米国の本日はメモリアルデーとして休日。
息子から誘われてCoal Creek Trail をハイキング。
長年ここに住んでいながら、わずか車で10分のところにこんな大自然が横たわっているとは知らなかった。
どうりで庭先にクーガーやクマが出没するわけだ。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第15回目は、車上荒らしの試練に遭ったことについてです。
解雇、強奪、それでも継続した友情
私の弟はロサンゼルス郊外に住んでいました。
私が仕えていた開拓教会はレドンドビーチにありましたし、ロサンゼルス東側にあるチャーチオブゴッドの教会にも友人がいました。
弟の家に引っ越す前に、私は全ての荷物を自分の車に詰め込むと友人とかなりの時間をともに過ごすべく計画しました。それから毎月行われている貧困街での給食ミッションの働きにそのまま出かけたのでした。
そこでは東ロサンゼルスの教会とレドンドビーチ開拓教会もまた共に働きを担っていました。
その働きの最中に私の車は車上荒らしに合い、強盗らは一切合切、車内をきれいにしていったのです。警察署に行ってそのことをレポートしましたが、荷物が戻る可能性はほとんどないと言われました。なんといっても貧困街での事件ですから。
友人との一夜を過ごした後、必要なもののいくつかを借りる事が出来ました。
あのお金持ちのメイドの仕事を解雇されてすっからかんとなってから、私は神様の恵み深い備えを理解し始めました。
弟の家への途上、私がおさげの幼い時から私のために祈ってくれていた年配の友人を訪ねるため立ち寄りました。彼女の祈りは、神の御座にまで届く力強いものです。
彼女は主を褒めたたえ、盗まれた全てのものは戻ってくる、と私に確信を与えてくれました。
その後、弟の家に到着しました。
彼の奥さんと私は、私のための必要最小限のものや裁縫のための生地を求めて買い物に出かけたのです。私の自由時間を満たそうとする神さまの計画はすでに進行中だったのです。私はその弟の家を拠点にしてユースグループを手伝ったり、レドンドビーチ教会での夏期聖書学校やクインシー・イリノイ・キャンプミーティングに参加しました。
ミシンに向かって忙しくしていた頃でした。警察署から電話があって私の持ち物が見つかったことを知らせて来ました。そして彼らが調べ上げた結果、私が作成した所持品リストからは何も失われたものはなかったのです。
私はその時にハレルヤと叫んだかどうか、今もって思い出せないのですが、私の義理の妹はその時のことを全て覚えていらっしゃいます。すぐに警察署にまで出かけてみると、すべての荷物は、まだ誰も触れられていないことがわかりました。
強盗らがそれらの荷物を盗み出して直後、レストラン近くにあるゴミ集積所の後ろ側に隠したのです。おそらく後にやってきて回収しようと考えたのでしょう。しかしそこで働く従業員が先にそれを発見して警察に知らせました。私は今や必要以上の生活必需品を持つこととなったのでした。
自由に奉仕をして
クインシーキャンプに最初に参加して以降、私は毎年そのキャンプを欠かさないようになりました。やがてチャーチオブゴッド教会に深く関わるようになると「グッドウエイ」という教団機関紙の青年編集人を任せられる事になったのです。そこでは宣教師物語を書く大変良い機会に恵まれました。
エルサレムのダマスコ門
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「五旬節の日になって」
使徒の働き 2章1~13節
"五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。"
⑴聖霊様の傾注ー「時代」の転換点であった
①突然の出来事〜弟子や近所の人々の視点
「すると天から突然」
神ご自身の特別な顕現に伴う自然現象=シャカイナ・グローリー。
風、響、地震、炎などの出現。アブラハムが契約を締結した時、モーセのシナイ山で、またイエス様の昇天の時など
②必然の出来事〜主イエスの預言の成就であった(使徒1:8)
これは復活後40日後の遺言でありその後いつ成就するかは弟子たちには知らされていない。
10日間の熱心な祈り(1:14)
さらにイスラエルの祭りにはこの予言的な意味が隠されている。
⑵他国の言葉で話し出したーさらに古い「時代」からの回復を意味する
①その特異性
15の国言葉、ネイティブスピーカーとなった
学習し習得したものとは違う。異言とも異なる。
②その預言的意味
バベルの塔以来の言葉の混乱、連帯の崩壊からの回復の時代が到来した。
さらにそれは「教会時代」の始まりを意味している。民族を貫いたあらゆる隔ての壁を取り除いた組織体である
⑶ヨエル書預言の成就ーやがて到来する新しい「時代」を見据えて
1部分の成就であった(2:16-21)
旧約聖書のラビ的引用法の4つのうちの1つ。
数ある預言項目のうち1つが適用出来たらそれで成就とみなされる。ここでは聖霊が激しく傾注されたことであり、その他の天変地異はまだ起こっていない。
全体の成就は終末時代の最終段階に成就される
それが主の再臨前、世界帝国軍がイスラエルに侵入しユダヤの民を全滅させんとする戦争時に起こる。
(結論)
私たちが今生きている時代を正しく認識しよう。
どういった時代経て次にどういう時代が来るのか。私たちのするべき事は主の証人(1:8)として生きることである。
錦の隣の紀伊長島と言うところで朝祷会に参加しました。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第13回目は新たな職場としてイエローストーン国立公園に移ったことです。
イエローストーン国立公園にて
病院の菓子コックからホテルの菓子コックへ
町立病院にあっては多くの証する機会が与えられました。
職場の同僚たちは伝道集会にも喜んで私と一緒に参加してくれましたし、ある人々は心の問題も打ち明けてくれました。
