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栃木県の歴史散歩

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創立140周年を迎えた宇女高

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 明治新政府は、国民皆学めざし、1872(明治5)年学制を頒布した。しかし栃木県の女子就学率は低調で全国平均を下回っていた。1875(明治8)年、栃木県令鍋島幹は、女子教育の振興をはかり、女学校設置を決定した。学校名は栃木女学校、設置場所は当時の県庁所在地である都賀郡薗部村(現在の栃木市入舟町)とし、10月10日付で生徒公募を公示した(この10月10日が宇都宮女子校の創立記念日である)。12月24日には、初代校長として手塚信敬が任命され、翌年2月21日には校舎が竣工した。この時期における公立の女学校の設立は全国的にみても数少なく、宇都宮女子高校は現在まで続く公立の女子校として最も長い歴史を有している。
 戦後の1947(昭和22)年、教育基本法・学校教育法が公布され、翌年4月には、新制高等学校が発足した。これにより「宇都宮第一高等女学校」は「宇都宮女子高等学校」となった。1949(昭和24)年4月には宇都宮市立宇都宮高等学校(旧宇都宮実践女学校)と統合した。
 「宇女高」誕生にあわせて現在の校章が制定された。デザインはフランス古代紋章にヒントを得た白百合(マドンナ・リリー)をかたどったもので、宇都宮女子高校英語教師で版画家としても有名な川上澄夫氏が担当した。白百合の花言葉は「純潔」であり、リボンの紅は「誠心」を意味するものであった。副章はブローチまたはバックルとし、その着用は随意とした。またこの時、制服については制定しなかったため、服装は生徒の自主性に任された。
 1951(昭和26)年、「栃木県立宇都宮女子高等学校」と改称された。この年、PTA、生徒諮問委員会、地域社会諮問委員会で本校の今後の教育目標についての審議が行われた。その結果、生活領域と個人生活、家庭生活、社会生活、経済・職業生活の4つの領域における教育目標が定められた。その内容は、4領域をさらに理解・態度・技能(能力)の3つに分け、それぞれ数項目ずつ目標を掲げるという綿密なものであった。
 1966(昭和41)年4月、教育目標が改訂され、「歴史を尊重し、個性の伸長をはかりながら家庭および社会の福祉に寄与する女性の育成をめざし、次の資質の向上につとめる」とした。その資質とは次の5点であった。
 1、強健実践(健康明朗で強い意志と実践力をもち勤労を尊ぶ)
 2、自主創造(広い視野に立って正しく判断し自主創造に生きる)
 3、温雅清純(美を愛し情操豊かで品位をそなえる)
 4、至誠敬愛(たがいに敬愛し礼儀と責任を重んじ親和協力する)
 5、報恩奉仕(謙虚で感謝報恩の心をもって奉仕する)
 さらに具体的努力点として、全校体育、自主的学習による学力向上・HR活動の強化・礼儀作法の徹底・責任感の高揚・清掃の徹底の5項目が設定された。
 宇都宮女子高校は2015年に創立140周年を迎えた。主な卒業生として、最近では「なでしこジャパン」でも活躍したサッカーの安藤梢さんが知られているが、昭和40年代のベストセラー「二十歳の原点」の著者・高野悦子さんも目立っている。
http://www.takanoetsuko.com/

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足利学校は〝古い〟の権威

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 応仁の大乱以降、諸大名の悲願とするところは、戦勝による領国の取得のみにあったといえる。そのため、戦闘に際して出兵、撤兵などの用兵上の機会を見いだすことは切実な問題だった。こうした時に重んじられたのが卜筮(ぼくぜい)であった。卜筮とは簡単にいえば〝占い〟である。
 人間には、ものごとに取り組むにあたって、たとえば決行する日がふさわしいかどうか、未来の吉凶をどうしても知りたい、予測したいという願望がある。このことはいっそう占いを発達させることになったのだろう。
 中世武家社会にあっては武将は一軍の統率と士気の鼓舞のため、日の吉凶を占い、これによって行動を決める場合が少なくなかった。その占いの結果が吉と出れば勇躍して進撃の下知(げじ)をなしたことはいうまでもない。しかし、もし凶と出た場合はどうなのか。日が悪いと、進攻を見合わす武将もいたが、ほとんどが凶であることを隠し、吉であると告げ、出兵したのではないだろうか。凶であることを兵に知らせることは、一軍の士気を失い合戦に支障をきたすことにもなりかねない。
 だが、単に凶であることを隠しただけでは、心もとない。吉であることの理由づけをして、一軍の士気を高めてから行動をおこした。武家政治の創始者である源頼朝について興味深い話がある。治承4年(1180)10月27日、源頼朝は高倉宮以仁王の令旨(りょうじ=仰せ)を奉じて常陸の佐竹秀義の征伐に向かおうとした。ところが、陰陽師に日の吉凶の占いを仰いだところ、進発10月27日は、凶に当たるという。しかし、頼朝は、半年前の同じ「27日」に以仁王からの令旨が届いている。この日は源家再興の吉日である、とした。そんな理由をつけて出発を敢行したところに武将源頼朝の面日、躍如たるものがある。
 足利市昌平町に残る遺跡が国指定の史跡であり、鎌倉初期に創設され、中世では唯一の学校施設だった。「足利学校」は、この卜筮ときわめて深い関係があった。足利学校での教育は、漢字を中心としたものであったが、特に易学に重点がおかれていた。それは関東管領の上杉憲実が永享11年(1439)に学校を再興後、校長として当時の易学の権威者、快元を招いていることからも理解できる。
 したがって、諸国から集まった多数の学徒の目的も実用的な卜筮にあった。その結果、足利学校の出身者は、卜筮の権威者と認められた。戦国時代、諸大名に仕えた人物は、かなりの数にのぼったことだろう。
 このように鎌倉時代以降、武将は卜筮によって合戦の日の吉凶を見、また好機を敏感に見分け出兵させるという戦法を採用した。この両方を上手に用いることができた人物こそ名将であった。そこで当時の武将は卜筮を必要とすると同時に兵書の講義をうけることも重要であることを知り、この両方に優れた者を側近に仕えさせた。
 南北朝以降、室町に至ると禅僧がもっぱら、この任にあたった。禅僧は武家の子弟教育にあたる一方、軍事顧間をも兼ねるようになった。やがて、武将の出陣に際して軍隊に加わり、武将の側近にあって「陣僧」と呼ばれるようになった。「使僧」として敵陣に向かう場合もあった。僧形をしていたので中立の立場を示すのによろこばれたわけである。
 だが、次第に卜筮に拘泥しない傾向が現れてくる。その理由は実戦の体験の積み重ねによる戦術の向上や禅僧などによる兵書の講読などによるものであろう。
 江戸時代、足利学校では年頭に際して徳川幕府に年筮(一年の吉凶を占ったもの)を献じていたが、このことは前代、戦国時代の学校の活動の名残をとどめるものであったのだろう。

