日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。 私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。 卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。 そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。 教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。 本の題名は「人生は80歳から始まる」。 確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。 私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。 今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。 まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。 皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。 その第28回目は、長く借家住まいだった大江町での働きのために会堂建設が始まったことについてです。 会堂建設 ついに大いなる日がやって来ました。 それは1968年9月23日、定礎式において会堂の礎が据えられたのです。 その後は、建設工事が勢いよく始まりました。 クリスチャン会社である高田建設さんが、その家族と甥っ子さんまで動員して早朝から遅くまで働いてくれました。時に牧師夫人は妊娠されていらっしゃいましたので、ほとんどの家事や食事準備が私の責任となりました。 10人の家族と時にはそれ以上、一日に三回の食事をほとんど三カ月間、作りました。 それは忘れられない経験です。 会堂建設とは資金以上のものが要求されることも、新たに知りました。 私に出来ることがあれば、どんなことでもお手伝いしよう、と決意しました。 私があてがわれた仕事は、防腐剤のクレオソート油を床下の骨組みに塗布することでした。 そのきつい匂いは、私の皮膚や衣服にも染み込んできます。他には配管の対冬対策として、凍結から守るために断熱材をそれに巻きつけるという仕事もありました。 私はいつも不思議に思うのですが、どうして多くの大工さん達は気まぐれで起こりっぽいのでしょうか。私たちは誰もがプロではないわけなのに、一日に一回ほど作業手順の説明を頂くだけなのです。 大工さんの奥様は優しく忍耐深い方でして、傷ついた私の心を癒してくれました。 食事時間は 、外人のために用意された“仕事”セッションと成り果てます。 それはつまり、私の仕事ぶりを酷評してくださる時なのです。 彼らはこの国に希望と救いのメッセージを届けたのが外国人であることをすっかり忘れてしまったようです。私は偏見を持たれたまま、たいそう叩かれたり馬鹿にされましたので、もはやバイブルスタディや祈祷会を指導することは出来ないと思ったほどです。もう二度とできない!としばしば思いました。 会堂の献堂式は12月15日でした。私たちは新しい会堂でクリスマスを迎えたのです。 多くの喜びがあり、私たちは痛みを忘れました。 神様の道は私たちのそれよりも高く、神様のお考えとご計画は私たちのそれらよりも優れたものです。 私が山形に引っ越して来た時、死が訪れて来るまでここでいつまでも働いて生活したいと思いました。しかし神様は異なる計画をお持ちのようなのです。 シェルホン先生はこの頃、帰国報告を計画され準備されていらっしゃる時でもありました。 彼らが不在の間、私は毎月川崎へ行って宣教師の会計報告作業をし、また理事会にも出席することになりました。それは大変忙しい週末となります。 金曜の夜、夜行列車で夜を徹しながら川崎まで出かけます。 土曜日には松矢兄とともに会計報告書を作成します。 日曜の朝には川崎キリスト教会の礼拝に出席し、その午後は理事会に出席。 そしてその日曜夜には南部キリスト教会の伝道集会で寝落ちしないようにと激しく戦うのでした。 ある生徒さんが英語漬けの特別コースを求めてきたのですが、こんな時期にそれは相応しくないように感じました。彼から求められた時、今はできないことを説明しました。 しかし私の心には静まらない内なる声が聞こえて来るのです。 ついに彼の申し出を受けることにしました。 内なる声と開かれたドア ある寒い朝、中世古さんとその息子さんが左沢にやってくるまで、私は彼ら家族についても三重県についても何も知りませんでした。神様が新しい働きの場を開いていて下さっているとは気がつかなかったのです。 息子の中世古陽四郎さんは、英語を熱心に勉強されるだけでなく、教会の様々な集会にも出席されました。彼の心にはすでに主からの語りかけがあり、三重県に帰る最後の日曜日となった晩、彼はその心を主に明け渡したのです。 彼は自分の郷里の町にも教会が建てられるのを望み、それが実現するようにと熱心に祈り始めました。その間、彼は松阪にあるバプテスト教会に出席していました。 