かつて宣教師でもあった聖書学校の校長がよく言っていた言葉です。
「宣教師に召されているかどうかを判定するには、今あなたが置かれているところでそれを行っているかどうかで明確です」
町立病院で働くのは満足できるものでしたけれど、多分チャレンジできるものがなかったからでしょう。私は新たな働き場に転職したい思いに駆られ始めていました。
その思いに駆られるようにして私は有名なイエローストーン国立公園での職場に応募しました。
すべての病院職員は退職するにあたり、少なくても二週間前にはその要望書を提出せねばなりません。
要望書なしにクビにされる事はあり得ても、要望書を提出しないままで辞任することは許されなかったのです。私は早めに申請しました。その私の申請は思わぬ時間がかかったのです。時間はなくなり始めました。ついにある月曜日、辞任を告げるためにオフィスに行く日が来たのです。
日曜日は主と交わり、そして主から導きをいただく大切な日です。
私は王妃エステルに想いを重ねていました。
私は常日頃、王妃エステルとその勇気に感謝していました。
「私が死なねばならないなら死にます。生きねばならないなら生きます」
月曜日になってオフィスに行ってみると、私の上司が即、聞いてきました。
「もう次の仕事は見つけたのですか」
「いいえ、まだです」と私は正直に答えました。
ちょうど次の日になってイエローストーンに提出していた私の申請書が認められたのです。
私にあてがわれた部署は、レイクホテルのパーティスト料理の補助と言うものです。
そのホテルは700人ほどの人々を宿泊出来る巨大なものでした。
新しい仕事場に到着した時、拒絶に面食らうことになります。
パストリー料理のトップはドイツ人でしたが、彼は女性とは共に仕事をしないとシェフに告げていました。そこで私はサラダとサンドイッチの部署に廻されたのです。
やがてそのドイツ人パストリー料理長はシェフと揉め事を起こし、まもなく解雇されました。
次のパストリー料理長はロサンゼルスのオフィスから送られて来ましたが、どうもドヤ街出身のような方でした。
彼は最初の給料でとんだ所へ行ってしまい、そして仕事場には現れませんでした。
そのため私は休日にも関わらず朝方に呼び出されて、彼の代わりを務めねばなりませんでした。
私はシェフに言いました。
「自分に四人ほどの真面目な学生さんをヘルパーとして与えてくれたら仕事は完璧にやり遂げます」。そこで私はパストリー料理長に任命されたのです。
私には数人の男子学生があてがわれました。
私はボスになれるタイプではないと、学生たちに伝えておきました。
私たちは皆でパンやケーキやロールを一緒になって作り、また一緒になって皿洗いや掃除をしたのです。とっても良い夏を過ごすことができました。実に充実した時となったのです。
日曜日が私の休日として与えられたのは奇跡のようなものです。
礼拝のための場所は、神様が備えられた偉大な野外です。
そこにはクッション付きのベンチはなく、ただ粗末に斬られた丸太が転がっているだけでした。
それでも私にはイエス様がかつて野外で説教された時の状況と重なるように感じました。
私のルームメイトはミネソタから来られた素敵な女性でした。私たちは生涯の友となりました。彼女はやがてカルフォルニアにいる私をわざわざ訪ねてくれたし、彼女とは長い間文通を重ねました。彼女がやがて天に召されると、その娘さんと毎年クリスマスカードを交換しあっています。
人生に楽はなし
ホテル従業員にはあらゆるタイプの人々がいました。
私には全世界が提供できるすべてのタイプの人々と会えたように思えました。
私はその人たちをこんなふうに区分けしたのです。「とても良い人達」、「普通の人達」、「あまり良くない人達」そして残りが「それ以外の人達」という具合です。
クリスチャンホームと教会の守りから離れて、私はキリストとともに誘惑に直面することを学びました。このキリストこそ既に罪と地獄、そして死からも勝利されたお方です。
高給とまた気前良いボーナス故に、その頃の私は1年のうち3ヶ月だけ働けば十分に生活できるほどでした。そういう現実ではありますが、スキルを維持するためにはこの業種で少なくともパートタイムで働いた方が良いでしょう。
イエローストーン国立公園から兄の家族のいるワシントン州に行きました。
そこでは私に見合う仕事が見つからなかったので、南カルフォルニアの弟の家庭にその後移ったのです。そこでは少なくもメイドの仕事を見つけることができました。
Sacramentoのベスト日本レストラン、MIKUNIレストランのダウンタウン店
すでに20年近く通っているがランチ弁当ボックスがあるのをこの日初めて発見してオーダー。もちろんグッドでした。
ヨハネの手紙 第一 2章9~11節
"光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。
自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。
しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。"
私は一人っ子だから兄弟を憎むことも愛することができない、と勘違いしないでください。
ここで言う「兄弟」とは、信仰者お互いのことを指しています。
キリスト教会の中での分裂、クリスチャン夫婦の崩壊や離婚、宣教チームの仲違い等、不幸にして兄弟間の一致が保たれない場合があります。
新約聖書時代の最大の宣教師であったパウロとバルナバですら意見が異なることから議論したが互いに譲らず「激しく反目となり」、宣教チームは瓦解して互いに別行動をする事になりました。
使徒15:36-39
考え方の合わない兄弟に対してもし「憎しみ」と言う感情が沸き出てきたならばここのみ言葉からサーチライトに心照らされてみると良いかもしれません。憎しみは人殺しであり、それは永遠の命を持つ者のことではない、とヨハネは非常にシビアにクリアカットです(ヨハネ3:15)。
