もの言う牧師のエッセー 再投稿
第316話「 宗教改革500周年 」
1517年10月31日、後の宗教改革の発端となった「95カ条の論題」をマルティン・ルターがドイツ東部のウィッテンベルク城教会の扉に張り出し、免罪符販売を痛烈に批判しローマ・カトリック教会に挑戦状を叩きつけてから500周年を迎えた。ネオ・ナチなど極右が台頭し、反イスラム・反移民の排外主義が巻き起こる欧州だが、メルケル首相や新旧両教会の代表が同地に集まり、宗教改革500年の式典が行われ、「寛容こそ欧州の魂」などと多様性の尊重を謳い上げたが、何やらぎこちなく見える。
周知のとおり宗教改革400年を迎えた100年前は第一次大戦の真っ最中であった。ドイツは仏露との戦争をカトリックやロシア正教の国との闘争に置き換え、ルターの事績を戦意高揚に利用し、ウィッテンベルク城教会の扉もそのころ修復され“論題“も刻まれたという。そしてその約20年後、今度はヒトラーがルターの著作を利用し国を挙げてユダヤ人を迫害した。
これらの事実は、宗教とは、せいぜいそれに属する人々の充実に寄与する程度のもので、皮肉にも何も改革できない事実を露呈していると言えよう。
新約聖書で最も古いとされる書簡には宗教がどうあるべきか明白に書かれている。
「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、
孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、
この世から自分をきよく守ることです。」
ヤコブの手紙1章27節。
執筆者のヤコブはイエスの”異父兄弟”であることもあり、「神が愛である」ことや、「人を愛する」ことをイエスから度々聞かされていたことが推察されるいっぽう、始まったばかりの当時の教会がすでに学問や社会正義を云々するだけのサロンと化しつつあった事実が透けて見える。もし何かを改革したければ、まず「十字架にかかったイエス」の前にへりくだり、彼に罪を告白し、聖霊を心に迎え、神によって己の内側から変えてもらう以外ない。そうすれば世界が動き出す。 2017-12-30