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篆額と自虐

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大分県国東市某地区「天満社」鳥居の「變態」銘

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鳥居の中央上部、【額束】は「天... 鳥居の中央上部、【額束】は「天滿宮」。左右の柱、裏側の刻字は、本文記事の中段を参照。
 あら、じっちゃま、二年ぶり!

 おう、新型コロナウィルスとかで行き来を自粛せにゃならないご時世だったからのう。で、国東に何しにきたの?
 江戸時代、こちらに居た俳人を調べるためよ。文殊仙寺を峨眉山と言い換えて、ゆかりの句集を編んだ、中田一正子、あるいは「一笑子」と名乗った人物。どうも中田村で庄屋をつとめていたみたいなの。

 ほう。で、どこまでつきとめたの?
 じっちゃんが紹介してくれた物知りさんに、先に連絡をしたの。きのう、さっそく国東町中田という村落まで案内してもらって、近世での庄屋は代々、中野姓ということなど、住んでいる方から聞き取ったわ。そして山の中の墓所までいったの。

 ああ、もとの国東市議で、今は歴史小説を執筆しているA君を頼ったんだね。
 で、わかったの?
 それが、山の斜面をかなり登って、墓石が群れを成すところにたどりついたら、通常の形ではないお墓があったの。自然石に「中野億右衛門」って彫ってある俗名は、しっかり読めた。墓石の正面には「一笑」と刻されているのは確かで、「居士」と続いているようだったの。つまり、探しに来たその俳諧師の、お墓をみつけちゃったのよ!

 へぇ、すごいね。
 ただ風化が進んだのか、もともと刻してなかったのか、彫ってありそうな没年は読み取れなかったの!

 ほう。それで関連する情報がないか、ときたわけだ。
 はい。お墓さがしの帰りに、きちんと手入れされた中田村の歳神社に立ち寄ったわ。通りに近いほうは昭和十一年に建立の鳥居、境内に入るところのは江戸中期かなぁと思えた古い鳥居。それぞれの銘も見てきたわ。

 なら、例の郷土史雑誌も、国東の図書館でみて調べたんだろうね。
 もちろん! 1989年刊行「くにさき史談」第6集、特集「国東町の鳥居」ね。
 その21から22ページ「上国東地区」の鳥居、18番と19番として記録された、中田「歳神社」の一ノ鳥居、二ノ鳥居。江戸時代のほうは「当村庄屋 中野増右衛門重宏」の名があるって載ってるんだけど、これ「一笑子」の祖父あたりかな、って思えた。

 じゃあ、同じ雑誌の同じ地区、「17. 天満社 中田」として、次のように記載されてる鳥居は、見たかい?

 **********************
【先行する記述②】「くにさき史談」第6集 
  国東町の鳥居の調査【p21】上国東地区
  から転載 ****************

17. 天満社 中田
 額「天満宮」 稲荷鳥居 高サ三.五〇 柱間二.五〇
變態ヘンタイ一朝之浮雲   中野億右衛門忠義
          由太郎継父志成之
          夫力 村 中
儒雅ジュガ之清風   安永十年辛丑カノトウシ二月吉日
  變態 ―変わったかたち、儒雅 ―儒教の正しい道
 ***********************


 それなの。「中野億右衛門忠義」が、俳人「中田一笑子」に違いない、って思うわ。
 でも、その中田の「天満社」が、どこにあるか不明!

 は~い、はい。そんなことだろうと思って、昨年夏に撮影した鳥居銘の写真を掲げるよ。とっても、ナイスな文字が刻してあるからね。
 あらら、やっぱり「変態」。じっちゃま、よくお調べね!

 そっちじゃなく、ワシを「儒教を学んだ優雅な君子」と見て欲しいゾ。
 無理! できかねますゎ。で、刻された文字の判読、大丈夫なのかしら。

 そう、「先行する記述」では、鳥居の左右、両柱のどっちの裏側に、年号や建立者の名が刻されているか、わからない表記になってた。正しくは次の通りじゃった。以下、二〇二一年八月に実視しての再現だぞ。
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  【右 柱】變態一朝之浮雲

【額 束】天滿宮

  【左 柱】儒雅千載之清風


 【右柱の裏】
    由太郎継父志成之
       夫力村中

 【左柱の裏の建立者(庄屋)名と年(1781)月日】
   庄屋
    中野億右衞門忠義
  安永十年辛丑二月吉旦

 *********************

 はい、ご苦労様。で場所は、そもそもどこだったの?

 郵便番号から言えば、〒873-0532、大分県国東市国東町中田だけど、番地は伏せておこう。
 現行のどの地図にも神社マークなど、ない。農機具を置いた民家の倉庫の北側斜面の急な石段の中腹に立つ鳥居なんだ。ただし石段を登りきっても現状、木造の社殿はなかった。
 そこって、地図では田深川に沿った県道〔650〕のそばに違いないわね。

 そうじゃょ。田深川の上流へと、もう1キロほど県道を進めば、国東町見地。そこに平家の末裔にちなむとかの「小松神社」があって、そちらはどの地図にも明記あり、だけどね。
 ついでに古~い新聞記事も、紹介してくださるのね。

 約80年前の地元発行の新聞連載の切り抜きだけど、大分県立図書館にそれを貼りこんだ資料があった。記事のなか、この「變態」鳥居銘を考えたり文字を書いた人物についての推測は、そのまま受け取るつもりはないけど、該当箇所を漢字体や改行箇所、そして振られたルビまで忠実に再現しておくぞ。

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【先行する記述①】河野清實「鳥居巡拜」(6)
   昭和十六年一月「豐州新報」
  【掲載日不詳だが22日前後か】
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(四一)中田天滿社
  の鳥居

 此宮に小さなとり居がある、高
やく一間五しやく額束がくつかに天滿宮と
書いてれう柱にめい文がある。
△右柱(表)變態一朝之浮雲
△左柱(表)儒雅千載之清風
 變態一朝のうき雲、儒さい
せい風とむ語きわめて簡單かんたんしか
【衍】も菅公の一生を云ひくして
遺憾ゐかんがない、書たい謹嚴きんげんせいしん
しきの楷書である、きう正家中野

あや子氏の話によると其の祖先
の書いてもらつたもので梅園ばいえんの書
と云ひ傳へる、併し書風は梅園ばいえん
のではない、此の建設けんせつは安えい
年、梅園ばいえん五十九さいの時であるが
おそらく梅園ばいえんせん文で其子黄鶴に
書かせたのであらう黄鶴は能書
家で梅園ばいえんでさへわれは書に於ては
黄鶴に及ばずと云ふくらゐである、
 ……


 あら「一笑子」のお墓を発見したAさん、記事に名前があがった「中野あや子」さんのこと、言ってたわ。明治から昭和初年まで衆議院議員に連続当選した、地元選出の政治家、元田はじめに、中田村出身の女性が寄り添ってきてた、とかょ。

 ありゃりゃ、いろんなこと仕入れて、耳年増なお嬢ちゃんになってきたねぇ……
 キャー、近寄ってこないで、この「變態」!

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