2016/2月
中村橋之助(三代目)「歌舞伎閑談」:
1986年のカナダ、ヴァンクーバー市での「万博」には日本から歌舞伎舞踊公演が二週間に渡って組まれた。その帰途、米国側のワシントン州シアトル市の芸術祭にての公演が持たれた時のお話。
出し物は舞踊二題、澤村藤十郎丈の「藤娘」に中村富十郎、中村橋之助丈による「連獅子」。
万博と違い、わずか一日の準備で二回だけの公演である。会場は現マコウホールに改装される以前の旧オペラ劇場。当時は舞台監督は狂言方が取り仕切る習慣であり、担当は竹芝(了二?)氏。アメリカの劇場は職員組合制をとっているので、現在でも舞台設営操作はアメリカ人の技術者が行ない日本から来た技術者には触らせてくれないので,全ての指示を通訳を通して行なう事になる。時間の掛けられる設営などはまだしも,舞台の進行に合わせた音響や照明となると打ち合わせをしても、ずれが生じてしまう。
藤十郎丈の「藤娘」は暗転板付きで幕が開く。つまり踊り手は、既に舞台中央におり、会場を真っ暗にして幕を開け、切っ掛けでパッと照明がつくという効果である。竹芝氏と話して分かったことは、カナダでの十日間の公演でも、どうしてもタイミングが合わなかったそうで、その上に今回は竹芝氏が舞台上手に位置しなければならないのに照明盤は下手側。もちろん声は出せずの真っ暗闇。考えたのが同氏の小さな懐中電灯を点滅してもらい,その合図で照明のスイッチを入れる事に。照明係にその由を指示、いざ本番。録音音響なら予めマークできるが生演奏。立て三味線杵屋巳太郎師の前弾きに、ちょっと早いと思ったが、合図で照明係はスイッチオン。会場からワッという声があがる。後で竹芝氏に確認すると,少し遅れるのではと一呼吸早めにサインを出したという。二度目の舞台では、ぴったりと合い皆さん大満足でした。
さてこの「藤娘」の幕開きにはもう一つの逸話がある。前述の通り暗転での幕開きだが、会場内の出入り扉の上にある「非常口」のサインが他の照明を全て消してみても、かなり明るく舞台が見えてしまう。この辺の事情は日本でも同じようで「邦楽と舞踊」社の中野義徳氏がサインを消す様、公演主催者にコラムで配慮を求めておられた事がある。アメリカでは消防法が厳しく消す事は出来ません。そこで苦肉の策が、手隙きのボランテアに各扉で前弾きの間、手持ちの雑誌などでサインを隠してもらう事に。ところが場内がまだ明るい。原因は客席通路随所に付いている足下を照らす小さな安全灯。もうボランテアでは足りませんので、安全灯の付いている席の御客様に事情を説明してプログラムで照明が付くまで隠していただきました。これもアメリカならではの、演者も大半の観客も気付かなかった裏方の苦労話です。
さて円熟の天王寺屋(富十郎丈の屋号)の親獅子に若手新鋭の橋之助丈の子獅子という「連獅子」にも隠れた逸話がある。アメリカの劇場には当然のことながら日本のような花道はない。そこで舞台下手の扉から舞台に敷かれた所作台まで花道に似せたものを作ることになったが、これが難関。日米の舞台大道具関係者が色々工夫し、それらしいものが完成した。この様子を誰もいない客席でじっと見ていた青年がいた。中村橋之助君である。
準備も整い、いよいよ舞台稽古。ここで問題が起きる。花道は出来たが,舞台の所作台との間に段差が有り中間に勾配が付いてしまったのである。御承知の通り「連獅子」では一度舞台にさしかかった子獅子が「後ろ走り」で花道を戻る部分がある。この部分を滑る足袋に大きな衣装を着けてやるのは、転びでもしたら危険だという意見が出て、橋之助丈楽屋内の方達も危ないから「後ろ走り」は止めるようにと勧められたのですが、橋之助君は「あれだけ皆が一生懸命作ってくれたのだから使わなかったら悪いよ。大丈夫やります。」と言ってくれたのです。もちろん公演は大成功。「後ろ走り」も見事にやってくれました。舞台を支えてくれる陰の人達の努力に答える。あれから私は中村橋之助という役者を生涯贔屓にすることにしました。跡継ぎの御子息達にも、あの役者魂が引き継がれて欲しいと願うのは私だけではないでしょう。
橋之助丈には、この時の公演ではもう一つ記憶に残るものがあった。それはこの公演中に彼が二十一歳の誕生日を迎えた事。図らずも小さな誕生祝いになった中華街レストランで将来の夢を語ってくれました。藤十郎丈も交えての幽霊を見た話など覚えておられるでしょうかね。
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