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岩魚太郎の何でも歳時記

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岩魚太郎の敗戦記念日 「鬼畜米英!」「神国日本!」「欲しがりません勝つまでは!」「天皇陛下万 」

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松山大空将の爪痕 昭和二十年五... 松山大空将の爪痕 昭和二十年五月五日午前八時
岩魚太郎の敗戦記念日
岩魚太郎の運命は、防空壕によって決められた!

熟睡していた母菊子の耳に響いたのは、空襲警報と聞いたこともない爆撃機の飛行音だった。母菊子は、熟睡している太郞を起こし、とりあえず身の回りの品と現金を背(はい)嚢(のう)に詰め込み玄関を飛び出した。空襲警報が狂ったように鳴り響くさなか、太郞が寝ぼけ眼で※空を見上げた。 
飛行機(アメリカ軍B29)から、黒い点のような物がと、無数に空から、降ってくる線香花火のように見えた。8歳の太郞が初めて見る光景であった。瞬間、強烈な爆発音と地
響きがした。

母菊子は、慌てて太郞の手を引き、近くにあった防空壕に駆け込もうとした。防空壕の入り口に隣組の組長らしき老人が立っていた。

「あんた、見慣れない顔だが何処の組だ」
「主人が呉海軍工廠に配属されて、昨夜ここに引っ越して来たばかりです」
「そうか。引っ越して来たばかりか。この防空壕は隣組の人数しか、入れない広さしかない。残念ながら入れることは出来ん。外の場所に退避してくれ」
「外の場所って言いましても、引っ越して来たばかりで何処に避難したらいいか分かりません。お願いですから入れてください」
「いくら頼まれても駄目なものは駄目だ」

母菊子が哀願するそばを、「組長さんお願いします」と腰を低く頭を下げながら、子供ずれの中年の女が防空壕の中へ入って行く」
男が、母菊子と太郞の眼前で、防空壕の中に入り入り口の扉を閉める。

「母ちゃん」
母菊子は太郞の見上げる顔を見ながら
「母ちゃんの手を離すんじゃないよ!」
「うん!」

焼夷弾と爆弾とが、混合してしながら落下する炎の中を、あてもなく逃げる母菊子と太郞姿が、炎の中にフェードアウトされて消えてゆく。

昭和二十年五月五日午前八時

松山大空襲の翌日である。
市街地は焼け野原と化し、消火しきれない炎と煙が無数にくすぶっていた。その中を、顔面煤にまみれた母菊子が、太郞の手を握りよたよたと歩いて来る。太郞が左足を引きずっている。傷を負ったらしく、ふくらはぎの位置に布が巻かれている。
我が家の近くにようやくたどり着いた。

勿論周囲の建物は当然全焼している。
防空壕の入り口に大勢の人々が輪になって立っている。母菊子が肩越しに覗き見る。太郞が人々の足を分けながら最前列に進み出る。母菊子が太郞を追うように人をかき分け前に出る。数人の人々が防空壕から死体を運び出し、その死体をむしろの上に順番に並べている。

「焼夷弾と爆弾で、防空壕の入り口が塞がれ逃げられなかったそうだ」
母菊子は、小声で話す後ろの男の声を聞いた。
そのむしろの上に、昨夜防空壕に入ることを拒んだ男の顔があった。
太郞は母菊子に手を握られ、強引に輪になっている人々の外へ連れ出した。母菊子は、太郞の目線まで腰をかがめ黙って強く抱きしめた。

母菊子の涙は止まらなかった。

母菊子は、呉海軍工廠にいる夫の三郎に手紙を書いた。松山で空襲に遭ったこと、太郞も左足を火傷して火傷の跡は残ったが歩行に支障が無かったこと、愛媛県東温市北郷村に移住、太郞は北郷の国民小学校に通っていること、食料は配給と少額の蓄えでしのいでいると記した。

