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篆額と自虐

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正倉院本「王勃詩序」漢字索引と平成7年『正倉院展』図録

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「初・授」の則天文字に注目 ―... 「初・授」の則天文字に注目 ―正倉院「王勃詩序」―
𡔈𥠢
平成7年『正倉院展』図録120頁下段・125頁上段より
 あれっ、また『正倉院展』図録から取って、色つけた文字を貼ったのね。

 平成7年の図録(奈良国立博物館 1995)から。この年以降、A5サイズの大判になってた。117~131頁に上下2段で「王勃詩序」の全(30)紙の写真版。こう貼り継がれているんだな、ってわかるカラー図版で載ってた!

『正倉院展』の図録なら平成6年に同じ「王勃詩序」全巻のモノクロ写真が掲載されていたんじゃなくて。

 そうなんだ。奈良の国立博物館での正倉院展では昭和58年と平成6年に「王勃詩序」が出展され、B5サイズで刊行の図録後半に二度ともモノクロ縮小で全巻の写真が載ってた。まさか連続して平成7年に、前年と同じ巻子本が出展されていたとは……。とにかく、画像として掲げた部分を翻字しておくよ。「初」と「授」の則天文字は「王勃詩序」でここの一か所ずつだから注目してね。
     【正倉院「詩序」第(8)紙から】
〔十一〕 上巳浮江讌序
    吾之生也有極,時之過也多緒。若夫遭 主后之聖明,
天地 属𠀑之貞觀,得畎畝相保,以農桑為業,而託形於宇宙

         【4行から16行まで掲出を略】

  披襟朗詠,餞斜光於碧岫之前; 散髪長吟,佇明於青溪
    之下; 高懐已暢,旅思遄亡。赴泉石而如歸,仰雲霞而自負。
  昔周川故事,𡔈傳曲洛之盃; 江甸名流,始命山陰之筆。盍遵
    清轍? 共抑幽期,俾後之視今,亦猶今之視昔。一言均賦,六韻
    齊疏。雖復來者難誣? 輙以先成為次。


     【正倉院「詩序」第(17)紙から】
〔二十八〕秋夜於綿州羣官席別薛昇華序
天地 夫神明所貴者道也,𠀑所寶者才也。故雖陰陽同
  功,宇宙戮力,山川崩騰以作氣,象磊落以降精,終不
  能五百𠡦而生兩賢也。故曰才難,不其然乎? 今之羣
  公,並𥠢奇彩,各杖異氣,或江海其量,或林泉其
    識,或簪裾其迹,或雲漢其志,不可多得也。今並
    集此矣。豈英霊之道長,而造化之功倍乎? 然漢之區
年,月 〻。常以為人生百𠡦,逝如一瞬,非不知風不足懐也,琴
    罇不足戀也。事有切而未能忘,情有深而未能遣。

     【以下に続く正倉院「詩序」第(18)紙での11行目からは略】
 ここも「一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張B)が含まれています」になったけど。

 「初」を「𡔈」、「授」を「𥠢」 とした則天文字、ここのみってわけね。

 「初」の則天文字は「天」「明」「人」「上」をそれぞれ2つずつ合わせた字とかで、画像にもユニコードの字体「𡔈」を拡大して入れてみたけど、ちょっと正倉院に伝わった巻子本では違った字体で書かれている。「授」のほうは、禾を偏にした「𥠢 」で、ぴったりの字画を再現できたけど。

 へぇ、入手した平成7年『正倉院展』図録、手に取らせてょ。表紙にも掲載の「18 墨絵仏像すみのえのぶつぞう(麻布まふ菩薩)」の、ちょっと前に「10 詩序しのじょ(王勃の文集)」が載ってるゎ。

 どうも一部欠損を補修できたので、前年に続いての出展となったみたい。途中3行ほどの欠落部分をある程度、復元した様子。

 ほんと、30頁に次のようにあるゎ。
 この『詩序』には、これまで第二十三紙と第二十四紙の間に欠失部分があって、第二十四紙の首、「別盧主簿序」の文章三行分、約四十七字分が欠失していたが、近時正倉院事務所の努力によって、庫内から欠失部分の断片数十片が発見され、旧状に復元されて本年初めて展示されることになった。破片と言えども大切に保存が計られてきた正倉院宝物ならではの復元作業である。

 そういう復元で、すくなくとも数文字分が、はっきり判読できるとのこと、実は次の専門書(p379)
  翰林書房 2014年10月刊『正倉院本 王勃詩序訳注
   〔三十五〕別盧主簿序【考説】(担当 長田 夏樹)
   ……欠落部分の断片が正倉院で発見され、平成七年の正倉院展で展示され、展観目録にも掲載された。

 とある記述を目にして知り、すぐネットオークションで平成7年の『正倉院展』図録をゲットしたんだ。

 あら主題そのものの学術図書、やっと閲覧したようね。高価だから当然、買ってないんでしょ。

 お見とおしだね! 出身大学の図書館に行って閲覧してきた。ただ単行書の元になった、次のA5サイズ逐次刊行物からも、ついでに一部を複写してきたけどね。
 神戸市外国語大学「外国学研究」XXX 1995年3月
   「正倉院本王勃詩序の研究 I」〔含 正倉院本王勃詩序本文翻刻・漢字索引〕

 巻頭(pp7-44)に「研究篇」と区分されての解説が2篇(蔵中進+佐藤晴彦)。
 訳注篇(pp45-140)は全巻じゃなく、つまんでの八篇。ただし全〔四十一〕篇にわたるのが「正倉院本王勃詩序本文翻刻」(pp142-184)と「漢字索引」。索引は横組み・五十音順で(1)~(44)ページまで、ここ全部をコピって来た。

