰によって、箱舟を建て、今まで雨も降ったこともないのに、箱舟を作ったノア。信仰によって捧げた自分の考えではなく、神様の御心にしたがって、行動した人々。アブラハム、イサク、ヤコブ。信仰によって、この世の富を捨て、苦しむことを選んだモーセ。拷問を受けた人たち。
彼らは、信仰によって、自分の恐れ、自分を信じることよりも、神を信じることに専念していきました。神を信じて、人に馬鹿にされることも、人に裁かれることも、拒絶されることもいとわずに、ただ、神に言われたことを信じ、神とともに歩みました。

●また、まだ見ぬものを目指して歩く事にもどりますね。
そうです。見えないまま、歩むということは、リスクが伴い、例えそうでなくても、例え絶望が先にあったとしても、状況や環境が私を左右するのではない、私の心を支配するのではない、私は、神に従い続けて行く、という覚悟が必要なのです。
全てを捨てて、神に向かう事、これが、信仰者の在り方なのです。

★イエス様にあっては失望はない
ヘブル11:39,40
この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。And all these, having obtained a good testimony through faith, did not receive the promise, 40 God having provided something better for us, that they should not be made perfect apart from us.

この人たちは、約束のものは得なかったとあります。それは、なんでしょうか。イエス・キリストです。救いです。また、キリストが私たちのうちに住まわれるということです。
新約の私たちにとっては、キリストありきで、信仰がはじめられたのです。聖書でいくらでもイエス様のすばらしさを目の当たりにできます。旧約に比べれば信じやすいのです。
しかも、全てはもう、キリストによって完成され、私たちは、天の御国に入るのみとなっています。

ヘブル12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 looking unto Jesus, the author and finisher of our faith, who for the joy that was set before Him endured the cross, despising the shame, and has sat down at the right hand of the throne of God.
私達にとって、信仰とは、イエス・キリストを見据えて生きることです。また、自分の悟りに頼らないで、イエス様に従っていくことです。

今、いろいろな人生のチャレンジ、ステージにみなさんいると思います。ある人は、目に目えないことを信じること。ある人にとっては、信仰によって行動すること。行動し続けること。またある人は、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を目を離さないこと。忍耐をもって走り続けること。
かもしれません。

神様は、必ず、信仰に応えて、賞賛にあたいする、良い証しを、私たちの人生、生き様を通して世に表してくださいます。イエス様から目を離さないように



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とりなしの祈り ソドムとゴモラ

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とりなしの祈り ソドムとゴモラ
とりなしの祈りIntercessory Prayer
2020年9月13日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ




最近、コロナもそうですし、自然災害なども多く発生し、ここ西海岸でも暴動や、山火事の被害が出ている今、いろんなクリスチャンたちが神の裁きだというようなことを発信しています。ソドム、ゴモラを引用するのを何回も聞いた週でした。
私の心は、本当に悲しいのです。先週もマービン家族がコロナでとても苦しい思いをしました。また、ワシントン州でも赤ちゃんが山火事に巻き込まれて亡くなったり、たくさんの家が燃えてなくなりました。心が苦しくて涙がでます。預言であったり、クリスチャンの発言に余計に心が痛みました。
先週、パスターダックが話した通りに、人間の頭は、誰が悪いのか?悪いからには罰を受けるのだ、という考えがあり、どうしてもその結論付けをして自分のショックを和らげたいという思いに駆られるものです。しかし、ダックが引用したヨハネの福音書のある通り、こんな時こそ、覚えておかなければならないことは、リーズンが見いだせない時に、「先祖が罪を犯したからですか」という質問に対して、イエス様の答えは、「神の栄光が現れるため」である、でした。神の栄光とは、何なのか、神の栄光がもたらされる時は、どんな時なのか、私たち神を信じる者に求められるものはなんであるのか、を今日は、アブラハムを通してみて行きたいと思います。

★神の使いの一行ががアブラハムところに良い知らせを告げに来たMessengers from God brought good news

神は、この信仰の父とのちに呼ばれるアブラハムのところに約束の子が与えられるということを告げに来られました。そして、その後、アブラハムは、主が罪深いソドムとゴモラの町を滅ぼそうと思っていることをアブラハムに告げます。
神は、アブラハムを友と呼んでおられました。そんな親しい友に大切なことを隠して折れないと思われたのです。イエス様もあなた方を友と呼ぶと言われました。(わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。ヨハネ15:14 You are my friends if you do what I command. John15:14)イエス様もまた私たちに必要なことをシェアしてくれています。

創世記Gen. 18:17-21
17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべて国々は、彼によって祝福される。
19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

