日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
その第41回目は、ドロシー先生の入院経験を記しました。
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第四部
さまざまな事がら
伊勢神宮のあおりを受けて
20年に一度、伊勢神宮からの特別な大木が、地元の神社へすげ替えのためにやってくる行事があります。その神木である大木をお迎えするのですが、錦では連日イベントの目白押しで
となりました。ダンスやパレードなどです。さらにそのための組織作りが町内会で始められました。
教会が置かれている町内会でも参集の知らせが届けられ、私もその集いに参加せざるを得なかったのです。
そこで私は、
「分担金があるならば喜んでお支払いしますし、祭りのための助けが必要ならば時と場合に応じて喜んで協力しますが、いまや教会の働きが大変忙しく私のほとんどの時間を費やさねばならない」ことをお話ししました。
その町内会長さんの娘さんは、かつて聖書クラスに出席されていました。
そこでそのお父様は、私がこの宗教のお祭りには何の義務も負わなくて良いことにしよう、とグループの皆さんにお話ししてくださったのでした。
水に浸かった花飾り
そんなことがあった直後にもかかわらず、祭りのための花飾りを作るようにと依頼されたことには全く驚くばかりです。係りの方がやって来られ、私にあてがわれた材料と隣に住んでいらっしゃる若いクリスチャンの女性を残して帰って行かれました。言いつけられたであろうその女性は、何度も私にお詫びしながらも、私にその材料と作り方とを伝えてくれました。
私たち二人とも、こんなことには全く関わりたくはないのです。もし私がきっぱりその作業を断ったとしたら、クリスチャンの彼女が私の分まで受け持たねばならない、と言われるのです。
「互いの重荷を負い合いなさい」との聖書のお言葉を実践するのが、こんなにも困難なことであったとは!
私はほとんど一晩中かけて、しかも泣きながら、祈りつつ、そのあてがわれた紙製の花飾りを作り上げて翌朝早く届けに行きました。
その花が飾られたロープは町全体に渡りつながれてありましたが、主は祭りの始まる直前に豪雨を降らせてその全てを台無しにされてしまわれたのでした。
礼拝に人々が溢れたこと
その祭りは、日曜から月曜にかけて行われました。
ある方がその日は誰も教会に来はしないので、日曜礼拝をキャンセルしたらどうでしょうか、と提案してくれました。「いいえ、私たちは決してキャンセルはしません」と私はお答えしました。
かつて私は一人で礼拝を守ったことがあります。再びそうすれば良いだけのことです。
その頃川崎教会のある若い男性は大阪出張中でして、時に長い週末を利用して錦の働きを手伝いにお出でになることがありました。
彼が連絡をして来て、その日においで下さるとの事ですから、私たち二人だけで礼拝をすることになるでしょう。しかし驚いたことに、近くからも遠くからも思いがけないゲストの方々がおいでになられました。彼らはこの町の祭りのためにやってこられた方々でしたが、教会にもお出でになられ、とにかく会堂が収容できる限界まで新来会者で溢れたのでした。
確かに主の道は私たちのそれよりも高く、そしてときには私たちを驚かせることを喜んでいらっしゃるかのようです。
町内会に住む一人の住民として、私はかつて葬式の行列に加わるようにと求められたこともありました。その時、主は私に真に逃れの道を備えてくださいました。
その時はちょうど日曜日でして、すでに子供さん達が日曜学校に多く集まっていたのです。
当時私は日曜学校とそれに続く日曜礼拝の全面的な責任を負っていたものですから、それが格好の理由となって、以後求められる事も無くなりました。
このことはクリスチャンが、私どもの周囲の方々のために悲しんだり、その苦しみを無視したりして良いと言うことでは決してありません。死者のために香を焚いたり、その霊に祈ったりする方法以外に、愛ある関心を示す方法があるはずです。
骨折と入院経験
すべての女性は、長期間入院したことを得意になって話すのが好きなのを皆さんは知っていらっしゃることでしょう。ただし、これは女性だけに限ったことでありせんよ。
有名なナザレンの伝道者であるブッド・ロビンソンと言う人が「私の入院体験」と言う本を上梓しています。私はそこまでをここでしようとは思っていません。
40年以上前に私が初めて日本に到着して直後、私の到着を待っていたあるご婦人に会うため、ある病院を訪れました。彼女自身は慰められたようなのですが、実は私の心はだいぶ掻き乱されたのです。その病院の様子を見てのことです。そして日本では決して入院だけはしたくない、と心底思いました。
しかしその後、私が数カ所を同時に骨折してひどいことになった頃までには、この国の入院環境はだいぶ改善されて来た様です。
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
その第40回目は、追憶場面の第二回目です。教会に与えられたハンドベルは米国の関係者からの捧げ物によるものでした。
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Gladys Bates さん
彼女の遺骨は錦教会の納骨堂には納められていません。
しかしながら彼女の半分ほどの遺産は教会の新会堂建設のために投資されました。いわば教会堂が彼女の活きた記念碑と言えるでしょう。
Gladysさんは、私の母とその姉のムーディさんの親友でした。彼女ら三人は主にあって消して違うことのできない生涯をかけた親友でした。