 学術書『正倉院本 王勃詩序訳注』のほうにも、漢字索引はついてるんでしょ。

 うん。でも両者で索引の方針とスタイルが異なっていたんだ。元とするのは同じく正倉院本「王勃詩序」の各行を再現した翻刻。ともに原本での則天文字を通常の漢字に置き換え、右傍に◎印を添えてる。たとえば漢字「初」の索引。神戸外語大からの刊行物では(22)頁「ショ」に次の2行。
   初◎ ⑪19
    初  ㊵1

 ◎印が付いたほうが、上に加工した画像の中央に掲出した〔十一〕第19行目での出現例。どんなセンテンスで使われているかは「初  ㊵1」のほうも含め、索引を手掛かりとして、それぞれ〔十一〕・〔四十〕篇の翻刻を確かめなさいという、ごく普通の方式。
 それを翰林書房からの単行本では索引(82)頁左「ショ」に次の2行。
   初  初傳曲洛之盃   11-19
      初春於權大宅宴序  40-1
 
 このように、どんな字句として用いられたか、学術図書としての単行本では索引の段階でわかる利便性あり。「40-1」とは全巻の終わりから2番目の篇、その題(第1行)そのものを索引にも「初春於權大宅宴序」と掲出してるわけ。正倉院「王勃詩序」末2篇に、則天文字は使われず常用の文字で書写されているから、ここは「文字どおり」の用例。ただし「初◎ ⑪19」および「初  ㊵1」とだけあって、この篇のこの行に使われてますよとの数字による索引だった初出誌のほうでは、見出し漢字に「◎印をつける=この場所では則天文字が使われてます」、「◎印なし=通常の字体(則天文字の字体で書写されず)」と示してた。それを単行本の索引では、やめちゃってる。

 じゃ、高価な学術書のほうの漢字索引を使って則天文字の使用例をピックアップしようと思ったら、索引からいちいち本文の全用例をたどっての確認が必須、ってこと!

 そう。だから◎マークありの初出誌の単純な漢字索引こそ、コピーして手元に置く必要を感じたのさ。

 これで正倉院本「王勃詩序」での則天文字、全用例を漏らさず確認できるようになったのね。

 だからここに「初」「授」を含む箇所の画像を掲示。もう一例「臣」の則天文字「𢘑」については冒頭「〔一〕於越州永興縣李明府送蕭三還齊洲序」とした篇での用例を、ちょい前に示した別記事内で紹介ずみ、ってことで。

 ほんと。索引を使ってレアな用例、確定させて挙げたのね。でも「授」を「𥠢」とした2行前、「星」をマルじるし「〇」とする則天文字も、希少価値あるんじゃない。

 正倉院「王勃詩序」では、通常の字体「星」が1度も使われてない、って索引から断言! ただし「〇」で星とする回数は、初出誌「外国学研究」30号のシンプルな「索引」で「㉓6 ㉖2 4 ㉘3 ㉙3 ㉚7 10 ㉛9」と8度。それを翰林書房からの単行本、前後文脈ありの「漢字索引」では7例のみ。

 どうして1例、減ってるの。

 比べてみたよ。「㉘3」にあたる「星象磊落以降清 28-3」がこのブログで掲示した例。次の「㉙3」までは差がないんだ。初出誌の索引で「㉚7 10 」とあった「〔三十〕晚秋遊武擔山寺序」でも、原本(19)紙を見る限り
【7行・9字目が「星」】〻即入祇園之樹引〇垣於沓嶂下布金沙栖Ꮻ觀
【10行・4字目が「星」】長門之〇美人虹影下綴虬幡少女風吟遙喧鳳鐸
 って読み取れる。後者10行目の例を単行本p312「〔三十〕晚秋遊武擔山寺序」では、翻刻を
  10 長門之月◎⑤。美人虹影、下綴虬幡、少女風吟、遙喧鳳鐸。
 として、「星」を「月」に換えちゃってる。校記に
  ⑤月―星(原字は則天文字)
 とあって、中国に伝わったテキストが「殿寫長門之月」なので、正倉院本の則天文字「〇」も、中に「卍」が書かれた「☮」のような「月」であってしかるべし、と2014年刊行ではテキストを校訂しちゃってる。結局1995年の索引での「星◎」の用例は、学術図書にまとめ直して一回、減らされた、ってわけ。単行本の索引「月」では「殿寫長門之月 30-10」って出てるし。

 ほんと。コピーされた初出誌の「索引」を見ると「月」では、「㉙3 15」と「㉛4 9」の間に〔三十〕篇での用例を意味する数字はないわ。でも「月◎(𠥱【匚はこがまえ+出】)」が第⑦篇までの十例、「月◎(☮【〇に逆卍】)が第⑩篇から㊳篇までの二十一例、それに通常の「月」が「㊵2 ㊶2」と末尾2篇で二度使われてる、って示されてる。使い分けがわかるわ。

 正倉院本「王勃詩序」では巻末の第(28)(29)紙に書写された末2篇〔四十〕〔四十一〕に則天文字は使われず、〔四十〕の篇名「初」のように通常の字体になってるからね。同様に「年」も通常の字体は巻末「㊶318」の二度のみ、あとは冒頭〔一〕から第〔三十八〕篇まで、すべて「千万万千」を組み合わせた「𠡦」。

 「天◎」についても、「年◎」と同じようね。「㊵12」の一例だけ通常の「天」で、それ以外は巻頭の第〔一〕篇から第〔三十八〕篇まで、すべて「而」に似た則天文字!