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坂東の大学足利学校 起源には諸説

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 「坂東の大学に学ぶ者には博学の者が多いから、日本布教のためには、特に優秀な宣教師を派遣しなければならない」―布教のため日本にやってきたフランシスコ・ザビエルが本国にこう報告しているように、遠くヨーロッパにまで名前を知られていた足利学校は武蔵の金沢文庫とともに、中世における学問の一大中心地であった。だが、この足利学校の起源については古来、諸説があり、まだ定説をみていない。
 すなわち①小野篁創建説(「鎌倉大草紙」)②平安時代国学遺制説(「足利学校事蹟考」)③藤原秀郷曽孫創建説(上野伝説雑記」)④足利尊氏創建説(「上野名跡考」)⑤上杉憲実創建説(「鎌倉大草紙」)⑥足利義兼創建説(八代国治「足利庄の文化と皇室御領」)などの説がある。
 八代国治氏はその論文で、いろいろと批判を加え、「講書始の事、先規に任せその沙汰を致すべし、本願の御素意かたがた少輔入道殿の仰せる所也、緩怠謂れ無きか」という「ばん阿寺文書」を根拠にして、「講書は義兼の素意で、緩怠することなからしめて属るのを見ると、義兼は書籍を蒐集して文庫を起し、一族の子弟井に僧侶等に、学問を勧めたことと思われます。これによれば、足利学校の基礎は、義兼が造ったといっても差支えないことと信ずるのであります」と述べている。現在のところ、ほぼ足利義兼創建説が有力である。
 現在の足利学校遺跡図書館は、明治36年に開設された。これは足利市昌平町にあるが、当時の足利学校はどこにあったのだろうか。
 これまた諸説あって、確証を得ない。①学校地先説(「足利学校事蹟考」)②両崖山足利城付近(吉田東伍「大日本地名辞書」)③ばん阿寺境内説(八代国治治)④勧農付近説(渡辺世祐「足利荘及足利学校に就て」)
 いずれにしても足利学校は、平安末から鎌倉初期には創設されていた。しかし、名実ともに学校としての形態を整え、隆盛をみたのは、関東管領上杉憲実が永享11年(1439)に再建してから以後のことである。
 憲実は学領のみならず「尚書正義」・「春秋左伝」・「礼記正義」など、宋時代の書籍も寄進し、それらに「比書学校の閫外に出るを許さず」とか「足利学校の公用也」などと自筆している。
 また、書籍閲覧規定や校規も定め、鎌倉円覚寺から五山の僧快元を招いて初代序主(しょうしゅ=校長)とした。講義内容は主に儒学だったが、易学・天文学・医学・兵学なども教えられた。
 上杉憲実・憲忠・憲房と三代にわたって手厚い保護をうけ、足利庄の支配が長尾氏にかわってからも、ますます隆盛をきわめた。血なまぐさい戦国の争乱をさけて、全国各地から学究の徒が集まり、一日中、読書の声が絶えなかったという。
 その様子を、連歌師宗長は「東路のつと」という紀行文で「下野の国佐野といふ所へ出で立ち、足利の学校に立ち寄り侍れば、孔子・子路・顔回の肖像をかけて、諸国の学徒かうべを傾け、日ぐらし居たる体はかしこく旦つあはれに見え侍り」と述べている。
 天文のころには「時に講筵に侍する学徒八百余人」といわれ、第七世岸主九華のころに、隆盛の極に達した。九華は「学業尤も盛ん、生徒蓋し三千、在三庠十年、天正六年戊寅八月十日を以って卒す。年七十九」といわれ、歴代序主の中でも特に学殖深く、在任も長かった。
 九華永正3年(1506)、任終えて故郷の九州へ帰国する途中、小田原の北条氏康・氏政父子をたずね、求められるままに周易豊一略の講筵を開いた。氏康・氏政は非常に感激し、このまま帰国させるにしのびず、もう一度学校へもどってくれるよう懇願した。九華はそれを入れ、再び足利の地を踏み、この地で没した。
 この時、氏政は九華に金沢文庫所蔵の宋版「文選」21冊を贈っている。これはいまなお国宝として、足利学校遺跡図書館に保存されている。
 現在、同図書館には43,000余冊の書物が保存されれ、うち貴重書は800冊余。その中には、すでに中国にないものも含まれており、研究上きわめて重要な価値をもっている。
 こうして、足利学校が後世まで存続し、栄えたのは上杉氏をはじめ北条氏、武田氏、徳川氏らが代々、手厚い保護を加えてきたからにほかならない。
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/

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