Gladyさんの最初の、そして雄一となった赤子は死産となりました。
後日彼女は養子にある女子を迎えますが、私自身もまた彼女の二番目の養子のような女子だったのです。
米国にファローとして帰国するときには、必ずと言って良いほど彼女のところへ立ち寄りました。やがて彼女の病は、彼女が家を維持することや自ら調理する事を困難にはさせましたが、彼女の明るく幸いな精神と専門のピアノを弾くことについては、影響を与える事は決してありませんでした。
彼女の震えが止まらなくなった指がピアノでこの曲を弾いた時、文字通りに鍵盤の上を飛び回っていたのを忘れる事ができません。
「エルサレム、エルサレム、声を上げて歌えよ
ホサナ いと高き方に
ホサナ 我らの王に 」
(聖なる都)
まだ彼女がわずかの旅なら出来る時に、私たちは私の家族が以前暮らしていた古い家のある場所へ懐かしい旅行を行いました。私の両親が改心した所であり、Gladyさんと初めて会った教会も訪れました。それから彼女のもう一人の養子である女性のところへも行きました。
私が最後に彼女を訪れたときには、彼女はすでに養老ホームに入っていました。私が部屋に到着する前に、すでに彼女は私の声を聞き分けていたのです。彼女は呆けるどころか、明るく強健であると言って良いほどしっかりしていました。
高齢になっても、サタンは彼女の精神をくじく事はできなかったのです。
ランチの時間が近づくと、彼女は私から離れ去るなり言いました。
「私はダイニングルームではいつもドレスアップすることにしてるの」
彼女の遺書と契約により、その遺産は彼女の残された二人の養子の”女の子たち”に等分されることになりました。
ハンドベル寄贈者
Doecker, Otto and Dora
WOmack, A. E.,Mary, Jim
Shelhorn, Raymond and Laura
Conways, Larry and Neat
Monroe, James and Emma
Darr, Eugene and Maude
Finke, William Sr., and wife
Finke, William Jr., Elat, Danny
King, O. L. and Gladys
Rohrer, Donald and brother
Potter, W. L. and Cora
Henshaw, George
Heyer, Dewey and Lydia
Haines, Herbert
Holwick ( Pearl’s deceased husband)
Labertew, Leslie A. and Bessie O.
Miller, Mr. and Mrs.Alfred
Zalaha, Irma L.’s (deceased husband)
Willard, Harry Mr. and Mrs.
Pipes, L.B. and Nina
ここにあるリストの一部の方々は、その献金の宛先が明示されていませんでした。
それでこのハンドベルのリストに載せることにしました。
またこのリストからたとい漏れてしまった方がいたとしても、私たちの主イエス様が主の忠実な家族の一人ひとりを覚えていてくださることに何ら変わりはありません。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「香の壇の建設」
出エジプト記 30章1~10節
"また、香をたくための祭壇を作れ。それをアカシヤ材で作る。
長さ一キュビト、幅一キュビトの正方形で、その高さは二キュビトとする。祭壇から角が出ているようにする。
祭壇の上面と、側面すべて、および角には純金をかぶせ、その周りには金の飾り縁を作る。
また、その祭壇のために二つの金の環を作る。その飾り縁の下の両側に、相対するように作る。これは祭壇を担ぐ棒を通すところとする。
その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。
それを、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前、わたしがあなたと会う、あかしの箱の上の『宥めの蓋』の手前に置く。
アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整え、煙を立ち上らせる。
アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、煙を立ち上らせる。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。
あなたがたはその上で、異なった香や全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げてはならない。また、その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。
アロンは年に一度、その角の上で宥めを行う。その祭壇のために、罪のきよめのささげ物の、宥めのための血によって、彼は代々にわたり、年に一度、宥めを行う。これは主にとって最も聖なるものである。」"
⑴「香」とは聖徒らが捧げる祈りである
①「私の祈りが御前の香として、、、立ち上りますようにように」(詩篇141:1-2節)
②祭司の勤め
材料を日々に砕いて(謙遜)から日々の必要な分量(その日の必要)を捧げる
⑵角に血を塗る
アロンによる年一度の贖罪の制度。大祭司なるキリストによる贖いを表す
② 祈りにも贖いが必要?
