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栃木県の歴史散歩

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近世初期の土豪 主家没落で続々帰農

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江戸時代初期の検地帳(土地台帳)をみていると、田畑の反別の下に、耕作者である農民(名請人)の名前が書かれているが、これらの名前の中に監物(けんもつ)玄蕃(げんば)備前(びぜん)淡路(あわじ)若狭(わかさ)などという、百姓らしからぬ名前がまじっている。しかも、かれらのうちには5、60石、ときには100石にもおよぶような広大な土地を保有する「大高持」で村役人、しかも検地に際しては、村内の案内人を勤める特権的な百姓がいたことがわかる。他の多くの百姓をへいげいして、村内に無二の実権を握るこれらの百姓は、どのようにして生れてきたのであろうか。
 宇都宮から車で1時間もとばすと、市街地をすっかり抜けて、あたりの田園風景のなかに、ポッカリとそこだけ、近世的村落の景観がよみがえってくるような所に出会うことがある。芳賀郡や那須郡、上都賀郡などの史料調査の過程で、私は何度かそんな気持を味わうことがあった。
 山を背に、なだらかな斜面を日だまりにして家が点在し、前方の平野をゆるやかに流れる川の水を利用して、耕地が広くひらかれている。名主の屋敷はこうした村の中心に、たいてい鬱蒼と茂る森に囲まれるようにしてある。
 史料を探しに訪れた私たちは、こうした名主の屋敷が、時として目をみはるばかりの濠と土塁に囲まれているのに出会う。並みの百姓でないことは、想像にかたくない。土塁はきちんと桝形に築かれ、堀之内、館(たて)などとよばれていることも多い。
 史料調査の過程で、その家の由緒書や系譜があらわれることもある。もとより、これらの内容をそのままうのみにすることは危険であり、簡単に信じることはできないが、他の文書や石碑、位牌などと比較検討して、その正否をある程度まで確かめることは
できる。
 それらの内容は、近世初期、下野の各地に跋扈した土豪の出身であることを伝えたものが多い。
 戦国時代、下野に勢力を持っていた大名(宇都宮、那須、小山、皆川などの各氏) の多くは、織豊から徳川へ天下の覇権が移るなかで、没落、移封のうきめにあった。上級家臣は別として、かれらの下級家臣のうちには、いまだ兵農未分離の状態に置かれてい
たものが多く、主君の没落に際して他へ移り、再奉公することもかなわず、自分の本領に立戻り、帰農、土着する者が多かった。
 芳賀郡小貫村(現同郡茂木町)に土着した豊前守信秀は、その祖父主膳信家以来、宇都宮氏に仕えた土豪であったが、主君の没落とともに帰農、土着した。上篭谷(現宇都宮市) の大塚土佐もまた、同じような由緒をもつ土豪であった。
 東水沼村(現芳賀郡芳賀町)で代々、名主を勤めた岡田家は、芳賀氏に仕えた土豪だったが、宇都宮氏とともに主君芳賀氏が落城するに及び、ついに帰農するに至ったものであろう。
 また、上石川(鹿沼)に土着した石川越前は、かつて結城三河守のもとで、150石の知行をうけていたが、やはり主君の落城を機に、本領に戻って帰農した。この石川家や、さきの岡田家の屋敷地には、かつての上豪のすみかをしのばせる深い濠と土塁がめぐらされている。
 土着、帰農した上豪は、何十人という家来、譜代の者をひきつれている場合が多く、土豪屋敷の門前や周囲には、こうした家来百姓の家がたちならんでいたことであろう。
 下野国内においても、ごく辺境の山間地帯では、このような土豪が江戸時代後半に至るまで絶大な力を有し、各種の特権を与えられ、村内の土地のほとんどをその一軒のみで占め、他の百姓はすべてこの家の家来としてのみその存在が認められるところもある。
 しかし、たいていは年貢収納を増加させるため、百姓数をふやそうとする領主側の政策と対立し、しだいに特権を奪われ、絶対的な地位をいつまでも保ち続けることは難しいのが普通である。かれらは村内における自分の地位を守るためにも、領主側と妥協せざるを得なくなり、やがて特権のかわりに、村役人の地位を保証され、領主に協力するようになっていった。

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