●主は、いきなり裁かれるのではなく、まず、実際にソドムとゴモラの中に入って、どうなっているのか体験しにいかれるという。。。。。主は、知りたいと思われる。どんな罪人の構造でも。。。主は愛しているから、知りたいと思うのだ。

★主の計画 God’s plan
主は、神を信じるアブラハムを、神の道について子孫に教え、守るようにし、そして、正義と公正と神の御心を表すために選んだと言われている。
まず、覚えていただきたいのは、
私達、キリストによって、神の大使とされている現在、私たちの神からの期待もこれと同じことなのです。

創世記Gen. 18:22-33
22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれうのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とがおなじようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義をを行うべきではありませんか。」
26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
28 もしも五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるのでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

★アブラハムはまだ、主の前に立っていたbut Abraham remained standing before the LORD

●とりなしの祈りは間隙を埋めることFilling the gap
執り成しの祈りとは、神と人との隔たりをつなげることであり、その間隙を埋めることであります。
アブラハムは、神と親しく、神の心を知るものでありながら、滅びに向かう人の友、また、ロトがいましたから、その血を分けた親戚でもありました。
両方を理解できるアブラハムであるから、その間隙に立ち、とりなすことができたのです。

完全な人であり、完全な神である、正にキリストの働きと同じである。

★とりなしの祈りに裁きの思いがあってはならない Judgmental heart in prayers
アブラハムは、ロトのことをもちろん念頭に置いて祈っていたでしょう。
私達の中に完璧な人間はいません。しかし、私たちは、誰かがトラブルの中にいる時に、憐れみよりも先に裁くことがあります。「あの人には、ああいう性質があるから」とか、「あの人は、自分で選んであそこに住んだのだから、そのつけが回ったのだ」とか、言います。もちろんアブラハムは、ロトについて、貪欲にいいとこどりをしたからだ、ということもできたと思います。
しかし、アブラハムは、それを一切しませんでした。

注意を払うべき点です。
アブラハムは、イサクを捧げる段になっても、神の約束や自分や、神を疑う言葉を発していません。。。

裁きは、命を絶ち、交わりを断ちます。それは、人間関係の中ではもちろんのこと、祈りの世界でもその通りです。裁きの心を持ちながら、その人の最善を祈ることはできないのです。

★私たちの神理解と福音理解がどこにあるかが祈りの中で重要になって来るUnderstanding of God and Gospel

私達の神理解が私たちの立ち位置と、とりなしを左右する。
神は、義でありるが憐れみ深い神である。
アブラハムは100パーセント、義なる神と同意し、神がソドムとゴモラを滅ぼすことを傍観することもできました。
が、彼は、神の憐れみの方に立ったのです。この姿勢は、後にくるキリスト理解にも通ずるものがあります。イサクを捧げる時に、神は死人をもよみがえらせることが出来ると信じた。すなわち、神は約束をご自身方法で全うさせるということを信じ、従順を選んだ。

アブラハムは、神の憐れみに寄り添って祈り、その心に訴えかけ、神の憐れみの栄光を見ることを求めた。

★とりなしの祈りには忍耐が必要 Be perseverant
アブラハムは、主に何度も食い下がって祈りました。
みなさんも、誰かのために祈る時に、本当に疲れてくるくらい、繰り返し、何度も、心おれそうになりながらも祈るのではないでしょうか。

エペソEphesians 6:18
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
And pray in the Spirit on all occasions with all kinds of prayers and requests. With this in mind, be alert and always keep on praying for all the Lord’s people.

この記事は本当に不思議なのです。どうして、あんなにひつこく、大胆に神に近づき、神に食い下がって祈ったアブラハムが、五十人、四十人、三十人、二十人、十人ときて、そこでやめてしまったのでしょうか。
10人いるということを知っていたのでしょうか。それとも、それ以上は、いくらなんでも申し訳ないと思ったのでしょうか。聖書は何も言っていません。

★祈りの法則 Principle of Prayer
1ヨハネJohn5:14
14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
This is the confidence we have in approaching God: that if we ask anything according to his will, he hears us.

みこころの祈りはきかれる、ならば、御心に合意しなければならない。

同意するところに力がある。と、よく話しますが、祈りととりなしは、神の心に寄り添い、神の御心と同意していくことです。アブラハムは、自分の憐れみの心と愛の心を用いて、神の憐れみの側の心に寄り添い、訴え、繋がっていったのです。

★私達へのチャレンジ Application
新約では、
神が一人も滅ぶことを望まず。。。。とあります。

2ペテロPeter 3:9
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。The Lord is not slow in keeping his promise, as some understand slowness. Instead he is patient with you, not wanting anyone to perish, but everyone to come to repentance.

