OBON捜索班手記/京都府与謝郡与謝野町で戦没者遺霊品を返還(Returning the remains of the war dead in Kyoto)
May
17
兵士「黄前典夫命」の故郷、与謝郡は日本三景で有名な「天橋立」を近くに阿蘇海を望み、地元では丹後ちりめんが織られ、俳人「与謝蕪村」や歌人「与謝野晶子」がこの地に魅せられその名を名乗ったほどの風光明媚な土地にして「神々の遊湯」と言われる温泉の沸く土地でした。
昭和19年6月にこの地の奥波見地区から「黄前典夫 命」は日本本土防衛の最前線「沖縄」へ向かいました。銃後に幼い息子と娘を残しての出征でした。黄前典夫命の所属した独立歩兵第13大隊 (石部隊)3594は沖縄戦の中でも日米両軍激戦の地、宜野湾市の嘉数高地でぶつかり、その戦闘は実に16日間に及びました。米軍からこの渓谷は「呪われた罠」「忌々しい丘」などと呼ばれ恐れられていたそうです。嘉数の集落を背に部隊は文字どおりの死闘を繰り広げ多くの軍人がここで命を散らされたのです。黄前命もその中の一人でした。
この嘉数高地は現代では公園が整備され、両軍の戦没兵と現地で戦闘に巻き込まれた住人の御霊を慰める為、世界平和を願う地球を模した展望台が作られています。
旗の提供者である米国ニューメキシコ州在住のロバート・ヤング氏のお父様、エルマー・ヤング氏もまた米陸軍兵士としてこの地で従軍されました。氏の記録からこの地で玉砕した日本軍部隊の様子や、黄前典夫命の最後の姿が明らかになりました。返還式ではその様子をご遺族へお伝えし、当時エルマー氏が母国へ持ち帰り77年間大切に保管されていた「黄前典夫 命」の所持品を返還させて頂きました。
返還式には日本遺族会から重井主幹が、京都府遺族会からは吉里副会長はじめ、伊藤女性部長、梅原青年部長、宮津市遺族会や与謝郡遺族連合会からは山口会長と江原会長、そして丹後広域振興局上原副局長、与謝野町からは山添町長と参列して頂きました。そして何よりも多くの府内戦没者のご遺族たちが会場へ駆けつけてくれました。50名以上の関係者に見守られ遺霊品は「OBON」から「日本遺族会」へそして「与謝野町長」からご遺族の「黄前国忠さん(長男)」と「山本洋子さん(長女)」へと手渡されました。兵士「黄前典夫命」が銃後に残した子供たちが時を超えて父親との魂の再会を果たされました。
返還を受けご遺族の黄前国忠さんは「こんな日が来るとは夢にも思っていなかった。旗に父や祖父の名を見てからどうしたって涙が止まりません。署名を残した叔父(御年90)にも見せてあげたいです。米国のヤングさん、OBONソサエティや遺族会の皆さん本当にありがとうございました」と涙をハンカチで拭いながらお話してくださいました。会場の皆様もその場に自身の戦没した肉親を想い涙されていました。京都府遺族会の吉里副会長は式の後に「黄前さん同様感激の1日でした。家に帰るまで親父と一緒でした」とメッセージを寄せられました。参議院議員で日本遺族会の水落敏栄会長からは「この返還式を契機として世界の恒久平和実現への思いがたくさんの皆様の心にともることを祈念します」とお手紙を頂きました。
この返還式が多くの方々の胸に平和の大切さや先人たちの尊い犠牲の上に今の私たちがある事を今一度思い出させてくれた事は本当に有意義であったと感じています。OBONソサエティは今後も日本遺族会、各都道府県や支部遺族会、そして厚労省と協力して1枚でも多くの寄せ書き日の丸や兵士の残した手紙や遺霊品をご遺族や所縁の地に返還し、この平和が戦火によって二度と侵されないように後世に語り継いでいかれるように活動していきたいと思っております。黄前典夫命の遺霊品はこれらの日章旗、仏画入れ、煙草入れの他に「銃剣」があります。これは銃刀法などの制約で今回の返還式には米国から持ち込むことが出来ませんでしたが現在所定の手続きを始めましたので暫くの後に同じくご遺族への返還が叶う事と思います。その時はまたご報告できればと思います。
最後に捜索にご協力くださった皆様、返還式開催に向けて尽力くださった皆様にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございます。
そしてご遺族様、この度の遺霊品返還 誠におめでとうございます。
返還式の後に京都霊山護国神社へ赴き、戦没者の遺霊品を無事にご遺族へ返還出来たご報告と、大戦で散華された多くのご英霊に哀悼の誠を捧げて来ました。