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もの言う牧師のエッセー 第167話 再投稿

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もの言う牧師のエッセー 第167話 再投稿
黒田官兵衛、全3話“負けて勝つ”
②「 伊賀越え 」 

    本能寺の変が起こる30話あたりで、67歳の寺尾聰が扮する徳川家康が登場したが、実際には当時の家康は39歳、いよいよこれからという新進気鋭の若き実力者であり、ドラマで見たようなお爺さんではない。天正五年(1582年)6月2日、本能寺で信長が横死した後、明智光秀勢はただちに京・大阪一体を封鎖、残敵掃討に乗り出す。このとき家康は堺を見物しており、彼ら一行が大阪の枚方まで来た時に本能寺の変のことが知らされた。後の天下人家康にとって最大の危機はこの時である。
   
徳川幕府の公式記録である「徳川実紀」には、家康の“伊賀越え”を「その生涯において第一の患難」と記されている。なぜか。伊賀を抜けるには険しい鈴鹿山脈を越えねばならない上に、そこには落ち武者狩りを専門とする野武士や土民が大勢いる。しかも護衛はたったの30人そこそこ。 一行の中には“徳川四天王“の井伊直政や本多忠勝らをはじめ徳川社長に続く幹部が一通りいる。狙われたら家康どころか徳川会社そのものが消滅するのである。

では誰が家康を最大の艱難の中から守ったのだろうか。信長に皆殺しにされた伊賀者たち、そしてそれを指揮する徳川16神将の一人、服部半蔵正成である。彼の提唱で錯乱状態の家康を説き伏せ、命を懸けて万難を制し伊勢に帰還、家康は命拾いするのである。今日でも皇居(元江戸城)には”半蔵門”の名が残っているが、家康は服部の功績を称え全幅の信頼を寄せた結果、その子孫達にも半蔵門周辺に住まわせたという。 
実は聖書には不思議な法則がある。「負けて勝つ」ことである。

「そしてサムソンは、『ペリシテ人といっしょに死のう。』と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬ時
 に殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。」
士師記16章30節。
 
これは世に名高い「怪力サムソン」の最後である。彼は神の民イスラエルを守る為に尽力するが、実は女好きだし、酒は飲むはで全く“聖人”ではないロクデナシであった。しかし士師記の約1000年後に書かれたヘブル書11章には、彼は英雄として記されている。一見すれば単なる自殺攻撃であるが、問題は彼が身を投げ出し、負けている時にも信仰によって神の民の為に事を成したことである。

聖書など日本人に無関係であると多くの日本人が考えているが、サムライの国の日本人にはピンと来る逸話がそこには多い。勝っている時には誰でも偉大に見える。しかし負けている時にこそ真価が試されるのである。聖書では大勢の人物が「負けた」が今も輝く。中でもキリストは、十字架にかかり負けたように見えたが復活し、天に帰り、今も多くの人々が彼の帰還を待ちわびる。キリストを信じ、我らも負けて勝つ力をいただき、神の子となって、永遠に神の側で住まわせていただこう。                          2015-1-17

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