日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。 私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。 卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。 そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。 教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。 本の題名は「人生は80歳から始まる」。 確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。 私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。 今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。 まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。 皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを紹介します。 その第29回目では、いよいよ三重県の大紀町錦で開拓伝道が着手されました。そこに至るには多くの困難があり、特に教団の理解を取り付けるのは難しかったようです。茨の出来事が続いたようですが、その中に美しい花が咲いていたと思い出すあたり、やはりドロシー先生は詩人であり、ロマンチストでした。 神様は成功を要求しておられないーただ従うことだけ 時に、まだコンウエイさんとはお話しする機会のないままでしたが、ベイデン教会の宣教主事の方に、私はこのように答えていました。 「成功するか失敗するかは問題では無いはずです」 たった一つの問うべきことは、「それは果たして、神様の御心かどうか」というものであるはずです。 聖書のどこにも、神様が私たちに成功を求めているところはありません。 神様はただ私たちに従うことを求めておられます。 コンウエイさんがその手紙の中で同じようなことをおっしゃっている事を知ったのは、ずっと後日になってからのことでした。 確かに、一つにまとめあげて下さるお方は、主なるお方のみです。 主は今も全てを統制しておられます。 私のファローは、新しい働き場に思いを巡らすことで喜びにあふれたものとなって行きました。すでに大江町に残されている私の荷物は、すべて荷造りが終わって新しい住所を待つのみとなっています。私は最後となる交友と歓送会のために、数日間大江町に戻りました。 今や足場が外される時です。それは外されてから捨て去られるのではなく、他の場所で再び組み立てられるのに用いられるのです。時々主は、私どもに二重の確信を与えてくだることがあります。 私は次の聖句を見つけて心が高鳴るようでした。 この箇所は、まさにその新しい任地を描き表しています。 "しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。 そこは、あなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が絶えずその上に目をとどめておられる地である。" (申命記 11章11~12節) 生活や働きの場所となるべき家は、錦の町の中に既に確保されていました。 家具や大きめの荷物は、電車での郵送にて後日届けられる手はずです。 形が不揃いの物等は、シェルホン先生の運転するパプリカ・バンに載せられ、私らと共に錦入りしました。 その車を降りた時、魅了される新しい生活の始まりです。 働きの内容など、その後の計画は全て主の御手の中にあります。 99曲がりもある険しい錦峠を降り立ったとき、シェルホン先生の言われた言葉を決して忘れることができません。 「もしこのことが神様の御心でなかったとしたら、貴女の人生の中で最大の過ちを犯していることになりますね」 最初の日曜日は、17名の日曜学校の子供さんたち、そして八名の礼拝での出発となりました。 錦の子供たちさん方に日曜学校のことをが伝えられると、それはまるで会場は押し寄せる洪水で水浸しになったかのようでした。 私はまるっきし、「多くの子供さん達の脱いだ靴の中で生活している、どうしたら良いのか何も分からないおばちゃん」のようなものでした。 そこでやむなく私たちは日曜学校を二つに分け、二つの時間帯で持つことにしました。 その後、大人の礼拝式、そして午後には若い方々がそのまま一日中教会に滞在されたのです。 マジックショーやビデオなどは必要なく 日曜日となると、朝食をとっている間も無くなりました。 子供たちは早朝からやって来ると、彼らのカバンを座席に置いて指定席を作り、それから日曜学校の始まる時間まで、外で遊び出すのです。 休日は子供たちのもので私のものではありません。 その休日に、どんな活動をしたかですかって? マジックショーやビデオなんてものは、からっきし必要ではなかったのです。 日曜学校では、「子供のためのキリスト」と言う小さな本をテキストに使いました。 暗唱聖句のためには、私たちは小さな紙製の魚を作りました。 子供さん方は片面に色を塗りつけ、他の面に聖句を書きます。 あんなにバラエティに富んだ色の魚を、それまで私は見た事がありません。 しかしそんな魚が実際にいるか、いないかなんて問題ではないのでした。 彼らはそれをとっても気に入ってしまいました。 最初の年のクリスマスは、大したものとなりました。 天候には恵まれていましたので、私どもは野外のベランダをステージに使いました。 室内では85人の子供さん達であふれて、まさに寿司詰め状態となっていたものですから。 その準備は10月から始まっていました。 錦中学校の女生徒たちが良いアイデアを出し合ってくれました。 手作りの学芸会は見事なものでした。 女生徒に一人、芸術センスの富んだ子がいたのに感謝しています。 子供たちの合唱隊のためには額に結んだバンドを作り、ラクダと星を演じました。 人形劇は長い箸を使って作られました。 各色のセロファンでフラッシュカードを作り、あらかじめ録音されたクリスマス物語が語られて劇は進められて行きました。 おやつにはホームメイドのクッキーです。 こうして当初から自給での働きが進められて行きました。 改築された養鶏ハウス 一年も経ずに、私たちは借家を手放さねばならなくなりました。 時に、大きめの養鶏ハウスが隣の敷地に空いていました。 教団理事会からは、そのハウス内の枠組みに住まいとなるスペースの建築は許可するが、当分の間はチャペルなしで働きを続ける様にとのお達しがありました。 しかし、建築業者はその様には決断しなかったのです。 彼は地元の長野県からすべての建築材を運び入れて、錆びついた古い鉄骨の骨組みを全て取り去った上で、残されたセメント基礎の上に新しく建物を立ち上げたのです。 しかもその工法の方が資金も、時間も予定より少なくて済んだのでした。 しかしこのことが、川崎では嵐を巻き起こすことになってしまったようです。 特に理事の一人が強く反対しているとの事です。 シェルホン先生から電話が入り、この問題のために錦まで運転して来ると伝えて来られました。 私は、その最も反対している理事も一緒に連れてきてください、とお願いすると、彼はその計画であると言います。 私はその時、裏切られた気持ちになったのです。 その猛反対している若い青年とは、彼の神学校教育のために私がサポートしたことのある人物だったからです。 ほとんど一晩中、彼は私を叱りつけるようにして説教してくれました。 私が不従順行為の故に断罪される恐れがある、と再度告げられました。 それはまるで軍隊の中の世界のように私には聞こえるのです。 私は教団機関紙の「良き道」に今回の会堂建設の事について説明することは認められていましたが、どんな経済的支援も求めませんでした。 ある方々は、「経済的支援を求めないでどこから資金がやってくると言うのですか」と心配してくれました。しかし匿名で献金してくださった何人もの方々がいらっしゃいました。 今日まで私はそれが誰であるのかを知りませんので、その方々に感謝を申し上げようもありません。 私たちの主に対する支援要請には、実に効果がありました。 山形から一人の方が手伝いに来てくださったのです。 何もかも慌ただしく、準備する時間はほとんどありませんでした。 その年の一月の下旬になってから、急遽私たちは四月前までには今住んでいる場所を明け渡さねばならないことを告げられました。 建築業者は建設のための見積書を見せてくれています。 その建築業者が到着するまでに、全費用の半額が備えられるように、と私たちは祈りました。 私たちは真剣に、そのことが実現するようにと熱心に祈り続けました。 「どうして全額与えられるようにと祈らなかったんですか」なんてお尋ねにならないでください。その時は、ただ私たちは互いにそのように祈ったのであり、そしてその半額はついに満たされる事となったのです。 ある年老いたご婦人は、ご自分の毎月の貧弱な年金の中からサポートを送り続けてくださいました。そして錦に会堂が建てられるまでは、ご自身の命を支えてください、と熱心に主にお祈りされていたのです。 トゲの中には、美しいバラの花が咲いているのを私たちは喜ぶべきではないでしょうか。