5月31日【コラム Vol.3】~桜~
国語2の授業で、清少納言「枕草子」の書き出しとして広く知られている第一段「春はあけぼの」を学習しました。具体的な自然の光景は、今の私達も思い浮かべることが可能な景色です。その「枕草子」の形を借りて、自然や身の回りのものごとを見つめて自分が捉えた季節感を表現してもらったところ、感性の豊かさが感じられる素敵な作品が仕上がりとても嬉しく読みました。
春の段に「桜」と表現した人が多く、BCAにも咲いていた美しいピンクの桜を思い出しました。桜は日本文化になじみの深い植物で古くから人々に愛されていますが、海を越えてここベルビューにも咲いていることへの感動も蘇ってきました。
私は「桜」を見ると、いつも大岡信の「言葉の力」思い出します。
桜は樹木全体で美しいピンクをつくり出すという染色家のエピソードを用い、表現される言葉は桜の花びら一枚一枚のようなもので、その背後にはその言葉を発している人間が存在し、全身でその言葉を発しているという主張が述べられている文章です。
言葉を学ぶことの意味や、言葉の使い手である自分を振りかえらせてくれる内容であり、これからの言葉との向き合い方について考えさせられるのです。
興味のある方はどうぞお読みください。
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人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとはかぎらない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体がささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは、淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか。」
「桜からです。」
と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色がとれるのだという。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は、一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな、上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
私はその話を聞いて、体が一瞬揺らぐような不思議な感じに襲われた。春先、もうまもなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裏に揺らめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
このようにみてくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は、桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかしほんとうは全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。(光村図書国語2より引用)