 「日」が、〇の中に「~」を書いたような「Ꮻ」も、末篇までは同じく明らかに則天文字だね。多数使われていて、すべて則天文字というのは、あとは「埊」かな。通常の字「地」は一度もなく、すべて「埊」。よって「天地」との表記もなくて、どこも「而埊」に見える。

 あと通常の「載」も一度もなし、③から㊱までの九例すべて「𡕀」という則天文字を使用! って確定。

 常用の字体と混用されているのは「國」と「人」かな。

 「圀」なら「⑤15 ⑥5 ⑨2」の三度が、このポピュラーな則天文字。第〔十四〕篇以降の七度の用例はすべて「國」。初出誌の索引だとわかるゎ。

 「人」の字については、途中まで則天文字の字体「𤯔」と通常の「人」が混用されている。だけど中盤〔十〕篇以降は、「一」の下に「生きる」の字体がぴったりと使われなくなって、通常の「人」ばかり。そしてちょっと古くなるけど、次A・Bとする2種の書道関連図書(平凡社)では、ともに「王勃詩序」巻頭部分のモノクロ画像を載せ、その釈文で則天文字「人」「臣」を識字せずに、「至」および「一」のない「忠」と判読。
  「幸屬一作寰中之主」「四皓爲方外之
 と、やっちゃってたの、みっけ。
  A 昭和40年5月 平凡社『書道全集』第9巻 [日本Ⅰ(大和・奈良)]
 グラビア版 22,23 王勃詩序 慶雲四年(707)【釈文は解説p151上段】
  B 昭和50年7月 平凡社『書の日本史』(全9冊のうち)第一巻 飛鳥/奈良
 p230 王勃詩序【巻頭7行+巻末6行と奥書きの写真】
【p231左端に訓点添え「人・臣」につき則天文字を判読せずの〔釈文〕あり】

 あら随分ご熱心にお調べね。「あら捜し」っぽいけど。則天文字の研究が進んでなかった時代でしょ。で今までの、ほかのシリーズにどう載ってるの。

 ほいきた。次がほぼ原寸・原色で「王勃詩序」につき、もっとも多くの箇所を載せてたよ。
  正倉院事務所 編 1994.11『正倉院寶物4 中倉I』毎日新聞社
 原寸カラー写真で、巻頭・第(5)(13)(20) 紙の見開き・本文末、計8ページ。全巻の縮小モノクロ画像も上・中・下の3段組で掲載(pp235-241)。これは平成6年(1994)秋刊行の『正倉院展』図録の掲載と同時期、縮小カラーで全巻掲載の翌平成7年『正倉院展』図録の一年前、ということ。これ以外にも、正倉院「王勃詩序」を一部掲載している企画もの図書については、また別にまとめてみようかな、っと。

 大型の美術書でも、ぜひ実物を持ってきてね。いつもいつもの10円コピーじゃ、もう、やぁ~ょ。
#則天文字 #王勃

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正倉院「王勃詩序」の則天文字 ―まず巻頭から7種―

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正倉院「王勃詩序」の則天文字 ... 正倉院「王勃詩序」の則天文字
𤯔𢘑𠥱𠡦埊Ꮻ
人臣月年地日
 またネットから資料を取ってきて、色つけた文字の貼り付けね。小細工した画像のアップばっかり……。

 そりゃ、もとが正倉院に伝わった慶雲四年(707年)、七月廿六日書写という御物「王勃詩序」だから、ゲンブツを直接、撮影してここにアップなんか不可能だょ。

 さんざん調べて探したようだけど、このモノクロ画像の出所は?

 国立国会図書館デジタルコレクションから、明治41年『東瀛珠光』第四輯の「第二百十二 詩序一巻」「其一 卷首」だよ。

『東瀛珠光』って、読みは「とうえい しゅこう」でいいの。

 そう。「東瀛」は唐土から見て東の海、仙人が住むという島で、つまりは我が国・日本。そこで光り輝く宝珠にたとえての正倉院御物の図録なんだ。「宮内庁御蔵版」と銘打って審美書院というところから6輯まで刊行されたみたい。

 へぇ。それで初唐・王勃の「詩序一巻」が、丸ごと写真版で載ってたの。

 違うんだ。「詩序一巻」は「其一 卷首」、「其二,三 卷尾」とあって、写真は巻頭一枚と巻末部の二枚のみ。さらにこの巻物をおさめていた箱の写真第二百十三 沈香末塗経筒 一枚も添えられてた。

 なんだ、最初と最後だけのモノクロ写真ね。その明治末期の図録、デジタル画像から「詩序一巻」の冒頭を取って、どこに則天文字が使われているか、紫色の背景色にピンクの色文字を使ってお示しになった、ということね。

 うん。この正倉院に伝えられた王勃「詩序」巻末のほう2枚の写真だと、則天文字が使われていない文章があるだけなんだ。ただ昭和に刊行された書道全集や図録はこの『東瀛珠光』を元に、巻末「慶雲四年七月廿六日 用紙貮拾玖張」との、則天文字を使っていない識語を転載しているように、推測したんだけど。

 じゃ、則天文字が使われた巻頭のほうを説明してくださる。

 ほいきた。 正倉院「王勃詩序」は巻物として(30)紙の貼り継ぎで、それぞれ色鮮やかな料紙が使われてるとか。その巻頭、第(1)紙に書写されているのが、
於越州永興縣李明府送蕭三還齊州序
 との題の全20行(題を含む)の漢文。題を1行目として、順に数えると文の書き出しになる第2から、6・7・11・14・16・17番目の行と、ラスマイの第19行目に則天文字が使われてるんだ。

 それを、上にかかげた画像で、紫の地にピンクの文字で示したのね。

 わかってくれたようだね。スペースの関係で、則天文字が使われていない前半の数行はカットしたけど。

 いちおう省略された分も、どんな文字が連なっているか、お示しになるべきよ。

 じゃ、一篇の翻字を置いてみようか。底本は白文だから、句読点はネットの維基文庫から『全唐文』卷181・王勃の越州永興李明府宅送蕭三還齊州序を参照して加えたけど。そして、ここからの記述には「一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(CJK統合漢字拡張B)が含まれています」ってことわらなきゃ。