ならば、たった罪人が一人であったとしても、キリストは十字架にかかってくれたのです。あなた一人のためにでも。
キリストは、あなたが救われて欲しいかったと同じように、今日、あなたの隣の人にも救われて欲しいと願っていらっしゃいます。

裁きに立つのではなく、愛に立ちましょう。よく知るために出て行った、主のように。興味を持ちながら、出て行き、祈り続けましょう。
#礼拝 #祈り

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心の一新の実践 Practice Renewing Your Mind

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脳ってすごい場所。。。。ですよ... 脳ってすごい場所。。。。ですよね。本当に不思議。そして、神がかり的に素晴らしい。
聖書は、脳についてなんて言ってるんでしょうか。
2020年 9月 6日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


コロナ禍にあって、まだまだ一緒に集まったり、みんなで長い交わりを持つことがもう半年ありません。そんななかで、もう一度覚えていきたいことは、教会はあなたであり、あなたの日々の生き方が、礼拝その物であることです。そして、半年、コロナ禍にいて、精神的な影響も強く出て来ています。私の周りにも鬱気味であったり、過去のいろいろな心の問題が出て来て、メンタルヘルスに影響が出ています。私自身も鬱気味であったり、モチベーションが下がったりということを経験しています。それは、なぜか、パンデミックブレインと言いますが、私達がこのような未知の恐れの中にいる時に、昔の考え方のパターン、サバイバルモードの中で、古いコーピング対処法が出て来て、が私たちをまたコントロールし始めるからです。

今日の聖書の箇所はおなじみの。。。

★生きた供え物
ロマRomans12:1-2
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。I beseech you therefore, brethren, by the mercies of God, that you present your bodies a living sacrifice, holy, acceptable to God, which is your reasonable service. 2 And do not be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your mind, that you may prove what is that good and acceptable and perfect will of God.

今や、動物の捧げ物もいらない、たった一度、私たちの救い主が私たちの罪のために自らを供え物となってくださったのですから。私たちの礼拝というのは、宮で動物を捧げることではなくなりました。そして、救い主を待ち続ける生活ではなく、救われた生活に変えられたのです。私たちの礼拝とはどうあるべきでしょうか。

◎ 神に受け入れられる、聖い、生きた供え物
旧約の時代には、しみもきずもない、完璧な動物を捧げなければなりませんでした。そして、それをほふって神に捧げました。今は、しみも傷もないイエス様がほふられたので、あなた、私は、このままで、聖く、完璧な捧げ物となりました。

● 問題は------ 自分のやり方か、神のみこころ、やり方か。。。。
私達の考えが昔の考えに戻ってるので、自由に神のみこころにそった生き方、すなわち、私たちは生き方が礼拝ですから、神のみこころにそった行動がブロックされてしまうということです。

★聖書は、心の一新によって自分の行動を変えなさいとある。
Renewing your mind と英語ではある。

★私たちの考え/マインドは聖なる場所であり、戦いの場である。
私たちのマインドは、神様にあって神聖に造られたところです。 マインド/頭は、ユダヤの世界では聖なるところとみなされていた。 また、マインド/ 頭は神に似せられて造られたところ。言葉がイメージとなり、イメージが現実となる信仰の実践の場。
ヘブルHebrews11:1 
信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。 
Now faith is confidence in what we hope for and assurance about what we do not see.

●信念と行動の関係
Belief System 信仰の構造
If you accept a Belief, you reap a Thought. 
あることを信じると、それに基づいた考えが生まれてくる。
If you sow a Thought, you reap an Attitude. その考えを続けると、やがて態度に現れてくる。
If you sow an Attitude, you reap an Action. その態度が続くと、それが行動になる。
If you sow an Action, you reap a Habit. その行動が続き、それは、あなたの習慣となる。
If you reap a Habit, you reap a Character.  その習慣は、あなたの人格となり、
If you sow a Character, you reap a Destiny. その人格が、あなたの宿命となる。 Anonymous 匿名著者

コロナ禍の中で、慢性的な恐れと日々の順応の中で、神にある信仰よりも、身体が変化に順応してく中で、昔の考え方がむくむくと蘇ってくる。体にもトラウマが住んでいるから、脳の神経を刺激して出てくるのでしょう。