誠意を尽くし言葉を選んだとしても私たちの祈りには欠陥がある。その清めを象徴している。
⑶キリストを通して父の前で祈りとなり得る
「これは主に対して最も聖なるものである」
①キリストの名よって父なる神が私たちの祈りを成就してくださる。ヨハネ16:23。
②キリストご自身が私たちのために執り成しをされている。ローマ8:34。
(結論)
キリストの名によって捧げる私どもの祈りは、清められ、父なる神のもとに届けられ、そしてそのキリスト名において実現される。
しばらく中断していましたが、日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
その第39回目は、回想録の最終章に入り、思い出深い方々を追憶している場面です。
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第五部
追憶
牧野克己さん
日本は幾世紀もの間、偶像のお寺や神社と長く深いつながりがあり、またそれらは強力な領有権を有する地主としての勢力を人々の間に伸ばしてきたので、多くのキリスト教会はそれらの宗教組織とは別個の地所に墓地を設ける必要がありました。その点、幸いなことに錦では町立の墓地区域が整備されていました。
その区域の中に私たちの教会用墓地を購入することができました。その購入時には既に私どものメンバーの一人がこの世を去っておられて、彼の遺骨は今やそのふさわしく整えられた墓地に安置されています。
最初に彼が私たちに紹介されたのは、彼の息子さんによってのことです。
当時その息子さんは結婚問題の只中にあり、フィアンセさんとともに教会においでになられていました。
日本において結婚とは、愛し合っている二人だけの決心で済むことでは無いのです。
彼らの家族や多くの親族縁者が絡み合っていて、ときには痛ましいく思うほどです。
そのフィアンセの若い女性のお姉さんは、すでに錦教会に導かれてクリスチャンとなっておられ、彼女の人生は主の前に正されていました。その若い女性は徐々にですが、祈りが問題を解決することを理解し始めたのでした。
約6カ月間、毎日の早天祈祷会に彼らは参加して、その熱心な祈りは彼らを変えただけではなく、教会全体にも大きな祝福をもたらしてくれました。
信仰に至った息子さんは、病と戦っている実のお父さんを訪れるように頼んで来ました。
約20年間も肝臓疾患のために入退院を何度も繰り返されていたお父様です。私はこれまで、そのような望みのない病状の人を前にしたことがありません。
聖書の神様のお言葉と祈りによって、彼は一筋の希望の光をつかんだかのようでした。やがてそのお父様は信仰を持ち、日曜礼拝に忠実に出席するようにもなられたのでした。
私たちは彼が完璧に癒されるように願いました。なぜなら、神様にとって不可能な事は何もないのですから。
時に彼の健康は回復したかと思うと、またひどい状態に陥っていきました。
ある日、彼の息子さんが電話をしてきました。お父さんの病状がおもわしくなく、手術が必要ではないか、と医師からの提案があったとのことです。
手術をするにしても手術をしないにしても、彼の命が危険にさらされていることには変わりありません。そこで私にアドバイスを求めて来られました。私にとっても決断は難しいものですが、主にとっては難しいものはありません。私はヤコブ書に書かれてある教えを思い出しました。
"あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、
その人は祈りなさい。
喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。
あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、
主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
信仰による祈りは、病んでいる人を救います。
主はその人を立ち上がらせてくださいます。
もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。"
(ヤコブの手紙 5章13~15節)
私は息子さんに、お父様にこれらの御言葉を読んで聞かせ、このことを信じるかを尋ねるようにと言いました。やがて連絡があり、彼は信じる、と答えたとのことです。
そこで私が病院にお見舞いに行く時点で、お父さんは彼自身が癒されることを確信出来ていました。お父様は泣いている妻に向かって、「もう家に帰っていいよ」と言ったのです。
