OBON捜索班手記/北海道津別町で戦没者遺留品を返還(Returning the remains of the war dead in Tsubetsu-cho, Hokkaido)
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一ー留守宅の父上始 皆健匠(健勝?)ですよ 此の点大安心下さい小生も君の留守中叔父様の身体に付いて心配していましたが精神力の更止(向上?)のためか 殆ど休んでいられる様子は有りません 相変ず一ヶ月七十束からの発送品を一手に引き受けて大いに頑張っていられます。此の様を見るに付け 政雄君のあのたくましい体で毎日元気で製材出しをして居た様子が目に見へます。
ーー自分達の原木□も益々勇壮で毎日十台から二十台位の到着原木で駅のホームを賑ぎやかにして居ります。自分達の班より過日 日原 田中の両名が海軍へ入団しました。何れも□□の年輩者です。松下工場も益々拡張され第二工場 製材工場等も建築されました。□身隊の寮も立派に出来上りました。原木は電気ウインチで物凄く髙巻きして居ります。二□酉の市も過ぎ二頭共最高で売りました。戦争は刻一刻吾本土に近づいて参りましたーー※「□」は判読不明の文字
兵士と手紙の差出人の大東剛さんは故郷では年も近く大変仲の良い間柄だったのではと読み取れます。大東家は北海道に移住してきて政雄命の代で四代目となられ、家業の林業に従事し町の発展に大きく寄与されてきたそうです。8人兄妹の長男として生まれ、当主となるべく成長した政雄命ですが、昭和16年に海軍に入隊。昭和20年に激戦の地【硫黄島】の警備任務に就かれました。きっとこの銃後からの手紙を肌身離さず、故郷を思って戦われたのだと思うとこみあげるものがあります。記録では政雄命の戦没日は昭和20年3月17日とあります。これは栗林中将が硫黄島に残る残存兵力を集結し、米軍に最後の攻撃を仕掛けた日です。水も食料もない中、手紙に書かかれた「~戦争は刻一刻吾本土に近づいて参りました~」これを阻止すするために戦われたのだと。
政雄命には年の離れた弟さんがいらっしゃいますが、ご遺族のご意向で「手紙」の返還を受けたのは本家の8代目を継がれた甥御様「大東邦博」様でした。邦博さんは「叔父(兵士弟)ともよく話し合って、この手紙は墓も仏壇もある本家で丁重に受取り、伝えていきたい」と仰っておられました。「当時政雄さんの遺骨や遺品は何も戻って来ず、石ころだけが白箱に納められて帰ってきたと聞いています。この手紙を叔父の遺骨として納骨しお寺で法要してもらう事になっています」との事。
この度の返還誠におめでとうございます。 https://www.facebook.com/OBONSOCIETY/posts/4849117658474787