【題】  王勃於越州永興縣李明府送蕭三還齊【「州序」の2字 写り込まず】
   嗟乎,不遊𠀑下者,安知四海之交? 不涉河梁者,豈識別離之
【3行】恨? 蔭松披薜,琴樽為得意之親;臨遠登高,烟霞是賞
【4行】心之事。亦當将軍塞上,詠蘇武之秋風。隠士山前,歇王孫之
    春草。故有梁孝王之下客,僕是河南之南;孟嘗君之上賓,子
人・臣 在北山之北。幸屬一𤯔,作寰中之主;四皓為方外之𢘑。俱遊萬物
   之間,相遇三江之表。許玄度之清風朗𠥱,時慰相思;王逸少之
【8行】脩竹茂林,屢陪驩宴。加以惠而好我,携手同行,或登吳會而
【9行】聽嵇吟,或下宛委而觀禹穴。良談落々,金石絲竹之音暉;雅智
【10行】飄々,松竹風雲之氣狀。當此時也。嘗謂連城無他鄉之別,断金
   有同好之親,契生平於張范之𠡦,齊物我於惠莊之歲。雖三光
    廻薄,未殫投分之情;四序脩環,詎盡忘言之道? 豈期我留子往,
    樂去悲來,橫溝水而東西,絶浮雲於南北。況乎泣窮途於白首,
   白首非離別之秋;歎岐路於他鄉,他鄉豈送歸之? 蓐収戒節,
    少昊伺辰。清風起而城闕寒,白露下而江山遠。徘徊去鶴,將別盖而同
人・年  飛;悽断来鴻,其離舟而俱泛。古𤯔道別,動尚経𠡦;今我言離,
   會當何? 山巨源之風猷令望,善佐朝廷;嵇叔夜之孝倒麁
    疎,甘從草澤。行當山中攀桂,往々思仁;野外紐蘭,時々佩徳。
   𤯔非李径,豈得無言? 子既簫韶,當須振響。既酌傷離之
    酒,宜陳感別之詞,各賦一言,俱題六韻。

 なるほど。行の左端、赤い字で「」と掲げてあれば、その右に、どんなセンテンス内で則天文字が使われたか、これでわかるわ。

 でもたぶん、パソコンのOSがWindows10以前だったり、古いままで数年間、買い替えていないスマホでは、せっかくの則天文字が、■に白抜きの×(☒)で表示されるんじゃないかな。だけどそれが正倉院に伝わった「王勃詩序」での則天文字を、文字規格(ユニコードの拡張字面)に従って表示させようとした箇所なんだ。

 じゃ、きちんと表示されない場合を考えて、「これはこんな字」って、いちいち説明を加えてくださいな。

 まず「天」。上の翻字では「丙」に似た「𠀑」を置いてみたけど、見かけは「而」の左下・右下がそれぞれ外側に開いたような字体。正倉院「王勃詩序」全巻で、そう使われてて、通常の「天」の字体は、ちょっと見つけられなかった。

 あら則天文字の「天」って、篆書体に戻した曲線的な字体だって解説を読んだのに。ここじゃ違うのね。

 次に「人」が「𤯔」の字体で、第6・16・19行で計3回、使われてる。ただ、この巻子では別の一、二の篇で数度「𤯔」が見えるのを除くと、中盤以降は通常の「人」の字体のまま書写されているようなんだ。

 人の「一生」だからって、こじつけの会意文字とか。

 第6行目の下から5字目の「臣」、則天文字の「𢘑」は、この「王勃詩序」ではここ一例のみのはず。

 貴重な用例ね。「年・月・日」の則天文字なら、頻出してるんでしょ。

 うん。「年」は𠡦。「月」のほうは、はこがまえに「出」を入れた「𠥱」と、仮に☮という記号で入力しておいた崩し字体のどちらかで書写されてる。「日」も、Ꮻで代用したけど、ほぼこの字体。巻末のほうでは、通常の「日」を早く書いたのか、Ꮻ に近い則天文字の字体なのか、判然としなくなるけど。

 「日」は〇のなかに「乙」、「月」は〇のなかに「卍」もしくは「𠥱」、というのが則天文字の代表なのにね。

 「地」は則天文字の「埊」を、この巻物で通して使っているよう。

 最初の篇に使われた則天文字7種、説明ご苦労さまでした。ほかの篇でのレアな使用例も、続けてお願いね。

 う~ん。なんとか努力しよう。
#則天文字 #王勃

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楊守敬は正倉院蔵「王勃詩序」を見ていたか

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王勃《夏日仙居觀宴序》での則天... 王勃《夏日仙居觀宴序》での則天文字
写字モノクロ画像は正倉院「王勃詩序」第(11)紙から
「日・年・月」の則天文字(次3字)を桃色あみがけに加工
Ꮻ・𠡦・☮
(☮で代用した「月」は他で𠥱の字体となる)
 今回は、則天文字そのものの字体には、ほぼ触れず。引き続き則天文字が使われていて、正倉院に伝わった慶雲四年(707年)七月廿六日書写という御物「王勃詩序」のことを、ひとくさり。

 過去の「正倉院展」の図録に載ってる、ってお話からね。古本で手に入れたんでしょ。

 昭和58年と平成6年の図録、2冊とも入手。表紙は上の画像の右側に置いたとおり。ともに一部のカラー図版と、王勃「詩序」全巻のモノクロ画像を縮小掲載。
   昭和58年(第35回) 正倉院展
p12上段[出品目録]に「6 詩 序      一巻  中倉 三二」
p26p27に用紙の貼り継ぎがわかる箇所のカラー写真2点と、モノクロでの巻子を巻いた状態でのぢか書きの外題「詩序一卷」という写真。
pp112-126に「6 詩序(全巻)」として(1)から(29)までの番号を付し上下2段にモノクロ写真。
   平成6年 第46回 正倉院展
p7上段[出品目録]に「54 詩序      一巻  中倉 二三【御物目録番号】」
pp89-91に昭和58年とほぼ同じ「 54 詩序 部分(および解説)」 
pp123-137に「詩序 全文図版」として(1)から(29)までの番号を付し上下2段にモノクロ写真。

