※ ※ ※ ※ ※ ※ 神奈川県葉山町に「鐙摺」(アブズリ)と呼ばれてる所がある。 あぶみ‐ずり【×鐙×摺】 1 馬の脇腹の、鐙が当たる部分。また、鐙が当たってできたたこ。 2 鎧(よろい)の脛当(すねあ)ての内側下部。かこずり。 3 播磨革(はりまがわ)などで作った簡単な障泥(あおり)。 4 馬の鐙がすれるほど、道幅の狭い箇所。あぶずり。 . (出典・小学館/デジタル大辞泉) 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説では; 鐙摺あぶずり 神奈川県三浦郡葉山町北部の一地区。逗子(ずし)市南部に接する。 海岸沿いに国道134号が走る。海岸道は中世までは古東海道の一部であった。 平安末期から三浦氏の一族、大多和義久(おおたわよしひさ)の別館があったが、 1177年(治承1)伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流中の源頼朝が訪ねたおり、 近くの小山に築城(現鐙摺城跡)しようと検分したが、道が狭く急で、 岩に鐙(あぶみ)が摺(す)れたので頼朝が「鐙摺」と命名したのが地名のおこりと伝える。 小山下の船溜(ふなだま)りはわが国近代ヨットの発祥地で、現在もヨットハーバーがある。 この付近から逗子市境にかけた一帯の基盤地層に、日本列島の生成史、 即ち第三紀の造山運動を物語る「鐙摺の不整合」が露出していることでも有名。[浅香幸雄] 鐙摺城址(あぶずりじょうし) 源頼朝にゆかりの深い葉山の鐙摺城址(鐙摺山)は、旗立山とか軍見山とも呼ばれ、 鐙摺城址、鐙摺山山頂は、小さな平場になっている。 国道134を下り、逗子の渚橋を右折して少し進むと日影茶屋がみえ、 その対面に高さおよそ25メートルくらいの小山があり、これが鐙摺城址(旗立山、軍見山)。 鐙摺城址へは日影茶屋の駐車場脇から登る。 山頂からは逗子、鎌倉の海岸沿いを見渡せ、江ノ島や富士山を望むことができる。 小さな山には、3つの歴史がある。 鐙摺城址は、 1177年(治承元年)、挙兵前の源頼朝が三浦を訪れた際に逗留した場所か!! 又、 1180年(治承4年)8月、挙兵した頼朝のもとに参じるため、 三浦一族300騎は鐙摺城址の北側にある小浜から出向したが、河川の氾濫などで間に合わず、 その間に頼朝は石橋山の合戦に敗れてしまった。 三浦一族の軍勢は引き返すが、帰路、由比ヶ浜のあたりで畠山重忠の軍勢と小競り合いとなった。 その時、軍勢を率いた三浦義澄はこの山に旗を立て軍勢を鼓舞したとの伝説から旗立山とも呼ばれている。 更に時代は下り戦国初期、北条氏に滅ぼされた三浦一族は再興を果たし、 三浦道寸を領主として三浦半島に勢力をもっていたが、今度は後北条の北条早雲に滅ぼされてしまう。 その戦いの最中、1512年(永正9年)、北条早雲と戦い小坪の住吉城(住吉城址)から撤退。 退却する三浦道寸はこの山に登って物見したといい、この逸話から軍見山と云われるようになった。 山頂の平場には葉山町指定史跡になっている「伊東祐親入道供養塚」がある。 『曾我物語』に「伊東祐親入道は三浦の鐙摺というところで首をはねられた」とあることに由来している。 塚は石を重ねた簡素なものだが、中々の趣きがある。 伊東祐親入道は伊豆の豪族。源頼朝の伊豆配流時代、北条とともに世話をした伊豆の名族でもあった。 祐親には4人の娘があり、この内3女と頼朝が通じ合い男子が生まれ千鶴御前と名付けた。 大番勤のため祐親は京都におり、伊豆に帰ったのは千鶴御前が3歳になった時であった。 この事を知った祐親は激怒し、千鶴御前を殺してしまう。さらに3女をむりやり北条義時に嫁がせた。 その上、頼朝を夜討にしようとしたが、失敗に終わる。 平氏が倒れ、源氏の時代となると源頼朝にこのような不信を働いた伊東祐親が許されるわけもなく、 生け捕りにされ祐親の長女が嫁いた三浦義澄に預けられたのち、鐙摺において首をはねられた。 源頼朝の愛妾、亀の前、「鐙摺」というところは源頼朝と縁の深い場所である。 頼朝は愛妾、亀の前を小坪飯島にある伏見冠者広綱の家に住まわせていた。 1182年(寿永元年)11月10日、頼朝の御台所であった政子は北条ゆかりの牧宗親に命じて広綱館を壊させたため、 広綱は亀の前を鐙摺にある大多和義久の屋敷に逃した。それがためか、頼朝は度々義久の屋敷を訪れ遊宴を催した。 今の鐙摺バス停まえに小さな浜がみえる。三浦一族300騎が船出した小浜の名残だ。 時代はさがって、現代。この小浜脇が近代ヨットハーバー発祥の地。色々と由緒ある地だ。 僕の青春時代、思いである地、又、味の素創業の地でも在るが、今や知る人も少ないだろう。 青春時代、画像探しによくよく通った場で見た富士山、今も景観は変わらない。 鐙摺の隣に森戸海岸があり、夏に母校の海の家で時折たむろして法律談義をした。 当時と今、我が考えは、変らない(改憲思考)。当時も改憲などと主張される先生は、極少数だった。 今の社会情勢・国際関係・安全保障等を思うと、基本法たる憲法を再考すべき時、と思うのだ。 「原爆」 「核保有」 「被爆」 「抑止力」 「広島」「長崎」 「チェルノブイリ」「福島」其々の地で爪跡・資料を見てきた。 核兵器廃絶・・不戦、その上での安全保障を如何に考えるか。。。! 《時節感慨・・ひとりごと・・》 1945年8月6日広島に、同年8月9日長崎に相次いで投下された原子爆弾、 その投下で20余万人もの人々が亡くなった。 更には、放射能被曝による後遺症は、70年を以ってしても消えていない。 これほどの現実が在る故に、あったが故に核兵器の脅威を想像できるのである。 核保有国が、新たに保有しようとする国を批難する事自体、おかしなことだ。 兵器によってではないが、放射能を浴びてしまった人々もいる。 だが、核実験を知らされずに、放射能を浴びて苦しんでいる人々の存在は、更に悲惨だ。 隠蔽されてる、否、平然と汚染を放置している核保有国、とても許す事などできない。 戦争の悲惨さを身をもって体験した日本にとって、永遠に不戦の誓いを持ち続けたい。 だが昨今の日本を取り巻く環境の変化に、如何に対処すべきか真摯に検討しないと。 余りにも、ある種の平和ぼけに在るのが今の日本人だ。 戦争は、反対だ。がしかし、国を守る、国民を守る策は、講じる必用はあるだろう。 安全保障、国防を考えれば、国法の基本たる憲法の見直しを切に願う。 先進国と言える如くに復興!?!した日本は、弱小国と言われる国々に援助の手を。 隣国の脅威・・・遺憾ともしがたい。 ※ ※ ※ ※ ※ ※