その後、彼自身はバスを使って一人で帰宅出来たとのことです。
さらに彼は次の日曜日の朝、礼拝のため教会においでになられました。
主は彼をさらに強めてくださり、家業である電気機器関連の商売をしている息子さんの仕事を手伝う程に回復したのです。
時に体調が悪くなると、礼拝をお休みされる時もありました。
そんな時は必ず前日の土曜の夜に電話をかけてこられ、「どうも体があかんな。お祈りしてください」と言われ、電話口にて二人だけで祈った事は何度もあります。
私が米国にファローしていた期間、ついに主は彼を永遠の家にお召しになられました。
やがて全く癒された健康体の彼と再会できるのを楽しみにしています。
東有子(ありこ)さん
彼女が私たちから取り去られた時は、まだまだ彼女はキリストにある“赤子”でした。
私たち皆も同様に間も無く取り去られようとしていることには違いはないのですが。
ある日、彼女とは錦教会の熱心なメンバーである上野和子姉の知り合い、と言うことでお会いしました。既にその時にはドクター上野と奥様の和子姉は真実なクリスチャンとなっていらっしゃいました。
「どうか私を教会に連れてってください」と彼女は真摯に願い、尋ねて来られました。
彼女は忠実に教会に通うようになり、キリストのメッセージに関して質問や疑問はなかったようです。
彼女は私が英語クラスをしている上野邸のすぐ近くにお住まいだったこともあり、しばしば聖書と歌の本を携えてはそこまでやって来られました。私たちは多くの楽しい交流と学びの時を持ちました。彼女はクリスチャンとして成長し始めたのです。
彼女の生活がかなり変えられたものですから、夫とお子さん方もまた教会に来られるようになりました。彼女は暖かく、そしておおらかな心をお持ちの女性です。彼女はとても控えめながらも特別なご飯料理を作られた時、私と上野ご夫妻とがしばしば招かれては、彼女の家族とともに御相伴に預かりました。
しかし彼女の健康はすぐれなかったのです。彼女の実の姉は、現在の彼女が負っている健康上の問題ゆえに亡くなられたのでした。東姉はJR事務所で引退まで清掃のお仕事をなされました。
その引退以降、彼女の健康は崩壊して行きました。検査入院を前にした時、彼女は信仰を公に証しするために洗礼を申請して来られました。
私は元旦に、彼女の家族と共に過ごすように、とのお招きをいただきました。
楽しい交友と賛美の機会としてそれが最期となるとは、私たちは少しも気がつかなかったのです。その直後に彼女は入院されて行きました。
私たちは彼女を訪問し、希望を共有し、また共に祈りました。彼女にある溢れるほどの喜びまた生きた証しは、教会の中に必要とされていましたし、それは彼女の家庭にも地域にもそして親戚一同にもとっても貴重なもののはずです。
病院の医師も看護婦も、そしてすべてのスタッフは彼らのベストを尽くして彼女の命を支える努力を惜しみませんでした。彼女が取り去られるのを見るのは大変辛いものです。しかしながら、私たちは彼女が今やすべての痛みと苦しみとから解放されて、主イエス様の御腕の中で憩いを得ていることを知っています。
彼女が地上に残していった位牌は、今や錦教会のお墓の中に管理されていて、やがてのよみがえりの朝を待望しています。それに彼女は、常に私たちの心の中に生きているのです。
谷口お婆ちゃま
彼女のふっくらとした小さなお孫さんは、私どもの日曜学校生徒の中で最年少のお嬢さんでした。彼女とそのお兄さんは、日曜学校に必ず来るようになりました。
お嬢さんがイエス様のことを聞いたとき、彼女は主を受け入れて、しかも偶像崇拝に対して確固たる立場を取るようになりました。彼女のお母様は、子供たちを仏壇や神棚の前に座らせて拝せることを常としていたのですが、お嬢さんの亜希子ちゃんはその時、「イエス様だけが唯一で本当の神様なのよ」とお母様に告げたのでした。亜希子ちゃんは以来、仏壇の前で拝むのを拒んだのでした。
またそのお母様は、時に多くの重荷と問題を抱えたまま相談においでになられていました。
やがて彼女と二人のお子さんとは、赦しと平安、また喜びを信仰によって見出したのです。
祖父と祖母もまた、特別集会にはお見えになられていました。
お年を召された方にはとっては、神学的な教えを噛み砕いて伝えようとしても、なおも理解には困難さを感じられることが多いのです。しかし、もし彼らがイエスの御名を呼ぶことを学んだとき、そのお名前自体に力があることを発見するのです。そして彼ら二人にも確信と平安とがやってくる時が来ました。