「マケドニアに渡ってきて、私たちを助けてください」(使徒16章9節)との呼びかけと招きとが、私にも届けられていると感じ始めていました。 でもその段階では、私にはまだ神様が承諾してくださったと言う確信が必要でした。 約二年間ほど、私たちは祈り続けたのです。 日本に来る前、私はすでに年老いた父親と私の家族とを神様の御手にお委ねしてきました。 私よりも神様ご自身の方が、父のことをより良くケアしてくださる事は間違いありません。 物事が順調に進む時なら、そのように考えても、 愛のテスト 時に私の父の健康状態は保たれていました。 彼は左沢訪問を計画していましたので、私は本当に喜び、彼が来てくれるのを心待ちにしていたのです。 私どもの世界が崩れたのは突然の事でした。 土曜日の夜、遅くなった祈祷会にて、私の讃美歌集の上に一枚のメモが乗せられました。 それは電話局からの電報文でして、父が現在危篤状態で入院しているとの知らせだったのです。 イエス・キリストはかつてペテロにしたように、私にも語りかけられました。 「あなたはこの人たち以上に私を愛しますか」 父親以上に? 家族以上に? 私は、「神様、私があなたのことを最初にし、そして最も愛することができるように助けて下さい」と祈る他できなかったのです。 それは詳しい病状の知らせが届けられる一週間前の事でしたが、私には確信があり、神様のお言葉が私を支え続けました。私の心は平安を保つことができたのです。 シェルホン先生ご夫妻が米国に帰国報告中の現在、すべての仕事を放棄して米国に急ぐ帰るだなんていうことは考えも寄らない事でした。父には優秀な外科医が付いていて、適切なケアの下にいるはずです。 しかし関係者の中には、この時に帰宅しないことがどんなに残酷で冷たい仕打ちであるかと考える方々もいて、彼らは私の知らない間に私の帰国を企画した上、その予定をセントルイスの教会に書き送ったりしていたのです。 セントルイスの教会の責任者からは私に厳しいお叱りの文書が届いて、こんな風に言ってきました。 「お望みならば帰国して来なさい。しかしその時は、その帰国が最後の旅となり、あなたの宣教師としての働きは終了してもらわねばなりません」 完全に献身するということの意味 この試練の期間、私は一つの東北の教会を訪問しました。 その教会の牧師は、私の父の病についてはなんら知らなかったのですが、彼のメッセージは私のためのものでした。それは完全な献身についての説教でした。 さて、父の回復はとても早く、まもなく、翌年には日本に私を訪ねる事を計画できるまでになりました。 その頃は新しく教会も生み出されて様々な行事も多くなり、また牧師家庭も増えて行きました。 特別な伝道集会の時や多くの訪問客がある期間、私は主にキッチンでの仕事を言いつけられました。 私はそのことに大変疲れを感じるようになっていたのです。 新年の特別集会を直前に控えていた時、大変重たい仕事を充てがわれた私は悪い夢を見たものです。 その夢の中で、私は逃げ出してしまいました。 どこに逃げたのかは分かりません。 しかし感謝なことに、現実の世界で私にはたくさんの仕事があってそのことに精一杯だったため、実際には逃げずに乗り越えることができました。 私はオルガンを教えるようにとお願いされ、小さな幼児のお子さん達数名がやってきました。 私は正直にそのお母様方に、音楽教師としてのライセンスは持っていないことをお話ししました。 でもそれは必要ないと言うのです。そのグループは楽しいものとなりました。 そのお母様方のためにミニコンサートも開いたりしました。 私は福音のために英語も教えました。再度記しますが、私は英語教師としてのライセンスもまた持っていません。 神様がせよ、と命じられる。それだけで充分です。 足場を外す時 主は私たちに幾人かの素晴らしい若い人たちを与えてくださって、彼らは休日にやって来られては山間部でのトラクト配布に参加してくれることもありました。 教会の働きの様々な面で成長があり、変化もありました。 ハドソンテイラーはかつて、宣教師は足場であると教えています。 建物を建て上げるためにのみ必要とされる、という意味です。 それらの足場が解体された後は、再びどこででも使ってもらうのです。 大江町での“足場”は、時とともに徐々に必要とされなくなって行きました。 1971年にベイデン教会は、私が翌年5月か6月にはファローのために帰国せねばならないこと、そのための準備を始めるようにと伝えて来ました。 「神様はご自身の足を海の上に置き、嵐の波の上を進まれる」 その年の7月と8月は、まさにそのような試練の嵐が吹き荒れた月々でした。 それはおそらく新しい働き場へと私を準備させるためのものとなったようです。 10月には私にとって大変喜ばしいサプライズがありました。 陽四郎さんが来て下さったのです。 試験と特別トレーニングとを終了した彼は、1972年2月に米国に行くことになっていました。 私たちが米国で共に同行できると言う事は、単なる偶然でないことと感じました。 このことは、私がこの大江町の地を去っても良いとの促しようにも思えたのです。 私は大江町左沢を愛しています。 私にはそこに多くの親愛なる友人たちがいたのです。 そこを去ると考えただけでも、痛みとなりました。