聖書理解が異なったり意見が異なっていたとしても、憎しみから守られることは出来ます。
そして愛することも出来るのです。
なぜなら私たちは光の中に、つまりイエスキリストとの交わりの中に生きているものだからです。
もし兄弟を憎んでいるとしたらその人は闇の中にいる、と聖書は明快です。その闇は彼の目を盲目としどこに行くのかを知らない、つまり自分自身とその言動を理解できていないと指摘しています。
サンフランシスコダウンタウンにて
人体の持っている不思議さ。
州外遠出から帰ってきて先週末を共に過ごした息子に麻疹の疑い。
倦怠感と高熱のためベッドに伏してことが多かったけど咳など風邪の症状は無い。日曜になってから胸と首周りに赤い湿疹ができた。
その夜、家人が病院に連れて行き、医師は彼から摂取したサンプルをオリンピアに送って現在も診断待機中。麻疹の疑いのある彼は学校にも登校出来ない。そのサンプルが間違った医療機関に送られたとことでもう1日無駄に学校に行けない日が伸びた。
その間、医療機関が私の携帯に電話をして色々と聞いてくる。
現在オレゴン州で麻疹が流行しているとのことで、数週間前に私がポートランドに行ったときの日時やその行動状況。
先週末に息子をどのような場所に連れ出し、どのような活動をしたか。さらに私自身が幼少期に日本でいつ麻疹ワクチンを受けたかなど。これについては数年前母から譲り受けた母子手帳があったのでその正確な50年前の日時を提示できた。
と言うわけで現在も診断が降らない彼は学校にも行けず1人でお留守番。現在サンフランシスコにいる私は何もしてあげること出来ず。
それにしても50年前に接種した父親の麻疹ワクチンが、現在の息子の人体にどんな影響があると言うのだろうか?
エルサレムにて
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「ベテル(神の家)で発見した3点」
創世記 28章10~22節
"ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、
石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」"
⑴地に向けられて立つハシゴの発見
①天地の交渉人(ニゴシエイター)の発見
母の愛と守り(27:42-43)と父の約束履行と配慮(28:4)は経験してが、それ以上のものの存在との邂逅
②イエスと弟子との間のコミニケーション成立の上それは父母から離れて1人になった時。天なる存在者は孤独のヤコブに近づかれた。はしごを上り下りする天使たち。天と地とはつながっていた。
⑵「決してあなたを捨てない」との絶対者の発見
①家庭内での不安定な愛と関係
父の偏愛受けたヤコブ、そして兄からは殺意。
②アブラハム契約がヤコブに継承されると主ご自身からの語りかけ
ヤコブへの約束は母から聞いていた(25:23)、そして父を騙して遺言(28:4)を得ていたが、主自ら直接聞いたのはこの時が初めて
⑶主がこのところにおられたとの発見
①「私はあなたと共にあり、あなたがどこへ行ってもあなたを守り」
「神の家」とは後に神殿を指す代名詞となるが、その特別な不動産がヤコブ自身に伴い、世界中どこまでも随伴するとの約束であった。
②ヤコブの自律的応答〜「すべてあなたが私に賜るものの10分の1を私は必ずあなたに捧げます」
ここでヤコブは律法を遵守しているのではなく神の愛と守りに対する自主的な応答をしている。ここのヤコブの決意を持って「十一献金の教えである」と抽出してはならない。新約聖書的な教えは常に各人による自主的な恵みへの応答である。
(結論)
クリスチャンとは神を見出した者、いや神に見出されたことを発見した者のことである。
ヤコブに置いてそうであった事実は私たち各人にも当てはまる。神には私たち各人へ約束したことがあり、それを成し遂げてくださるのは神ご自身であるという。それが成し遂げられるまであなたは守られ、あなたの行くべき地に連れ戻される。
「人生は80歳から始まる」
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第12回目はドロシー先生の甘い青春時代、男性との出会いについてです。
黒人の赤ちゃん、そして満足できない心
実入りの良い仕事でしたし楽しい仕事場ではあったのですが、私の心は真の満足からは離れていました。宣教プロジェクトのためにどれだけ捧げたとしても、私の内なる声を静めることはできませんでした。
私はエリトリアからの赤子を養子に迎えました。
孤児院から私に何枚かの写真が送られて来ましたが、私の黒人の小さな赤ちゃんは短い縮れ毛をしていてまるで本当の天使のように可愛かったのです。
彼女が成長した暁には私の代わりに宣教師として活躍してくれるのではないだろうか、なんていう期待もしました。ですが、そうは実現しなかったのです。
彼女は生まれた時から栄養失調気味でした。やがて結核に犯されるようになると州立病院に入院を余儀なくされ、そこで亡くなったのでした。
まるで私がこれまでにしようとして来たことの全てが失敗に終わったかのように思えたのです。
働きすぎて教育を最後まで終えることができなかったこと、黒人の赤ちゃんを亡くしたこと、そんなことで将来に対する希望は消え去ったかの様でした。
召しに応えようとする全ての努力や願いは災難に終わりました。
その時私は失望に打ちのめされていたのです。
失われたチャンス
「すべての少女には少なくても一度のチャンスは巡って来る」
これは私どもの聖書学校の一人の教師が、なぜ自分たちは結婚できないのだろうかと悩む女子生徒らに与えていた答えです。
私のにとって一つのチャンスとなったのは、聖書学校の校長でした。
彼は脳みそはあったものの、機転と勇気とに欠けていたようです。
彼の最初の私へのアプローチは手紙となったのですが、なんとそれを彼のいとこに託したのです。私にして見れば、大切な出会いを親戚に任せるだなんて事は考えられません。