●中毒Addiction ---- 自分に足りないものを補う形から始まる。。。コロナ禍で中毒が流行りやすくなっているのもたしか。
ポルノ、コーヒー、恋愛、薬物、ギャンブル、ゲーム、アルコール、仕事はもちろん、脳からでるホルモン(ドーパミン、オキシトーシン、アドレナリンなどなど)によって体が反応し、その行動がやめられなくなる。その行動によって、また興奮、幸福感なり、安心感(不安からの一時的な解放からくる)なりが得られる。そして、そこに戻っていく。全て、脳内でおこっています。脳の形が中毒の方に造られていく、形が変わっていく。
中毒は、愛着障害が根っこにあると言われています。心の不安を治める方法でサブスタンスが選ばれる。これは、親しい、深い人間関係を持つことで癒されるのです。神様は、関係の神ですし、教会は神を親しく知ろうとしている共同体ですから、人間関係で足り何物をサブスタンスに求めるのでなく、神様に求めて行きたいものです。

●トラウマTrauma
脳は、ミーニングメイキングマシーンとよばれています。脳は、出来事を解釈し、結論付け、レーベルを付け収納し、次に起きることに役立てようとします。トラウマが起き、人と話したり、プロセスすることが無かったことは、どんどん自分なりの解釈が付き収納されていきます。
心が傷ついた時に、やって来る言葉に注意してください。
失敗や困難、また人からの嫌がらせ意地悪は誰にでも起きます。しかし、その解釈、レーベルの付け方は人によってそれぞれです。

このように、言葉がどれほど、脳に影響し、現在の行動に影響するか。本来神にあっては、聖なる場所、神にあってビジョンと聖なるイメージによって、御心にそって世の中を治めるための場である。

●私たちのマインドで何が起きているのでしょうか。
①敵は、本来聖なる場所であるマインドを自分たちのうそで一杯にしたい。霊的戦いの場である。
②神の真理が実現する、信仰の場。神とともに将来を産み出す場である。
③マインドは、トラウマや経験によって、自分なりの人生の解釈をする人間的な実体験を整理する場でもある。ミーニングメイキングはぜひ、神様と一緒に!また、兄弟姉妹と。

★良いニュース
しかし、良いニュースは、脳は日々変形し、新しい神経がつながり、プラスティックとよばれています。柔軟であり変形自在なのです。ですから、今日、あなたはあなたの脳を変化させることができるのです。ですから、このコロナ禍を逆手に取って、癒しの時としましょう。

★練習
深呼吸
ボディスキャン
体の中に苦しいところないですか
静まって
何か頭の中に、イエス様に出会う前からずっと持っている、言葉は無いですか

それと反対の言葉は何でしょうか。
その反対、ポジィティブな言葉に相当する聖書のみ言葉は何でしょうか。

神様がその言葉をあなたに語っておられます。
それを受け取りたいですか。

それを一緒に受け取りましょう。

今、心、身体の中はどんな感じがしますか。お腹が温かい。頭が柔らかい。考えに行き詰まりがない。。。などでしょうか。

毎日、神様からの本当のメッセージを自分と自分のマインドに言い聞かせてみましょう。

〇悔い改めの祈り。。。。
#マインド #礼拝

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赦すこと

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赦すこと
2020年8月30日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


作家、三浦綾子さんが言った言葉にとても印象的な言葉があります。赦せない人を赦すのが赦しであると。頭をがつんと殴られたような気がしたものでした。
赦せない、というのにも理由があるはずです。ひどいことをされた。あり得ないことが起きた。または、繰り返し起きていする。なんていう事だってあるでしょう。
私達は、義を見たいという願いが心の奥底に神様から植えられています。神の似姿に造られている者たちですから。。。
考えてみてください。私達の神は、義なる神です。赦し、というのは言わずもがな、非常に難しいことです。しかし、赦しというものは、非常にパワフルなものです。というのも、聖書に、

ヨハネJohn 20:23
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」If you forgive anyone’s sins, their sins are forgiven; if you do not forgive them, they are not forgiven.”
と、あるからです。これは、重大な働きを私たちは任されたものです。

★赦すのが難しい理由
赦さないといけない時にも、赦す時にも、両方言えることです。

①心の痛み Pain---- 人にされたことで感情がおさまらない。長い時間がたったとしても、その感情が消化されてない場合に、似た人を見たら恐れを持ったり、身体が硬直するなど、問題が出てきます。また、自分がした場合、赦しを受けてない時には、いつまでも、罪悪感や恥が自分をなやまし、自分を責め続け、赦せないという事にもなります。
赦しの実行のためには、この感情が消化される必要があります。