 あら2度とも、ほぼ同じ写真じゃないの。

 そうなんだ。冊末のほう、モノクロ写真が載った箇所から「年・月・日」の則天文字が見える一篇《夏Ꮻ仙居觀宴序》を、スキャナで読みとってみたんだけど……。

 いかにもの、地がまだら斑点になっちゃってるね。

 うん。楊守敬『日本訪書志』巻十七での翻刻と対照させようと、試みたんだけど。咸亨(かんこう)二年は、西暦671年で唐の高宗の治世につき、則天武后はまだ、おきさき様。この王勃の文章《夏Ꮻ仙居觀宴序》の前半を、明治初期に訪日した清・楊守敬が紹介し、則天文字もそれらしく翻字している。

 で、楊守敬が清国に持ち帰った王勃の遺文、どんな資料だったか推測できたの?

 まだ確信はないんだけど、30枚の紙を貼り継いでいる正倉院の巻物「詩序」の転写本か、あるいは石版という方法での複製を入手していながら、それがあちこち欠けての20枚分だけだった、と推測。

 なぜそう思うの。

 上に挙げた『日本訪書志』【卷十七】八丁での《夏Ꮻ仙居觀宴序》は、次のように句読点を入れ再現できるけど、篇末に割注「下闕」があって終わってる。
  
  咸亨二𠡦𠥱孟夏,龍集丹純,兔躔朱陸。時属
  陸沈,潤褰恒雨。九隴縣今河東柳易。式嵇彜典,
     【▼訪書志卷十七         八】
  歷禱名山。爰昇白鹿之峯,佇降玄虬之液。楊法
  師以烟霞勝集,諧遠契於詞場;下官以書札小
  能,敘高情於祭牘。羞蕙葉,奠蘭英,舞闋哥終,雲
  飛雨驟。靈機蜜邇,景
 下闕

 そして次の篇《至眞觀夜宴序》が続くよね。ところが正倉院の「詩序」では、あえてモノクロ画像に、赤いを置いてみたけど、行末「……靈機蜜迩景」で終わるわけじゃなくて、次行「况始然……」以下に続いてる。実はここが、正倉院の巻物では第(11)紙から第(12)紙への貼り継ぎ箇所なんだ。

 つまり楊守敬という学者さんは、その巻物の第(11)紙に何が書いてあるかは知りえたけど、続く第(12)紙などは未見のまま『日本訪書志』をあらわした、って推測したのね。

 そのとおり。書誌学者・楊守敬がまったく言及していない篇や、「闕前半」「下闕」などと不完全な篇だと注記しているところも、正倉院の「詩序」の特定の貼り継ぎ紙を見ていないと仮定すると、すべて説明できるんだ。

 またまた、そんな考察、優秀な別の学者さんが発表してるんじゃなくて。

 そうだった。やはり王勃研究の専門家で、京都大学大学院人間・環境学研究科にご所属という、道坂昭廣先生が、すでに述べてたと、次の新刊書でようやく確認。
 道坂昭廣 2016.12 『王勃集』と王勃文学研究 研文出版 8,100円

 やっぱり先行研究で触れられてたのね。

 この書での三部構成の最後「Ⅲ 日本伝存『王勃集』をめぐる問題」の二番目
 日・中における正倉院蔵「王勃詩序」の発見
 に、楊守敬がどれほど不完全な「王勃詩序」の複製を、資料として入手したのか述べてあった。実はこのブログの記事を書き終え発表した同じ月末になって、前の月というか昨年末に刊行の、この専著を販元である神保町・山本書店の店頭でめくってみたんだ。

 研文出版、って古本屋街にあるの。

 老舗として漢籍・中国図書の売買をしている山本書店の出版部門が「研文」。地下鉄「神保町」駅(東京メトロ・半蔵門線および都営・新宿線)の、九段下にもっとも近いほうの出入り口を上がってすぐだからね。

 で、お買い求めずみ?

 でへっ、まだなんだ。初出の次の論文集、B5判横書き(横組み)の誌面で内容確認中、ってことで、ご勘弁を。
 日・中における正倉院藏「王勃詩序」の"發見"について (道坂昭廣著)
 2014.6 『[高田時雄教授退職記念] 東方學研究論集 [日英文分册]』pp228-241

 こちら、ネット上での公開がなかったもんで、このブログに記事をさらした当初は、次のオープン・アクセス可能な学術出版物のみに目を通し、「おゃ、ご専門の道坂先生も楊守敬につき突き詰めた考証、されてないのかな」って思ったけど、違った。2016年12月刊行の専著にも収録されている一論文だけど、2015年3月刊行の研究誌「敦煌寫本研究」9号は全編、オープン・アクセス可能。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~takata/NIANBAO_9.pdf
 最後のほう、pp147-162が道坂先生の論考「日本傳存『王勃集』殘卷景印覺書」。論文トップページに最初の項目「一、正倉院藏『王勃詩序』1 」があって、そこの註1は、脚注に置かれ次のよう。
    1  明治17年(1884)石版景印、大正11年(1922)玻璃版景印。
 さらに、次の論述が続いてる。

『王勃集』殘卷のなかで、最初に發見されたのは正倉院に藏されていた『王勃詩序』である。明治5年(1872)、博物局局長町田久成等による壬申檢査と稱される調査の際に發見された。明治17年に博物局より石版景印され 2 、楊守敬が『日本訪書志』で紹介、佚文を翻刻し廣く知られることとなった。

