『詩経』を引いて農をねぎらい ―― 豊後高田市水崎神社の鳥居銘
Feb
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荼蓼朽止 黍稷茂止
穫之挃〻 積之栗〻
―― 豊後高田市水崎神社の鳥居銘
大分県の北部は、旧国名でいえば国東半島の豊後高田までが、その名のとおりに「豊後」、その西隣の宇佐市から北が「豊前」。宇佐市では「封戸(ふべ)」という地域が、豊後と接する境い目にあたる。封戸郵便局や封戸小学校の住所は大分県宇佐市苅宇田なのだが、そこから北へ500メートルほどの水崎地区は豊後高田市。ただしこの水崎は、もともと豊前の宇佐郡に含まれていたとのこと(平凡社[日本歴史地名大系]43『大分県の地名』p337「水崎村」参照)。
そんな区域の話もからめ、明治時代の貴族院議員さんが造らせた、水崎神社の鳥居銘を紹介したい。儒教古典『詩経』から農作業をねぎらう16文字をそのまま引いて刻していること、写真で見てほしい。
漢文を学んで漢詩を作り、中国古典の教養を身に着けていた、地元の貴族院議員さんが明治28年(1895)に建てたこと、鳥居の左右の柱の裏側に彫ってある(写真は省略)。その名士・水之江 浩((みずのえ ひろし)弘化2年=1845~ 1922=大正11年)は、もと近隣の宇佐郡北馬城(きたまき)地区、日足(ひあし)という村の佐藤家からの養子とのこと。水之江家は、江戸時代から製塩その他で盛業を続けていた素封家。引用した儒教古典は『詩経』で、そのうしろのほう「周頌(しゅうしょう)」に含まれる作品《良耜(りょうし)》
【参考原文】《中國哲學書電子化計劃》
https://ctext.org/book-of-poetry/liang-si/zh
先秦兩漢 -> 經典文獻 -> 詩經 -> 頌 -> 周頌 -> 閔予小子之什 -> 良耜
訓読は、江戸後期から明治時代の読み方を、その時代の刊行物によって示したく思ったが、準備が間に合わず。手元にある標準的な「大系」もので代用。
荼蓼朽止 黍稷茂止
荼蓼(とれう)朽ち 黍稷(しょしょく)茂(しげ)る
穫之挃〻 積之栗〻
之(これ)を穫(か)ること挃挃(ちつちつ)たり 之(これ)を積(つ)むこと栗栗(りつりつ)たり
と訓読を示すのが、
高田 眞治 昭和四十三年六月 刊集英社[漢詩大系]第二巻
『詩經 下』六〇〇頁【同社 一九九六年[漢詩選]2『詩經 下』は新装版と銘打った再刊で同じもの】
で、解釈は次のよう。
苗を害する毒草も取り払われ、朽ち腐れて肥料となり、黍稷百穀の苗が成る。
さくさくと禾(いね)を刈り、禾の束を多く積み重ねる。
別のスタンダードな解釈書、明治書院[新釈漢文大系]112『詩経 下』三六五頁でも、訓読はほぼ同文。
荼蓼(とれう)は朽(く)ち 黍稷(しょしょく)は茂(しげ)る
之(これ)を穫(か)ること挃挃(ちつちつ) 之(これ)を積(つ)むこと栗栗(りつりつ)
現代語訳は、次のように簡明。
雑草は枯れ、キビが生い茂る。
これを刈りとって、山のように積む。
こちら明治書院[新釈漢文大系]の『詩経』を監訳された編著者は、中国文学・唐詩の研究者として名高く、漢詩人でもある石川忠久先生。ただこの「周頌」については原稿の作成は(藪 敏裕)と目次にある。
最後に、鳥居銘そのものの参考文献を①②として示し、関連部分を引いておく。
①高原 三郎 昭和五十二年三月 (大分市)双林社
『大分の鳥居 [続 大分の神々]』172頁では
第四編 銘文さまざま「十 中国の古典を出典とする銘文」
1 詩経(三十三項【その29】)
年 西暦 社名 所 在
明治二八 一八九五 加 茂 高田市水崎
と項目を列挙し、左右の柱の裏面の刻字は説明せずに
「銘文」を「荼蓼朽止 黍稷茂止 穫之挃挃 積之栗栗」と1行に表記。
毒草は刈りとられて腐り、穀物がよく茂り実った。とり入れの声盛んで、多くの人がこれを積みかさねている。
豊年の状況の嘉詞なり。(止は無意味の助詞。)
と、解説を続けている。
地域としての、豊後高田の鳥居銘をすべて私家版の活字刊行物で紹介するのが
②岩野 勝(いわの まさる) 昭和五十五年三月『私の郷土探訪』
その第三章「鳥居銘調査」で、地域別の掲載とする「第二節 各地区の鳥居銘」で、豊後の最西端、宇佐市との市境の「水崎地区」から始めていて、「2 今村・水崎神社」は、次のようにタイプ植字で再現し、「( )背面銘」とも添えている。
(願主貴族院議員水之江浩)
とりょうくちたり しょしょくしげれり
┌ 荼蓼朽止 黍稷茂止
〔水崎神社〕
└ 穫之挃〃 積之栗〃
かることこれをちつちつ つむことこれをりつりつ
(明治貳拾有八年十一月十日)
実はこの水崎神社からさほど遠くはない、豊前とされる地域の一神社でも、『詩経』の句をほぼそのまま鳥居銘として刻す事例もある。宇佐の北馬城地区、橋津神社であり、江戸時代・天保十二年(1841)に建てられた石造鳥居の銘は『詩経』大雅「下武」の末尾「受天之祜 四方來賀」と「於萬斯年 不遐有佐」を、左右の柱に8文字ずつ刻す。ただしその右柱の2文字目は『詩経』での「天」を、1文字だけ「神」に換えて刻しているので、ぜひ近い時期に紹介してみたい。