三重県にいる教職たちと鳥羽水族館へ
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。
第20回目は川崎でのアパート生活で隣人との間にあった揉め事でした。
平和を造るもの
私はかなり早い段階で日本語でお詫びする方法を学びました。
川崎に住んでいる私のアパートメントの壁は大変薄いものでした。
隣に住む男性のいびきは大変大きなもので筒抜けです。彼とその奥さんはしばしば喧嘩をしていました。彼女が泣くとその赤ちゃんも泣くのです。その上彼らはかなり夜遅くまでテレビを見ているのです。
私の部屋からの音に彼らは悩まされているとの噂を聞いたときは驚いたものです。
ある若いご婦人は出勤前、私のアパートに来てオルガンを練習していました。
それで、美智子先生は私が何をすべきか、どのように言うべきかについてアドバイスをくださいました。私は手作りクッキーをその隣に住むご婦人に持っていって、私のできる最も丁寧な日本語を用いて音を立てていたことをお詫びしたのです。彼女は恥ずかしそうにそのクッキーを受け取ると、同様に謝って来られました。
「赤ん坊が泣くし、私たちは夜遅くまでテレビを見ていましたしね」
彼女は他にもあった彼らが立てている騒音には言及しなかったですが。
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