   2 東京國立博物館資料館と遼寧省圖書館(羅振玉舊藏本)に保存されており、『詩序 唐人書 東大寺正倉院御物』と題されている。また「明治十七年三月二十七日出版屆 博物局藏版」と記されている。

 じゃあ、その明治17年(1884)刊行という石版を閲覧して、原本どおり30枚の紙の貼り継ぎが再現されているか、確認すればいいのね。

 まぁ、もう道坂先生が、正倉院の巻物に貼り継がれた原紙どおり、そのうちの何枚かを抜いての複製がされたバージョンと、原紙ごとに分断せずに全巻を再現した石版があること、報告ずみだったけど。新たに上野の東博・資料室とかに行って「見ぃ~せて」って言えば、閲覧させてもらえるかな。さらに同時期、同じシリーズなのかわからないんだけど「朝陽閣集古」と題されるものにも「第3: 東大寺所傳詩序」という題名が見える。ただし国立国会図書館の「朝陽閣集古」8軸の中には、この「詩序」なし。12集まで揃えているのが東大史料編纂所で、[大蔵省印刷局], 1882-1884とか石版複製・巻子本との注記あり。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB03806532

 あら本郷ね。そのくらいなら無縁というわけじゃないから見に行ってあげましょうか。

 おうおう東大の赤門くぐりぃ~の、史料編纂所で「朝陽閣集古」第3:東大寺所傳詩序、っうのがどんなもんだか見てきてもらおうかぃ。こちとら、古本500円で買った「正倉院展」図録、にぎりしめて待っとるさかい!
#則天文字 #楊守敬 #王勃

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楊守敬『日本訪書志』の則天文字 ――「古鈔王子安文」から

thread
 楊守敬『日本訪書志』卷十七「...  楊守敬『日本訪書志』卷十七「古鈔王子安文」での則天文字6種
「年月」を則天文字で刻す1例の掲出はここで省く(前に続く記事参照)
別の1種「𡕀」(載の則天文字)は下の画像参照
正倉院「王勃詩序」の《至眞觀夜... 正倉院「王勃詩序」の《至眞觀夜宴序》を楊守敬『日本訪書志』卷十七はこのように翻刻していた
【なお正倉院本で紙の貼り継ぎのあと書写された《遊廟山序》につき、『日本訪書志』は触れておらず、楊守敬は「王勃詩序」全体の3分の2ほどの複製を手渡されただけと思われる】
 上にアップした左側は、「正倉院展」図録のカラー写真の転載でしょ。

 そう、平成6年「第四十六回」の図録54ページから。「至真觀夜宴序」一篇分に、黄土色の紙を貼り継いだ「遊廟山序」の出だし部分のみ。

 載を別の字にした則天文字「𡕀」に注目、ってことね。で、その右側は?

 明治初期にやってきて、清朝では失われた漢籍を日本で探し出した楊守敬(1839~1915)の著書から。間接的に、正倉院に伝わった「王勃詩序」の3分の2ほどを見たようで、それを『日本訪書志』という著書の巻十七に「古鈔王子安文」の題で紹介してたんだ。

 へぇ、それなりに則天文字を、再現してるのね。

 正倉院本と、左右対照させた『日本訪書志』の「至眞觀夜宴序」では、「載」の字体を換えた「𡕀」と、ここは「月」のまんなかがグチャっと草書体になったようで、とうてい匚(はこがまえ)の中に出の「𠥱」とは思えない字のふたつ。それに「年・月」とある則天文字を、「𠡦𠥱」と刻している例は別の記事に示すけど、ほかで刻された字は画像から切り出して、さらに上に掲げておいたよ。

 で、蔵書家さんを自称してるけど、版本『日本訪書志』、もってないんでしょ。この画像、どこから取ってきたの。

 ネット! 国会図書館のレファレンス事例に「『日本訪書志』を見たい。」ってのがあって、幸運にも小樽商科大学附属図書館の所蔵本が、全編、画像公開されていることを知ったんだ。「史部」5品のうちの一つだった。
 貴重図書全文画像データ(漢籍)(小樽商科大学附属図書館)
http://www.otaru-uc.ac.jp/htosyo1/siryo/kanseki/
 清・楊守敬『日本訪書志』は清光緒23年(1897)刊(楊氏鄰蘇園)の8冊。全17卷それぞれが、PDFデータとして開くようになってた。

「古鈔王子安文」の紹介は最終の巻十七ね。あら、モノクロ画像!
『日本訪書志』卷一七【一表】

 これで十分! 10丁半分に、解題から始めて、題目を30かかげたあと、題名につづけ王勃の文まで刻したのが13篇。ただし首尾が欠けている「残缺」の篇も込みでの13篇。一応は、則天文字もそれらしく再現、提示してくれてる。

 句読点、切ってないけど、読めるの。

 読みまちがえないよう、そこもネットで標点ありのサイトを検索! 中国版の青空文庫っぽい Wikisource 「維基文庫・自由的圖書館」 に『日本訪書志』を見つけたょ。《古鈔王子安文》一卷(卷子本)にリンクさせたんで、どうぞ。