もう一つのチャンスが滑ってしまったのは、応えを単に遅らせてしまったことに寄ります。
彼は物静かで誠実な若い男性でした。将来、宣教師となるための準備をしながらも自らの学費を稼ぎ、さらにやもめとなった実の母をサポートするためにパートタイムで働いていた人でした。
私の家族は皆彼のことが好きで、親戚の人たちも彼こそ立派な人だと考えていました。
でも私がお応えすることが遅くなったため、彼は私よりもきれいな女性を見つけたのです。
彼らは結婚して家庭を作りました。
彼は成功した農夫となりましたが、決して宣教師にはなりませんでした。
もし男性側に宣教師としての突然の召しの声がかけられ時、その働きを共有せねばならない夫人としては問題の全てもまた同様に抱え込む事になるでしょう。
ある時、コンウエイご夫妻を通して私の住所さえ知らないはずのある方から手紙をいただきました。私よりもその方の方がこの件についてのエピソードを楽しく話すことができるでしょう。
さらに、教職を引退されたある方は私に山ほどの手紙を送って来ましたが、私はそれに何も答えませんでした。
どうも巡ってきたチャンスの全てを私は取り逃してしまったようです。
錦教会では音楽の賜物の豊かな方が多く強力なコーラス隊が結成されました
毎年クリスマスコンサートには町内の大きな会場借りて開かれます
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第10回目は、ドロシー先生の高校生時代の様子です。
Nutshell(凝縮された)説教
私にはある日、校長室にまで呼び出された鮮明な記憶があります。
南コロラドを訪問してきた一人のクラスメイトが、黒いマツのナッツを持ってきて私たちに食べさせてくれました。
私たち皆はホームルームの時間中、それをかじってはさやを床に落としたままにしておいたのです。私たちがなぜそんなことをしたのか覚えていません。
そんな楽しい妙技とも言えるような時間を過ごしていた時、校長先生が教室に入って来ました。教室のモニター係が彼に知らせたのではないかと私は考えているんですが。
彼はほんの短い時間見渡してから、これをしたの誰だ、と床に落ちているさやを指差して聞いて来ました。その場に居合わせた女生徒は私一人だけで、私がしたことを認めざるを得ませんでした。後でもう一人の女生徒も告白しました。
私は自分の誤った行為に加えてその過ちを否定すると言う罪まで犯したくなかったのです。
幾人かの男子生徒も正直に告白しました。そして彼らは散らかしたものを掃除するようにと言い付けられたのです。そして二人の女生徒に対しては放課後に校長室まで来るようにと言われました。
私としてはむしろ掃除する仕事の方を選びたかったのですが。
校長室に入って先生の最初の言葉は私たちの恐れを取り去るに十分過ぎるものでした。
「女子生徒で貴女方二人だけがあれをしたものでないことは分かっています。お二人の正直さに感謝しています」と言ってくださったのです。
ところが彼の第二言は矢のように私を貫きました。
「これは貴女方のお母様方にもお伝えしておきます」
この言葉はまるですべての説教を一粒のナッツに詰め込んだようなインパクトのあるものでした。
言わば、Nutshell(凝縮された)説教でした。
その後彼が何かを言っていたかもしれませんが、私はからっきし覚えていないのです。
さて私どもの家族についてです。
私ども家族は想定外の境遇によって二回も経済的にはゼロのところまで追いやられたのですが、働き者の父と優れた管理者である母によって助けられてきました。
子供たちを私立の教会附属学校に通わせるのは経済的負担が大きかったでしょうが、両親は私たちがクリスチャンの環境で教育されることを望んだのでした。
その後の大学進学や専門学校への進学は、子供らそれぞれ個人の決意に関わることです。
その時代は夢に溢れている若い子達のための働き場が多く残されていました。
宣教師の影響
学校を時に訪問してくる宣教師とその彼らの働きについては深い印象を受けました。
私どもの校長はかつて外国で宣教師として仕えたこともある人です。
私どもの学校は元々、主に仕えるために有益となる若い人達に訓練を施す目的で設立されたものでした。その召しに最高度に応えるために彼ら自身が献身する機会となる幾つものプロジェクトが生徒たちには与えられていました。
私の心はやがて開かれて、世界をめぐる広い必要に応えたいと言う気持ちでいっぱいと成って行きました。
「世界にはまだ一度も福音を聞いたことのない何百万人という人々がいる一方で、福音を二度も聞く権利は誰も持っていないはずです」
こんなスローガンが学内で何度か聞かれるようにもなりました。
母はまた私があまりに多くの宣教師の報告会や説教者の影響を強く受けただけなのだと思っていたようです。しかしそれでも彼女のこの考えが私の初心をくじけさせることはなかったのでした。
卒業後、私はメイドとしての働きを始めるとクリスチャンカレッジで学ぶための費用を蓄え始めたのです。
私のメイドとしての経験は有益なものとなりました。それは学び直すという体験を与えてくれたと言っていい価値高いものです。
私のやり方でもなく、母のやり方でもなく、雇用主が好むやり方に従わなくてはならないことを学んだのでした。
私の召しはアフリカにあると感じました。私の町には多くのアフリカ系アメリカ人が住んでいたのです。短く突っ立ったブライダルヘアーを色とりどりのリボンで結び合わせたとても可愛らしい子供たちを目にしました。
私はその人たちが集う小さな教会に足しげく出席しました。
彼らの賛美スタイルが大変気に入ったのです。
私どもの大きな街にあるメソジスト教会もまたアフリカ系の方々がお集いになっています。 そこには偉大なコワイヤーがありまして、彼らはまるで燃え立つかのような力ある賛美をするのです。
カペナウム
イエス時代のカペナウム会堂の土台
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージ・ノートです。