"「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」"
(使徒の働き 16章31節)
祖父は最期の日々を、神様の尊いお約束のお言葉を読みながら平安を見出していらっしゃいました。
祖母はこの地上生涯を終えようとしている時、信者の友人に、「私は毎朝イエス様にお話ししてるのよ」と告げていたそうです。
このように全家族が大きな祝福を受け、さらに彼らを通じてその先祖からの相続地が錦教会新会堂のために用いられたのでした。こうして錦において福音が継続して宣教出来ることとなったのです。
祖父と祖母とが他界したときには、まだ教会の納骨堂は完成していなかったのですが、お母様の遺骨はその納骨堂に納められています。
サンフランシスコ・ユニオンスクエア界隈にあるMIKAKUレストランはここ十数年間の行きつけのお店。
10年ほど前にオーナーが日本人のIさんから、韓国人のご婦人のKさんに変わった。板前さんには日本人シェフを置いて本格的な寿司を楽しませてくれる。
朝の5時代に起床してから、この日のお昼にここまでたどり着いた。
Kさんは、私より年上でその分だけ年上の子供たちが2人いる。
どこの家でも子育ての悩みは尽きないのだなぁ、と共感し合う。
特に二人兄妹で最初が女の子の場合、その子はワイルドとなり二番目の男の子はおとなしい良い子であるなど、共通することがあって2人で大笑い。
ランチが終わった後、ロール寿司のサービスがあってつけてくれたんだけど、うーん、この年には多すぎる量だなぁ。
ここ最近、西海岸では日本からのラーメン店進出がたけなわとなっています。
この日、久方ぶりにサンフランシスコにあるお店に行ってみました。
前菜として、枝豆1皿7ドル。
お店の定番人気メニュー、いざラーメン17ドル。
消費税とチップを加えると、この日のお昼のランチは30ドルを超えました。
日本での飲食がどれほど安いかを知っていただくための1つの例です。大抵日本ではここでの枝豆1皿分の代金でラーメンが食べれてしまうし、それが平均的なランチ費用だと思います。7ドルは円換算にして800円ほど。この日のランチは円換算では3500円です。
この国でのランチの際のチップ代だけで、日本でのファーストフードのお昼を済ませてしまうことができます。
特別に高いラーメン屋ではなく、これが普通の外食の様子なのです。またランチにこれだけの費用かけられるほど、人々は賃金を得ています。
90年代後半からの20年間の先進国間を比較した実質賃金の伸び率統計を調べたことがあります。
確か1997年を100として、2017年の実質賃金数値は、
日本が91。
米国が176でした。
20年間で1割近くも実質賃金が下がっていたなら物価も上がりようがありません。この恐ろしいデフレから脱出しなくてはならないんです。
“While struggling with a lot of things personally — temptations, sins and lifestyle choices — I realized I wasn’t living according to what I was calling myself: a follower of Christ. I was getting by, but I hadn’t decided to fully commit myself to Jesus Christ and start living according to His way. Walking alongside a spiritual mentor, I’ve been able to discover the truth and saving power of Christ in a whole new way. This new life has given me a peace in my heart I’d never experienced before. I don’t have to understand everything in life, and there are so many things I don’t, but I know God is in control of it all. My job is to do the best I can and leave the rest in His hands."