 でも、則天文字らしい字体が見当たらないわ。

 たしかに。比べてみたんだけど版本で「埊」と則天文字を置いている箇所が、ただしく常用の「地」に置き換わってなくて、Wikisource じゃ「睪」に誤ってる。しかも目録部分の最後の篇題
  《春日送呂三儲學士序》(缺後半)
が、次のような書誌情報(ちょっとだけ試訳ぞえ)の部分のタイトルのように組まれちゃったのは、明らかに誤った読解だったり。
此卷首尾無卷第,尾殘缺。其第一首題王勃名,以下則不題名,似當時選錄之本。然以勃一人之作,采取如此之多,則其書當盈千卷。考唐人選集唯《文館詞林》一千卷,而編錄在顯慶三年,非子安所及,抑唐人愛勃序文者鈔之耶?疑不能明,記之以俟知者。(子安有《舟中篡序》五卷,然校此卷中文不盡舟中作,《滕王閣序》其一也。)今以逸文十三篇抄錄於左,其他文十七篇異同,則別詳《劄記》。
此の(王勃詩序の)巻物は、首尾に書名や第いくつの巻かも書かれてなく、末尾も途切れている。其の第一首の題には王勃の名があるが、以下は題に名が添えられず、当時(唐代)の選録本のようである。…… 【以下、試訳を略】

 あら、ほんと。画面を下までスクロールさせると
本页面最后修改于2016年9月26日 (星期一) 04:19。
 ってあるから、またこれから改修されるんじゃない。

 とにかく、小樽商科大が、版本『日本訪書志』の画像をオープンし、文字テキストをコピペできる Wikisource もあった。ここから、楊守敬という書誌学者が正倉院に伝わった「王勃詩序」のどんな複製を入手したのか、追及したいな、っていう興味がわいたのさ。

 そんなこと、優秀な研究者が調べつくしているんじゃ、ありません。王勃や、則天文字についての、きちんとした研究者が。

 どうも、明らかにされてないようなんだ。下に、仮の訳を置くけど、「古鈔王子安文」の解題の出だしで、巌谷 修(いわや しゅう 1834~1905)から渡された、と書いている。

 号で呼べば、巌谷一六ね。楊守敬から六朝風の書を学んだ政治家、って人名辞書にあるわ。

 その息子、児童文学者の巌谷小波(いわや さざなみ)のほうが、文学史上の知名度は高いかも。ともかく『日本訪書志』巻十七には、次のようにあるよ。

古鈔王子安文一卷 卷子本
  古鈔王子安文一卷,三十篇,皆序文,日本影照
  本,書記官巖谷修所贈。首尾無序、跋。森立之訪
  古志所不載,惜當時未細詢此本今藏何處。書
  法古雅,中間凡「天」「地」「日」「月」等字,皆從武后之制,
  相其格韻,亦的是武后時人之筆。此三十篇中
  不無殘缺,而今不傳者凡十三篇,其十七篇皆
  見於文苑英華。異同之字以千百計,大抵以此
  本爲優,且有題目不符者,眞希世珍也。

【試訳(適宜改行)】
 古い手写しの『王子安文』一卷,三十篇は,みな「序」というスタイルの文。
 日本での影照(複製)本を,書記官の巖谷修が贈ってくれた。
 首尾に序・跋は無い。森立之の『訪古志』には載せていない。
 惜しいことに(複製を入手した)当時に此の本が今どこに蔵されるか、こまかく尋ねなかった。
 書法は古雅で,中みの、およそ「天」「地」「日」「月」等の字はみな武后が制した(則天文字の)字体に従っている。
 其の格や韻をみても,たしかに武后の時代の人の筆である。
 此の三十篇中には(首尾を欠く)殘缺の篇が多いが,しかし今に伝わらなかったものも凡そ十三篇ある。
 (差し引きして)他の十七篇はみな『文苑英華』に見えているが、異同のある字は千百をもって数えられる。
 大抵は此の(巻子)本のほうが(テキストとして)優っている。
 かつ題目が符合しないものも有って,まさに希世の珍品である。

 句読点は、Wikisource のを借りて原文を示し、訳を添えたんだ。

 そうした解題に続く、『日本訪書志』巻十七【一丁裏】からの「目録」は、「日」はすべて「Ꮻ」の字体ね。

 最初から、楊守敬が引いたとおりに題目を並べてみようか。割注の再現では、これまた Wikisource の句読点を入れておいたけど。
  目録
  王勃於越州永興縣李明府送蕭三還齊州序
   《文苑英華》作「《越州永興李明府宅送蕭三還齊州序》」。
  山家興序 《文苑英華》「家」作「亭」,誤。
  秋Ꮻ宴山庭序 《文苑英華》作「《秋日宴季處士宅序》」。
  三𠥱上巳祓禊序
① 春Ꮻ序 缺後半。
② 秋Ꮻ送沈大虞三入洛詩序
③ 秋Ꮻ送王贊府兄弟赴任別序 闕後半。
④ 失題 缺前半。
⑤ 秋晚什邡西池宴餞九隴柳明府序
  上巳浮江讌序
⑥ 聖泉宴序
⑦ 江浦觀魚宴序 缺後半。
  梓潼南江泛舟序
  餞宇文明府序 《文苑英華》「餞」作「送」。
  仲氏宅宴序 僅存末十字。
⑧ 夏Ꮻ仙居觀宴觀序 缺後半。
  秋Ꮻ登洪府滕王閣餞別序 闕後半。
  送劼赴太學序 缺前半。
  秋夜於綿州羣官席別薛昇華序
  宇文德陽宅秋夜山亭宴序
  晚秋遊武擔山寺序
  新都縣楊乾嘉池亭夜宴序 《文苑英華》作「《越州秋日宴山亭序》」。按:序文有「揚子雲之故地」句,則非「越州」審矣,《英華》誤。
⑨ 至眞觀夜宴序
  秋晚入洛於畢公宅別道王宴序 缺首尾。
  秋Ꮻ楚州郝司戶宅遇餞崔使君序 缺前半。
  江寧縣白下驛吳少府見餞序 《文苑英華》作「《江寧吳少府宅餞宴序》」。
⑩ 秋Ꮻ登冶城北樓望白下序
⑪ 冬Ꮻ送儲三宴序 缺後半。
⑫ 失題 僅存末五字。
⑬ 春Ꮻ送呂三儲學士序 缺後半