「ガリラヤの漁師に」
マタイの福音書 4章12~22節
"イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。"
⑴召命の漸進さ
①突然に思える召命の背後にも漸進性がある
初期ユダヤ伝道 ヨハネ1:40-42
初期ガリラヤ伝道 ヨハネ2:1-12
カペナウム伝道 ルカ4:31-39
②イエスと弟子との間のコミニケーション成立の上での転機となった出来事
その当日の大漁の奇蹟 ルカ5:1-11
⑵預言の確かさ
①イザヤ9:1-2の成就
700年以上も前に預言された「暗闇」「死と陰の地に座っていた」ガリラヤの民
「異邦人」〜アッシリア侵入
②「光が照った」
光とはイエスの宣教であり、イエスご自身
未来預言形の動詞時制に注目
⑶摂理の不思議さ
①「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
それは千年王国であり、結果としてカペナウムそしてユダヤ全体からは取り去られることになる。
イザヤ時代に「光」が到来しなかったことと同様
②その「ヨミにまで投げ落とされる」カペナウム(マタイ11:23)町からペテロやアンデレが弟子として召された。
「わたしについてきなさい。あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」
聖書学者や祭司などの特権階級ではなく一介の平民の漁師に白羽の矢が立てられている。
(結論)
摂理の生涯があり主の声を聞いた故に私たちはここにいる。そのことを自覚した上で主の招きの声を今一度聞いてみよう。
日本国総領事館が入居しているタワービルディング
先日は日本国総領事館に行ってきました。
先週に引き続いて2回目の訪問です。
申請していた書類を受け取らねばならないからです。
最初の訪問は5月2日でして令和の世になってから2日目、新しい天皇皇后両陛下が即位されたお祝いの記帳もさせていただきました。
その時に気づいたことを何点か書いて来ました。
❶やっぱり日本スゴイ!
❷なるほど日本らしい!
❸こうしたらどうなの日本?
今回は❸を記します。
記帳室には2名の職員が起立姿勢のまま待機しています。
申請受付窓口は2つあるのですがその日空いていたのは1カ所だけ。
何もすることなく記帳を見守るだけの役割ならその狭い部屋に1名いれば充分でしょう。もう1人は窓口対応すれば良いのになぁと思いました。
申請時に私の前に2組の方々がいまして、約15分間の待ち時間。
私が申請を終えた時、6組〜8組ほどの方々がその1つの窓口で待っていました。
申請後書類は1時間ほどで完成するから取りに来て欲しいとの事なのですが、閉館時間まで1時間半しかありません。
1時間半の間に私の番が回ってるかどうかもわからないのです。
書類受け取り時に15ドルをお支払いするだけのことですので、所要時間は5分とかからないでしょう。
そのために受け付けてもらえるかどうかも分からない1時間30分を無駄にすることができません。
やむを得ずその日の受け取りをあきらめ、翌週の2回目の訪問での受け取りとなったのです。
記帳室のドアから2メートルと離れていないところにセキュリティーの大柄な黒人男性が椅子に座ってらっしゃいます。
どれだけ安全面を考えても2人がその部屋に一緒にいる必要はあるようには見えません。
必要のない所には丁寧。
邦人のためにサービス向上しようと言うその必要性はあまり考えていないようにお見受けしました。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第九回目は、サイクロンで破壊された家を再建する過程。ついに彼らのドリームハウスが完成するのです。
ドリームハウス
その手紙を母が書いたのは1932年6月20日の事でしたが、それまでに彼女が庭園に植えていた多くの野菜はひどく被害を受けました。
多くの地元の大工さんや職人さん達はボランティアで働いてくれたのです。
そんなこともあってまもなくすると、家を再建しようとの気力も出て来ました。
皆はとても協力的でした。いや、ほとんどの人達は、と言っておくべきでしょう。
あるご近所の方は、その空き家を私どもに借家として貸し出そうとしたのです。
母は憤慨していました。彼女にとって借家のためにお金を捨てるような事はあり得ません。
そのかわりにすでに夏となっていましたから、外でキャンプ生活をするにはもってこいですよね。
その借家の家は数ヶ月間も住む人なく空き家のままでした。
黙示録の大患難時代の到来を固く信じている母にとって、この時は感動的な期間でもあったのです。母はその手紙を閉じるにあたり、こんな映えある言葉を選んだのです。
「すべての雲には銀の裏地がある」
(キリストの再臨時には栄光の銀色に光る雲に包まれてキリストが地上に来られることからの表現)
秋までには私どもの頭上になんとか屋根のある家屋に移りたかったのです。
家自体はまだ完成していなかったのですが、とにかく私どもは荷物を多く抱えてました。
母のドリームハウスは石作りか、または漆喰作りとなるはずです。
建築業者は屋根板を使うようにとアドバイスしてくれました。それが町には沢山在庫としてあったのです。
それらは断熱に優れた上に、あの嵐からわずかの被害しか受けてなくて再使用するのになんら問題はありませんでした。母はその提案を受けることにしました。
仮の宿程度でしたが、何とか住める体裁は整ったようです。
それから幾年かの後、私どもはリモデルを行いました。
バイクピーク山とその周囲の山々の山容が見事に見えた大きな窓は取り去られて、小さなエコノミーサイズのものに取って変えられたのでした。
"私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。"
(詩篇 121篇1~2節)
その家は漆喰作りのものとなりました。
こうして母のドリームハウスはついに現実となって行ったのでした。
本からは学び得ないレッスン