Siya Kolisi (Rugby World Cup Winning Captain)
個人的な事で多くのことにさいなまされてしまうとき、誘惑や罪、ライフスタイルの選択など、そんな時は自分自身への召し対して忠実に生きていないからだと示されるんだ。キリストの弟子としてのね。イエス・キリストに完全にコミットして生きる決心をしていなかったことが示されて、ある程度はそんなつもりだったんだけど、それでイエスの道に従うことを始めるんだ。すると精神的メンターと共に道を歩くようなものなので、キリストにある救いの力と真理とを発見するに至って、全く新しい方法が開かれてしまうんだ。
その新しい生活ってやつは、これまでに俺が経験したことのない平安を心に与えてくれて来たんだ。人生にあるすべてのことを理解する必要なんかなく、実際に俺にはわからない数多くのことがある。でもわかることもある。それは神様がそのすべてをコントロールしてくださると言う事。俺の仕事は俺のできるベストを尽くすこと、それ以外の事はイエス様の御手にゆだねてしまうって言うことなんだ。
ーシヤ・コリシ(ワールドカップラグビー優勝チーム主将)
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「御前に出なければならない」
申命記 16章9~17節
"また七週間を数えなければならない。鎌を立ち穂に入れ始めるときから、七週間を数え始めなければならない。
そして、あなたの神、主のために七週の祭りを行い、あなたの神、主の祝福に応じて、進んで献げるささげ物をあなたの手によって豊かに献げなさい。
あなたはあなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、あなたがたのうちの寄留者、孤児、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれる場所で喜び楽しみなさい。
あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらの掟を守り行いなさい。
あなたの打ち場とあなたの踏み場から取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。
この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、寄留者、孤児、やもめもともに喜び楽しみなさい。
あなたの神、主のために、主が選ばれる場所で七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。
あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。
あなたの神、主が与えてくださった祝福に応じて、それぞれ自分の贈り物を持って出なければならない。"
(序論)
イスラエルの青年大志が毎年エルサレムに登る祭りが年に三度ある。
過越の祭りーエジプトの圧政からの解放
7週の祭りーシナイ山での律法付与の記念
仮庵の祭りー荒野で神が同行保護供給された回顧
⑴恩寵の回顧
どこから救い出されたのか(3)
②自力での脱出は不可能だった
⑵民族としての訓練
①場所、時期、方法に制約があった(6、7、11、15、16)
② その中で一体感や同一性が育成される
⑶新たな生命への刷新
①主のなされた業ゆえの喜びの共有(11、15、16)
②継続される祝福(15)
(結論)
神の前に出る事は霊的生命が刷新継続されるために不可欠であるである。日々の個人的な祈りの生活、毎週の教会での集会。そして年に数度のカンファレンスなどを大切なものとして位置づけよう。
天使は神に仕えるために作られた霊的な存在で肉体はありません。
大きく3つの種類に分けることができます。
①ケルビム(単数形がケルブ)
最高位の天使で神の御座に最も近いところに侍る存在です。契約の箱の贖いのふたの上に純金でその姿がつくられ、載せられていました。2つの翼を持っています。出エジプト22:19
②セラフィム(単数形はセルフ)
次の位の天使は玉座の周りを常に飛翔し賛美をささげています。6つの翼を待っています。イザヤ6:2。黙示録にはそれぞれ4つの顔を持つ、4つの生き物としてさらに詳しく啓示されています。黙示録4:4-8。
③一般の天使
人間社会に現れ、名前を持っている存在でです。イエスの母マリアに現れた天使はガブリエルと言います。ルカ1:26。翼は持っていません。イエスの復活された日、その墓場にいて弟子たちに現れた天使もこの部類に属しています。
南アフリカ、ラグビーワールド杯優勝おめでとうございます㊗️
日本が唯一勝てなかった相手が優勝してくれたのですね。
ラグビーは南アメリカでかつては白人のスポーツとされ、黒人はアパルトヘイト政策の下、共にプレイができなかったのです。
そんな中でキャプテンとなったコリシ選手は、ワールド杯優勝チームで史上初となった黒人主将だそうです。
貧しいところから這い上がってきたコリシ選手のことを毎日新聞の記事から
知りました。
私が最も感銘を受けたのは、彼がこんなことを言っていたところです。
「ラグビーを始めて規律や尊敬など大切なことを学んだ」
差別をしてきた白人を見返すためであるとか、劣等感をはねのけるためにスポーツをしてきたとか言うのではなく、自分自身に対する規律と他者を尊敬する姿勢。
それが大切なことだとラグビーから学んだと言うのです。
彼の腕にはJesus(イエス様)と書かれているテーピングがありました。人差し指で両手を挙げて天を仰いでいるコリシ選手。
ここまで彼を支え導いてきたジーザスに対する感謝を捧げていたのでしょう。彼にとってはジーザスがすべて。ジーザスゆえのスポーツ。
おめでとう南アフリカ。
(以下は毎日新聞からの抜粋)
コリシ主将は1991年6月、アパルトヘイト政策で作られた南アフリカ南部にあるポートエリザベス郊外の旧黒人居住区で生まれた。祖母に育てられたが生活は苦しく、学校の給食が、ささやかな楽しみだった。
8歳でラグビーを始めると、人生は一変した。瞬く間に才能を開花させ、強豪校から声がかかった。「ラグビーを始めて規律や尊敬など大切なことを学んだ」と振り返る。
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