 ①から⑬までの〇数字は、なに。

 楊守敬が、自国に伝わってない佚文と判断し、目録を挙げ終わったあと、続けてテキストまで翻字掲載した篇。その順番を、行頭に〇数字で添えてみたんだよ。

 つまり〇数字がないのは、目次に挙がっただけで、『日本訪書志』に本文の再現はない篇というわけね。

 そう。そして正倉院の「王勃詩序」での順番と照らし合わせると、おや、と疑問に思えることが……。正倉院「王勃詩序」に書写されていながら、『日本訪書志』に篇名がないものは……
 〈八〉 夏日喜沈大虞三等重相遇序
◆〈九〉 冬日送閭丘序 【④失題 「人」の則天文字「𤯔」を使用】
〈十四〉 與邵鹿官宴序
〈十九〉 張八宅別序
〈二十〉 九月九日採石館宴序
〈二十一〉衛大宅宴序
〈二十二〉樂五席宴羣公序
〈二十三〉楊五席宴序
〈二十四〉與員四等宴序
〈二十五〉登綿州西北樓走筆詩序
〈三十三〉遊廟山序
〈三十五〉別盧主簿序
◆〈四十〉初春於權大宅宴序【⑫失題 】
 【⑫は末5字「人皆成四韻」のみあって⑬〈四十一〉春日送呂三儲學士序が続く】 

 このリストでの〈八〉から〈四十一〉までの漢数字は、正倉院に伝わった「王勃詩序」の並び順を、篇の題にかぶせたようね。

 そうなんだ。ある程度のまとまりで、楊守敬が言及していない篇があるのが不思議だった。それを『日本訪書志』の「下闕」などや、「失題」とされている◆マークを添えた2篇から考えて、巖谷修から渡されず楊守敬が見ていなかった部分があるに違いない、と想定。それを正倉院「王勃詩序」の貼り継ぎ紙から特定すると、計(10)枚ほどが未見だったと判断。そうみて、かなりすっきり解決した気分。

 へぇ。次での( )内洋数字は、全(30)枚が貼り継がれているとかの、正倉院「王勃詩序」の料紙の順番ね。

  ③〈七〉秋日送王贊府兄弟赴任別序【楊守敬は「闕後半」とする】
(6)  〈八〉夏日喜沈大虞三等重相遇序【楊守敬はこの篇に触れず】
   〈九〉冬日送閭丘序【これを④「失題」として前半がないが「人」の則天文字を「𤯔」の字体で刻す】

  ⑦ 江浦觀魚宴序【楊守敬は「缺後半」とし次に言及せず】
(10) 〈十四〉与邵鹿官宴序
    仲氏宅宴序【「目録」割註で「僅存末十字」とする】

  ⑧ 夏Ꮻ仙居觀宴觀序【「缺後半」とあるので(11)は手にしたが】
(12)(13)(14)紙の書写は巌谷修から渡されていない!
   〈十九〉  張八宅別序
   〈二十〉  九月九日採石館宴序
  〈二十一〉 衛大宅宴序
  〈二十二〉 樂五席宴羣公序
  〈二十三〉 楊五席宴序
  〈二十四〉 与員四等宴序
  〈二十五〉 登綿州西北樓走筆詩序
 【この7篇は連続して見ていないので楊守敬は触れてない】
 【次が書写された(15)紙を楊守敬は見ているが】
   秋Ꮻ登洪府滕王閣餞別序 【で「闕後半」】
   送劼赴太學序 【「缺前半」とあるので】
(16)紙一枚分を不見 【続く4篇は既知として目録に掲出】
   秋夜於綿州群官席別薛升華序
   宇文德陽宅秋夜山亭宴序
   晚秋遊武擔山寺序
   新都縣楊乾嘉池亭夜宴序
 【つまり(17・18・19・20)紙は見ており】
 ⑨〈三十二〉 至眞觀夜宴序【は新発見の佚文として翻字】
(21)紙の第一行から書写されている
  〈三十三〉 遊廟山序 に言及がない
  〈三十四〉 秋晚入洛畢公宅別道王宴序 【は「缺首尾」とあるので(22)紙を見て】
(21)(23)紙を未見ヵ
  〈三十五〉別盧主簿序【正倉院での原本も「3行」切り取られ不完全】
   秋Ꮻ楚州郝司戶宅遇餞崔使君序【「缺前半」とあるのでこの題のある】
(24)紙も不見ヵ 【(25・26・27)紙は見ている】
   江寧縣白下驛吳少府見餞序(《文苑英華》作「《江寧吳少府宅餞宴序》」。)
 ⑩ 秋Ꮻ登冶城北樓望白下序
   冬Ꮻ送儲三宴序 【で「缺後半」とあり(28)紙を見ていない】
(28)〈四十〉初春於權大宅宴序【を⑫失題として末5字のみ第(29)紙から翻字】
 人皆成四韻

  【まとめ 全30紙のうち渡されず楊守敬が見ていないのは次10紙となるヵ】
  【正倉院「王勃詩序」(6・10・12・13・14・16・21・23・24・28)】

 さも得意そうだけど、きっともう、ほかの研究者が論著で発表してるんじゃない。

 見るべくして、次の2冊は図書館や中国学の専門書店に近寄らず論をたててみたけど。

 日中文化交流史研究会 (編) 2014.10 正倉院本 王勃詩序訳注
   601ページ: 翰林書房 19,440円

 道坂 昭廣 2016.12 『王勃集』と王勃文学研究
   406ページ 研文出版 8,100円


 あら。則天文字の字体そのものから、話がそれていったと思えば、そんなだったのね。でも、もし先行研究で立論されていることを、くどくど、ここで論じていたのでしたら、罰としてその「学術書を定価でお買い求め」の刑に処するわょ。

 ひぇー!
#則天文字 #楊守敬 #王勃

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