母の最も好きな歌の歌詞には次ようなものがありました。
「あなたは間違った方法でそれを得ることはできない。
あなたがどんなに一生懸命に努力しようとも。
すべてを隠し切る事は出来ない。
神様はすべての事をご覧になっておられる。
あなたは間違った方法でそれを得ることはできない。」
母は自分自身の直感に対しては、二倍の分け前(特別な能力の意味)を引き継いだように思える人でした。
教会付属の高校生だった兄はある時、友人と一緒に学校を抜け出しては映画館へ行ったのでした。
学校からの電話によって兄の欠席が伝えられました。
すると母は地元の映画館のチケット窓口まで行って館内に入る許可を求めたのです。
彼女は息子がそこにいるような気がしたので、ただチェックしたかったのです。
たちまち彼女は兄のいるところを見つけ出すと、彼のすぐそばまでやってきました。
が、掴み出す事はしなかったようです。どのようにして彼女がその場を解決へと至らせたのかは覚えていません。ただ私は自分では兄のようなことを決してしまい、と決意しました。
母を相手に隠れることは出来ないと思い知らされた事件でした。
「人生は80歳から始まる」
開拓当初の旧会堂。川の対岸から。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第七回目は、かなりのおてんばだったドロシー先生の子供時代と新しい学校への入学の様子です。
救世軍の路傍伝道とアイススケート
毎週土曜夜は街へ繰り出して救世軍の路傍伝道に参加しました。彼らのユニホームやその帽子等はなかったのですが。
母は主のために公の場で証をするのを愛していました。
彼女はその路傍伝道を大変楽しんでいたし、私もまた同様に楽しみに待ち望んでいたのです。
ただ私にとり勇気を振り絞ってその務めを果たすのには大変長い時間がかかったし、その後は大変疲れもしました。タンバリンのあるブラスバンドは大変良いものとなりました。
冬になると兄弟たちと一緒に私は氷の上で良く遊びました。
シティーパークは広大なスケートリンクになったのです。
私を除いて兄弟たち二人は、とても達者なスケーターでした。
私はフィギアスケートはおろか後ろ向きに滑るなんてことはできなかったし、そんな私を見ていた兄弟たちは最終的に私を教えるの諦めたほどです。
前に進むことだって兄弟が私の手を取って一緒に滑ってくれなかったらおぼつかないものだったのですから。
それから幾日かが経ち、私が大学進学のために働いていたりして忙しかった時の事です。
弟が私を午後のスケートに誘ったのです。
それはお互いにとってまるで災難となりました。彼はそれ以後、二度と私を誘うことはありません。
翌日私は働くことがほとんどできなくなったのです。スケートからではなくて、氷の上にただ倒れ続けたことからくる筋肉痛によって。
完成しなかったプロジェクト
めったには無いことでしたが、短期間の母の留守の間は私たちにとり実験の機会となりました。
弟と私はいつもチームを組んだのですが、兄は関わろうとはしません。
ある時私たちは蛇の死骸を見つけたのです。ワニの革製のカバンや靴はあります。
では、蛇の皮のベルトってどうでしょう!
その作業工程は単純なものでした。
母の洗濯機についている手動式ハンドル絞り器にその蛇を通して中身を絞り出し、それから真っ二つに切り割いて皮の両面に塩を塗り込み、天日干しにするために切り裂いた側を表にして鋲で留めたのです。
それからどうなったのか?
実は、私は思い出せないのです。
私どものプロジェクトは完成しないままだったと、かすかに記憶していますが。
母のこれらの困った子供たちに対する対処方法は、時の問題が様々であるように様々に異なったものとなっていました。
その当時、児童心理学による硬直したルールなんていうものはなかったですしね。
無駄ではなかった聖書学校
母はやがて子供たちに充実した教育をしなければならないと感じるようになりました。
パイクス山の麓にある聖書学校では、小学校から高校までの教育を提供していると聞きつけたのです。
再び私たち皆は、それぞれのカバンをTモデルのフォード車に詰め込んで学校へ通うようになりました。しかし今回はそれまでの走行距離が大したものとなっていたので、だいぶくたびれたポンコツ車になっていたのですが。
そう言う訳で上り坂の途中では、降りて皆で押さねばならないことだってあったんです。
フォード車の最後の運命は、私たちを新しい天地であるコロラド・スプリングスに連れて行く事で終わったのです。
父は母が定住後、だいぶ落ち着いてから引っ越してきました。
母がほとんどのことを取り仕切ってくれました。
一体彼女はどうやってやりくりしたのか、からっきし覚えがないのですが、土地と小さな白い家を買うだけの蓄えをしていたのです。
その後の彼女の計画は次のようなものです。
新しく夢の家を建てることができた時に、それまで住んでいたその小さな白い家を二台収容可能のガレージに改造するというもの。
そのために借金することを彼女は考えなかったようです。
「借りるものは貸すもののしもべとなる」と信じ、
また借家住まいとは、お金を捨てるようなものだと考えていました。
彼女はテントのような家を設計し建て上げると、
私たちは小さな家が立ち上がるまでそこが仮住まいとなりました。
私どものその新しい家は街のはずれにあったにも関わらず、ご近所さんたちには恵まれました。
でもヤギは諦めねばなりませんでした。
現実のところ既にヤギは必要とはしなかったのです。
私たちの主は父に健康を与えてくださり、彼はリタイヤするまで食品販売の店で働くことができました。
明日こどもの日を迎えます。
数日ぶりに晴れてくれたさつきの空に、
鯉を泳がせました。
今は可愛い鯉である子らも、やがて龍と成り駆け登って行くのでしょうか。
「人生は80歳から始まる」
1988年、中部教区聖会。
講師は当時Immanuel名古屋教会牧師の竿代信和先生。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第六回目は、ドロシー先生のお母様がいかに伝道熱心であられたか、その当時の社会と学校生活の様子です。
