3年ほど前、私たちは弥生時代から土師時代に移る、4世紀初めの土器について、いろいろな角度から話し合っていた。考古学徒にとって、ある文化から次の文化に移る時期の土器は、きわめて重要な研究課題だが、この時期の土器は、とりわけ重要なものに思われた。
というのは―北関東では、弥生時代後期の土器はすでに発見されている。宇都宮市・二軒屋遺跡から出上した土器をモデルとして、「二軒屋式」と呼ばれているものがそれ。
一方、「五領式土器」と呼ばれる土師時代最古の土器もみつかっている。しかし、2つの時代をつなぐ移行期の土器だけが、発見されていなかった。「幻の土器」と私たちは呼んでいた。
問題は尽きなかったが、「これまでに出土している県内外の土器を再吟味しながら、あせらずにじっくり考えよう」というのが、そのときの結論だった。
ところが、48年に、真岡市・井頭遺跡を調査していた大金が、住居跡から弥生土器の伝統を残した古い形式の土師器の破片をみつけた。塙は土器をみて狂喜乱舞した。土器を指さす大金の手もふるえ、興奮のあまりことばが出なかった。
近くで働いていたおばさんたちは、2人の気違いじみた喜びように首をかしげたに違いない。だが、私たちにとって、その土器の破片は、まさに捜し求めていたもの、弥生時代と土師時代の接点を知る貴重な遺物だった。
井頭遺跡からは「二軒屋式土器」も出上している。2つの異なった文化を示す土器が一緒に出土したわけだ。
「移行期をさぐる糸口がつかめた」「台付きかめ、つば、高つきなど、いろいろな種類があるはずだ」「これらをセットで発見できれば……」と、私たちの話ははずんだ。
私たちは、幻の土器をセットで発見することに躍起になった。
私たちはこの年芳賀郡芳賀町教委の主催で、同町西水沼の谷近台にある古墳を掘ることになった。
古墳と周湟=みぞ=を調べていると、周湟の外側から、土師時代の住居跡が発見された。そこから掘り出された数片の土器をみて、私たちは心が騒ぐのを抑えることができなかった。弥生土器の伝統を残した古い形式の土師器の破片だったからだ。
発掘が進むにつれ、古式土師器の台付きがめ、つば高つき、器台などが、ぞくぞくセットで出土した。
―「おれたちは五領式土器だが、弥生時代の土器の文様も部分的に残しておいた。器の形は前の時代のものを踏襲したから、よく調べてくれ」。土器は私たちに、こう語りかけているように思えた。
調査補助員の学生たちに、私たちは「本県では未解決の2つの文化の接点が、これらの土器で一挙に解決できそうだ。調査が完全にすむまで口外するな」と、いい含めた。見学者によって、現場が荒らされるのを恐れたからだ。
谷近台遺跡の土器から、私たちは次のような推論を立てている。
―東海地方東部、南関東で盛んに行われた弥生土器文化が、弥生時代の最末期に本県に波及。いままでの二軒屋式土器文化を駆逐して主流を占めた。この「外来土器」が土師器に移行したのではないか。
土器の形は、弥生時代末期のものと、ほとんど変わっていない。こういった「弥生土器的な古式土師器」は、いままで発見されなかった。今度の発見で、土着の二軒屋式土器文化が、外来の新しい土器文化によって駆逐された、という、これまでの仮説が立証されるだろう。
「幻の土器」はみつかった。土器は文化を知るモノサシではある。しかし、この土器だけからでは、当時の社会生活を復元することはできない。集落の全ぼうと、近年話題をよんでいる、埋葬の仕方などを追及するために、どうしても遺跡の第二次調査を実施したいと私たちは念願している。
それにしても、この3年間の私たちの生活は、まるで「凶悪犯を捜査する刑事」のようだった。「幻の土器」を求めて、県内外を歩き回った。
そして皮肉にも、古墳発掘という〝別件〟で「幻の土器」を〝逮捕〟、未解決の分野を解明した。
この間、休日返上も珍しくなかった。塙は「山か海に連れて行って」という子どもの頼みを振り切って、発掘現場に出かけたし、大金は発掘開始の前日に、母親が大手術したが、看病もせずに現場にとどまった。
全く無責任な話だが、私たちは「自分の子どもには考古学はやらせたくないね」と、話し合った。
だが、考古学という学問は面白い。遺跡や遺物を対象に、未知の文化を追及するのだから、仮説、推理といったものが、なかば許される。仮説や推理を学問的に裏付け、体系化する「考古学の妙味」にひかれて、私たちはまた、遺跡や遺物を求めて、歩き回ることだろう。
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