②義の問題 Righteousness/Justice――罰を受けるのを見たい、仕返しがしたい、相手が同じ苦しみを受けて欲しい。
人は、何らかの裁き、解決、改善を見たいと思います。された方は、義の裁きが相手に来ることを求めますし、した方には、裁きを受けることをいとわない勇気が、赦しを乞う時には求められます。
赦しのためには、この義の問題を神様にお任せする必要が出てきます。すなわち、復讐は私のすることである、と言われる、イエス様に全てお委ねすることです。また、そのイエス様に赦しを乞うことです。

③自分の心・意思が固い Hardened heart――なぜ赦すか、赦されたいかというと、最終的に、人間関係において回復を見たいからです。赦さない心は、直接問題のあった本人の間だけではなく、様々な人間関係に障害をもたらすものです。行動パターン、人間関係の持ち方のバターンに影響が出るからです。

●虐待の場合Case of Abuse …継続的ないじめの場合は、いつも言うことですが、すぐにその人から逃げてください。赦すことと、相手の元に帰り従順することとは違います。
人間関係は、相手の有ることですから、相手が引き続き、あなたをいじめるならば、距離を置かなければなりません。心で赦して、距離を取ることは、赦していないことにはなりません。人間関係は、双方の合意が必要になりますから。

人と関わり続けたい、健康な人間関係、愛を求めている人は、必ず癒しの働きに加わります。愛さない人は、赦しの働きをやめてしまいます。

赦しについて有名な聖書の箇所を読んでみましょう。

★何回赦すのかより、あなたの心 The Law or Your heart?
マタイMatt. 18:21-35 
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。28 ところが、このしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

★弟子たちの質問 Questions from Desciples
私達は、ルールにものすごく敏感です。というのも、これさえしていれば、安心だ、状況をコントロールできるからです。弟子たちも、“何回”赦せばいいのですか、というような質問をしている。私達も、そのような質問をするのではないでしようか。
七を七十倍。。。すなわち、完全にと、イエス様は言われ、この例話をしました。

★例話の中で、自分に少ない借りがある人を赦せなかったことが問題となった
この男はそのことで牢屋に入れられてしまいました。すなわち、外の人たちと愛の人間関係を持つという、自由を失ったのです。孤独となりました。

★焦点Focus
私達も、赦す赦さない、何をされたか、取り戻したい、または、赦するが難しい、というもがきの感情にさえ集中しすぎるなら、私達をさらにがんじがらめにされてしまうのかも知れません。

★負債が赦された男 a forgiven man
この男は、王に借りがありました。額は一万タラント。現在のお金で億です。当時の価値にしたらもっとあるでしょうか。その多額の借金。それは、私たちの、罪に当たります。罪は、誰かがその代価を払って償わなければ赦されません。ちょうど借金のように、です。

★支払いが不可能
この男は、一生かけても、全てを手放してもまだ、完全に返済できないことに、気が付きました。どうやっても無理なのです。それで、王にお願いしました。
王は、「可哀そうに思い」憐れみと恵みの故にそれを帳消しにしてくれたのです。

驚くべき恵みです。こんなことは、めったに人間界で起きることはありません。
詩篇Psalms 49: 8
たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。
the ransom for a life is costly, no payment is ever enough

神の子、イエス・キリストの払われた代価によってのみ、私たちは、赦されるのです。
あなたは、キリストによって、赦されていのるです。

★神の前に謙遜な心が焦点 Humility before God is your focus
自分の罪の重みが分からないと
自分の赦しのありがたさ、イエス様のすばらしさが分からないと
赦しができない。
高慢になってしまう。
謙遜であることが無ければ、赦しが分からない。
焦点は、ここ、あなたの心にあるのです。

★アーミッシュの赦しのお話し:私がアメリカに来たころ、2006年に話題になっていたペンシルバニアで起きた出来事がありました。それは、クリスチャンを狙った人質銃撃事件でした。五人の少女たちが命を落とし、五人が怪我をしました。なんとも、自分勝手で、卑劣な事件でした。しかし、世の中を揺さぶる出来事がありました。それは、このアーミッシュ(クリスチャン)が犯人を赦したことでした。この行動を「不相応な赦し」として愚かだという人たちもいました。また、これぞ、キリスト教と言われ、世界中でニュースとなりました。なんと、海外から、イスラム教の人たちから尊敬の手紙がぞくぞくと届きました。アーミッシュは、相手をゆるすことで、平和をつくりました。
パワフルな出来事です。
赦すことは簡単ではありません。しかし、「不相応な赦し」を受けたのは、この犯人だけではありません。この私もキリストに「不相応な赦し」を受けたものなのです。
赦しを受けたものとして、また人も赦すのがクリスチャンの務めです。

Let us abide in God’s love and forgiveness ---- Key
For promoting love.
Satan promotes hate, God always promotes love.
#礼拝 #赦し

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