母の伝道活動
母はフォード車でかなり広い地域にまで働き場を進めて行きました。
何人乗りの車であったのか覚えてないですが、彼女は多くの人々を教会に連れて来たのです。
多忙ながらも母は病人を助け、家庭訪問し、貧困者のための奉仕など多くの活動をしましたので牧師は彼女を伝道所の主事として任命したほどです。
しばらくしてその牧師は由々しい間違いを犯してしまったと言えるでしょう。
それは、彼女から働きの結果としての教勢報告を求めてしまった事でした。
「私は教会としての記録を高めるためにこれらの働きをしているのではありません」と母は応えていました。
彼女は、何よりも主ご自身に仕えているのですと、明白に語ったのです。
牧師はそれ以降彼女からレポートを求める事はありませんでした。
神様ご自身がレポートをお持ちです。
彼女とフォード車は協力しながら働きを進めていきました。
私は早い時期から固い床の上に寝る事を身に付けました。
と言うのは、母は私たちよりも貧しい人々を見つけてはよく家に招いたからです。
私たちの家はフォースター・ホームとなりました。
あるときはやせ細ったおじさんと彼の4人か5人ほどのこれまたやせ細ったお孫さん達が私どもの家族に加わりました。
彼らは誰もが皆、身なりを清潔にしてまた栄養も与えられる必要があったのです。
彼らは数週間の滞在で見違えるように変わりました。
あの時は家中が遊園地のような遊び場となって賑かとなったものです。
母のモットーは、「もし心の中に部屋があるなら、家の中にも部屋があるはず」と言うものです。
彼女が信じていたことは、制約されたチャリティー予算の中にあっても、神様が愛の方であると知るには充分であること、そして神様は人々が心と体とをきれいに保つ事を、向上心を持ち生産的であることを、自分たち自身の足で立つことを望んでおられる事などです。
彼女は、まさに人々が自立するのを助けたのです。
彼女にとって怠けるとは、実に犯罪のようなものです。
「怠け心は悪魔の作業所である」と彼女なら言ったことでしょう。
このモットーを幼い時から叩き込まれた私たち三人の子供らは、家事も分担させられました。
私は当時、じゃがいもの皮むきから決して卒業する時は来ないと悲観したものです。
母の教えは忘れることができません。
ポテトを剥くにも方法があると言うのです。
ポテトの中で最も栄養価の高い部分は皮のすぐ裏側にあります。
リンゴも皮をむいてはなりません。
神様が美しい赤色に仕上げてくださった部分だからです。
二人の兄弟は料理の腕をあげました。
特に弟はビスケット作りがとても上手で、学校ではAプラスの成績を取って来ました。
彼とその友人は勇敢にも高等学校時には料理教室に加入しました。
女生徒の中でのたった二人の男子生徒です。
ビスケット作りで弟が最優秀賞をとったときには、女生徒らは皆で彼を仲間外れにしたものです。兄もまた彼自身の子供たちにチョコレートワッフルを作って驚かせたりもしていました。
彼の奥さんが入院していた時が、彼の料理の腕前が最も発揮された唯一の時となりました。
田舎の小学校
たった二つの教室に八学年が詰め込まれた田舎の小さな小学校で、私たちは学んだり習ったりしたのです。
母は私たちの成績表をだいぶ長い期間、私たちが大人になってからも保管していました。
成績の程ですか?
私たちはそれによって平均よりは大して上ではなくときにはその下であったのを証拠付きで思い出せました。
その頃は人間は空を飛ぶことをようやく始めたばかりの時代です。
飛行機の音が聞こえると私たち生徒ばかりでなく先生たちさえも窓際に走りより、人間の科学発明に驚いたものです。
出し物と言ったら、、、私たちは何もかもを自分たちで用意しました。
学芸会でのことです。私は舞台の上ですっかり上がってしまい、あぶら汗で指がすべてのピアノの鍵盤から滑り落ちてしまったのでした。
恥ずかしさいっぱいのままでお辞儀すると、たくさんの拍手を受けました。
全ての生徒は何かをしなくてはなりません。
私は朗読する際、そばかすでギラギラした友人らに顔を向けるよりは背中を向けて恥ずかしさを耐えていました。
もちろんその他にもバレンタインパーティーやハロウィンパーティー、またクリスマスパーティーなども楽しみました。
1988年隣の南島町での夏季子供集会
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで一人で伝道されていらっしゃっるのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
教団最若輩だった私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名は「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力とに満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出したその背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福となりました。
まるで宝物を探し当てたように興奮しながら原書のページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
その第五回目は、ドロシー先生ご家族が母親の運転するフォード車に乗ってキャンプ生活を繰り返しながらコロラド州まで引っ越して行かれた様子です。
母親の決してたゆまない信仰
祖父母からのなんら経済や精神的な支えはありませんでした。
「旅の途中、彼が死んだらどうするのよ」とある祖母から言われた時は、母はその夜、人知れずに泣いたに違いありませんが、そのような落ち込みや不安を私たちには一切見せなかったのです。
それは馬と馬車の日々といったものでした。
