日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。 私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。 卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。 そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。 教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。 本の題名は「人生は80歳から始まる」。 確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。 私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。 今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。 まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。 皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。 その第28回目は、山形からファロー(帰国報告)を区切りとして新しい任地へ導かれて行く第三部へと入ります。 第三部 山形県からファロー(帰国宣教報告)へ いよいよ転任するための準備の時がやって来ました。 山形を去るにあたり、私の全ての義務を果たすためにあらゆる集会に参加し、ふさわしい証しを立て、約束を果たし、あらゆる委ねられた仕事はおろそかにはしませんでした。 そして福沢牧師ご夫妻には、私が米国ファローから帰って来て直後には転任することをお話ししました。 まだどこに行くか、はっきりとはわからなかったのですが、すべての持ち物を荷造りして引越しの準備を終えたのです。 “Missionary Barrel”の誕生 すべての混乱した最中にありながら、私はファローで使うための自伝を書くようにと要求されました。 「Missionary Barrel (宣教師の樽)」は、11年間ほどの日本宣教経験からの賜物です。 大著というものからは程遠いものではありましたが、それでもこれを完成するには多大な時間とエネルギー、感情と涙、それに笑いが伴ったものです。 セントルイスでこれを校正し出版するのにも、また努力と資金とを必要としました。 力強い宣教師のヘルパー 〜智子さん ファローのために作戦を練ったり計画を立てているときに、宮宿の一人の女性を思い出しました。智子さんです。彼女は、「次に米国に帰るときには、私を連れてってください」と言っていました。私はその時、よく考えもしないまま同意していました。 それは厳密に約束と言えるほどのものではなかったのですが、そのことを思い出したものでしたから、彼女に話して見ました。彼女は大変喜んでくれました。 主は細かいところにまで働いてくださり、とにかく私たちは共に機内へと搭乗することができたのでした。ファローの6カ月間は実に忙しかったですが、喜びに溢れた期間でした。 彼女の創価学会からクリスチャンへと改心した証しは、私が話しをしたり、何かをしたりするどんなことにも勝って会衆には意味あるものと見えました。 短い家族等との滞在を終えてから、私たちはセントルイスへと向かいました。 そこからイリノイ州クインシーでの青年キャンプにも出かけました。 若い青年らは彼女のことが気に入り、彼女は英語が流暢と言うわけではなかったのですが、徐々にコミニケーションを取れるようになると、間もなく多くの友人を作るようになりました。 私は日本宣教の様子をお話して、若い方々にアピールしました。 彼女は日本文化について話をし、折り紙なども教えたりしたのです。 私たちはそのような教会での活動の間を縫うようにしてですが、地元の中学校へ招かれて算盤を教えたりもしました。 彼女にはまた、ベビーシッターとしての賜物もあったようです。 私の姪と最初の赤子であるCarolはアイオワ州住んでいました。 姪の夫は海軍にいて、その時は海外赴任中でした。 智子さんには霊的な養いが必要なようにも見えましたので、数日間のキャンプにもお連れしました。そんな時、智子さんは小さなCarolと一緒にいるのがお得意です。 彼女の話す日本語は、なんだかその赤子にはよく理解できているようなのです。彼ら二人はとても仲の良いコンビとなりました。 智子さんは図書の販売をしたり、またスライドやカバン等の荷物を良く管理してくれました。 彼女はどんな仕事にも間に合う女性です。 またお話も上手で、常に旅行の同伴者を楽しませてくれます。 日本へ帰った後、彼女は米国での経験を日本語の機関紙「よき道」にシリーズで執筆したりもしました。 明白な導き ミシシッピー州でのキャンプミーティングの間、私は将来の働きについて明白な導きをいただいたように思いました。 "このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。 こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」" (ローマ人への手紙 15章20~21節) "しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、" (ローマ人への手紙 15章23節) もちろんこれらの聖句の中には「錦」の言葉は見当たりませんが、私には明白でした。 私の心にある願いと、この聖句とを、教団の指導部にお知らせする事にしました。 そして祈りながら彼らからの返答を待ったのです。 「扉」は開かれているようでした。 私は繰り返して招かれました。それを一年間の祈りを経て主が与えて下さった「ゴー」サインと受け取ったのです。しかし、すべての指導部の方々には同じようには感じていない事も明らかとなりました。 確かに錦町は小さい漁師の町で、周りを山々に囲まれています。 交通機関は乏しく、高校はなく、野心ある若い方々のための働き場所もありません。 自給教会を育てるにはチャンスの乏しい条件が揃っています。 それでも私が手紙を発送した後、今や肯定的な返事が来るとばかり、勝手な期待をしていました。 ところが、現実はそうでないのでした。 シェルホン先生のご家族をオハイオ州に訪問している間、錦転任に関する指導部の率直なご意見が私に届けられて来きたのです。