しかし母菊子は、防空壕の話は記さなかった。手紙の検閲を恐れたからである。夫の配属先、呉海軍工廠も空襲を受けていないかどうかを心配した。
手紙の返事はこなかった。戦況は、手紙どころではない緊迫した状況であることは、母菊子にも分かっていた。互いに分かっていたが口に出せば「非国民」と言う烙印を押された。

太郞の北郷国民小学校二年生の授業が始まった。
松山の空襲で焼け出された二年生も数人いた。焼け出された生徒達の教科書は無かった。地元の子の教科書を、机をくっつけ一緒に見ての勉強であった。

小学校は、雨降り以外は、八時に全校生徒の朝礼が校庭で始まる。整列は横に一年生から六年生、縦に身長の低い順番である。生徒が並んだ正面中央に奉安殿がある。奉安殿とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めている小さな神殿である。
 
その教育勅語を全校生徒で唱和させられる。2018年森友学園幼稚園児の唱和である。この教育勅語の唱和は、TVで大々的に報じられ話題になったが、当時の教育では義務化され、小学一年でも、暗唱出来ない生徒は、暗唱出来るまであらゆる手段を用いても暗唱させられていた
 
教育勅語の唱和の後、校庭にアメリカ兵の人形が立てられる。その人形の正面には、「鬼畜米兵」の文字が書かれてある。太郞の身長は1.2m。身長の約二倍もある長さの竹槍を小脇に抱え、走りながら人形に突進、「エイ・エイ・ヤアー」と叫びながら、「鬼畜米兵」と書かれた人形に竹槍を突き刺す。

そして先生は言う。
「今回は、松山に敵の空襲を受けたが、日本は必ず勝つ。日本人には大和魂がある。畏れおおくも陛下は教育勅語でこうおっしゃっています。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし敵と戦えば必ず勝利する」
と教えていた。

1945年 昭和二十年)八月六日午前八時十五分
広島市原子爆弾が投下された。死亡者十六万六千人。
当時の広島市の人口は三十五万人。

1945年 昭和二十年)八月九日午前十一時二分
長崎市に原子爆弾が投下された。死亡者七万四千人。
当時の長崎市の人口は二十四万人

敗戦 昭和二十年八月十五日正午

玉音放送(天皇による大東亜戦争終結ノ詔(しょう)書(しょ)の朗読)
愛媛県東温市北郷村拝志公民館広場で、机が出され、その机の上には茶色の箱形ラジオが置かれていた。そのラジオは、上部が卵形の円形になっていて、全体が木目の茶色になっていた。太郞はそれが何であるか知らなかった。太郞は、妙に上部の円形型の箱が気になった。
 
子供を含め三十人ほどの人々が、机に置かれているその箱(ラジオ)の前に直列不動の姿勢で整列した。 太郞も母菊子にせかされて姿勢を正した。
机に置かれたラジオが正午の時報を告げる。
「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様は御起立願います。天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これより謹みて玉音放送をお送り申しあげます」

君が代の演奏が聞こえ終了した後、玉音放送が始まった。玉音放送終了後、土下座して号泣する人、直列不動の姿勢で泣く人々、太郞は大人たちが涙を流す理由が理解出来なかった。
母菊子も泣いている。

「お母さん、何故泣いているの?」
「日本が戦争に負けたのよ」
「鬼畜米兵に負けたの?」
「そう。鬼畜米兵に負けたのよ」
「じゃあ防空壕に入らなくていいの?」
「そうよ。もう空襲もなくなり、防空壕にはいる必要も無くなったの……」

太郞は、母の言っている意味がよく理解出来なかった。
竹槍で鬼畜米英の人形を刺す行為と、飛行機で焼夷弾や爆弾を落とす行為との比較で、先生は「我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにして敵と戦えば必ず勝利する」と言った。先生がそう言っているのに「何故負けたんだろう?」

飛行機の空襲もない。防空壕に入らなくてすむ。爆弾や焼夷弾で人が死ぬこともない。喜んでいいはずなのに何故泣くのだろう?

「戦争に負けたから?」

82歳になった今でも、玉音放送聞いて、大人達の涙する理由が理解出来ない。

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