当時はガレージセールなんてものはありませんでしたので、私たちはオークションを開いたのです。農具や家畜また家具など(ミシンと母の婚礼家具であったタンスは例外ですが)、とにかくあらゆるものを処分せねばなりません。
農場もうまく売ることができて全ての借金の支払いを終えました。
その時はモデルTのフォード車を買うだけの現金を手にしたのです。
新車購入の日、私たちはともに行くことが許されませんでした。
母は興奮した三人の子供たちを連れ出す必要は無かったのです。セールスマンは基本的な車の扱い方を教えただけで、彼女は信仰によってそれを運転して帰って来ました。まさに決意の固い母が勝利の凱旋を果たしたわけです。
病気の夫と三人の子供と必要最小限のものだけを乗せたモデルTのフォード車に乗った私たちはコロラドへと出発しました。
父の具合はおもわしくなかったので長距離の移動はできません。でもそれはその年の輝かしい時と言えたでしょう。私たちは新しい根拠地となるコロラド州のグリーレイまでずっと自炊しキャンプ生活でやって来ました。
その土地のナザレ教会の牧師が私たちの落ち着く先を世話して下さいました。
母は縫い物をしたり看護師として働き、音楽も教えまた清掃の仕事をしました。
すべての仕事は尊いものです。
私たち三人の子供らは路頭に迷うこともなかったのです。
父は自宅療養し、私たちで彼を助けながら少しずつ良くなって行きました。
彼には彼専用の食器を使ってもらいます。それは煮沸して消毒せねばなりません。感染力の強いその病に私たちは一人もかからなかったのでした。
父の必要としていたものは、どんな肉や栄養価のあるものよりも安いヤギのミルクでした。そこで私たちはヤギを飼ったのです。子供たちにとってそれは楽しいものでした。
私たちには自分たち専用の動物園やサーカスまでありました。
こうして私たちは生きたおもちゃやたくさんの楽しみを経験しながら成長しました。
父親の回復はめざましく彼はやがて働けるようにもなり、そこで私たちは再び田舎生活をすることに決めました。都会生活はどうも私たちには向かないようです。
都会での恐ろしいことから守られたのは、ただ母の愛によるものでした。
その町の学校での最初の日の事です。
私たちの家はその学校からランチのために帰ってくることができるほど近くにありました。その学校に私が慣れて以降、覚えられる以上に多くの出入り口がありました。
その日、間違った出口を出てしまうと何もかもが見慣れないものばかりです。
絶望して泣きだす前に私は勇敢にも玄関先に立ち、ドアのベルを鳴らしたのです。
優しそうなおばさんが出てきたので、私は「家に帰る道を教えてください」と聞いていました。
「お嬢ちゃん、あなたのおうちの住所はどこ」と彼女は聞いてきます。
「それがわからないんです」と答えたちょうどその時でした。
母は何か問題を察知して私を探しに来ていたのでした。
私はこの時、奇跡と言うものを信じました。
私はどうやら落し物が並べられているその場所に連れて行かれることから守られたようです。
モデルTフォード
長年にわたってあのモデルTフォード車は私どもの生活の一部となりました。
母はどんなに忙しくても私たちをキャンプや遠足にその車に乗せて連れて行ってくれました。
いつでも子供たちのために時間を割いてくれました。
また彼女は私たちをそれに乗せてリバイバル集会にも連れて行きました。
若い時から私の心が罪を認めること、地獄に関する説教、審判そして主の再臨に関する教えにとられたのです。他の兄弟たちがどのような信仰状態であったのか思い出せないのは、私自身が罪深さを深く自覚していたためでしょう。
もし普通の教会生活なら私もきっと静かな天使のような存在であったでしょう。
言うまでもなく私はそんなものでは無いのですが。
早い段階で兄弟たちと私とは教会の中でどう振る舞うべきかを学びました。
私たちの座席は前のほうにあり、両親たちの一つ前に座りました。
そのため両親たちはメッセージの全ての言葉を聞き漏らすこともなく、同時に彼らの目はいつも私たちを見張っていたのです。
詩篇 23篇1~6節
"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"
「私は乏しいことがない」
本篇の作者であるダビデは、王位を確立した後だから断言してるのではない。
少年時代の貧しい羊飼いとしての務め、
青年時代に王から逃れた破綻した人間関係、
王となってからも家庭内の反目や部下の裏切り。
逆境のただ中にあってこのような高い調べを歌いあげることができたならば勝利であろう。
私たちの人生の旅路にも試練はつきものであるがこれらの3点に留意したならばそれが恵みにと変わる。
❶私を義の道に導かれる
過去にしでかした罪や過ちを恥じてさいなやまされる時がある。
そんな私を「義の道」に、すなわち神ご自身と顔と顔とを合わせられる聖なる場に導いてくださる。
それは私にふさわしいものがあるからではなく「御名のゆえ」イエスの贖いのゆえである。
❷あなたが私とともにおられる
神の臨在の伴わない生涯はどんな犠牲的で困窮していても、どれほど高貴に豊かであっても虚しいものだ。イエスご自身が共に同伴者として旅路を歩いてくださっているとの納得があるならば、どんな問題をも乗り越えて行けるものである。
❸主の家に住まいます
聖書で主の家とは神殿を意味している。
そこは礼拝(賛美といけにえ)が捧げられる場所である。地上のどこにいても生活のあらゆる場面で神殿を住まいとするとは、どういうことだろうか。
新約の光に照らして敷衍するならば、それは御霊ご自身を、キリストご自身を心中に保つと言うことに他ならない。
私どもの住まいをどことしてるだろうか。
"あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。"
コリント人への手紙 第一 6章19節
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