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栃木県の歴史散歩

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直韋堤(那須国造)の墓を探る

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 那須国造(くにのみやつこ) 「直韋提」(あたいいで)。直が姓、韋提が名。いま風にいえば「那須県知事」に当たるこの人物が死んだのは文武天皇4年(700)正月2日辰の時刻(午前8時ごろ)である。
 「あ、そう」なんて簡単に思われては困るのである。1200年以上前の、地方の一豪族の名前から死亡時刻までわかっている、というのは実に珍しいのだから。
 高松塚古墳の主をめぐる論議が盛んだが、主のはっきりしている古墳は、天皇陵を除けば、ほとんどないといってもいい。というのも、実在の人物の名前が伝わっていないためである。とくに地方では、古墳時代の文献は皆盤いに近い。
 そういった現状の中で韋提の名が残っているのは「那須国造碑」と呼ばれる石碑が残っていたため。それは当時の住民が韋提の善政をたとえ、死をいたんで建てたもので、大学の考古学の授業には、最初に出てくる貴重な資料だ。
 碑文からみて、韋提の生きていた時期は7世紀末とみる。この時期、大和飛鳥の地では伝来の仏教文化が開花、国家統一の機運がみなぎっていた。が、地方ではまだ盛んに古墳が造られていた。
 本県も例外ではない。切り石を使った巨大な石室を持った古墳が多く、下都賀郡壬生町の車塚がその好例県内の古墳の9割以上が6世紀以降に築造されたといってもいい。
 とすると、那須国(韋提在世中に下野国那須郡)の為政者、韋提も古墳に埋葬された可能性は極めて大きい。韋提の古墳はどれか?
 それを考えてみよう、というのが本稿のねらいだ。
 遺跡の分布状態からみて、那須国の中心は那珂川と箒川の合流点付近、現在の那須郡小川町、湯津上村付近といえる。この地域に点在する主な古墳の築造年代を検討してみると(裏付け経過は割愛)―。
 6世紀末から7世紀にかけて造られたとみられる古墳は銭室塚(円墳、那須郡黒羽町)。以下いずれも前方後円墳の小舟戸1号墳、富士山古墳(以上湯津上村)、川崎古墳(馬頭町)、梅曽大塚墳(小川町)などである。
 一方、各地の実例からみて、国造に関係の深い地域には、しばしば古墳群や寺の遺跡が残っている。そこで小川町にある7世紀末建立といわれる浄法寺廃寺と南隣の那須官衛(かんが=役所)跡が問題になる。後者は昭和42、3年に調査され、出土した古がわらなどから七世紀末以後のもの、と推定できる。
 つまりこの地区が、7世紀末以降、那須郡の官庁街だったのである。従って韋提は、ここで政務をとっていた、と考えられよう。韋提の墓も、この付近にあった、と考えるのが妥当だろう。
 地理的にも、時間的にも「直韋提」の墳墓とみられるのは―最右翼は官街跡の北東の近距離にある梅曽大塚古墳だろう。
 もっとも、那珂川との合流点に近い等川右岸の台地にあった同古墳は、開田工事でくずされ、現在はみることができないが、工事に先立つ昭和39年、発堀調査が行われ、2つの横穴式石室が確認されている。
 長さ約50m、周浬=みぞ=を持ったものだった(「小川町文化財要覧」より)
 ちなみに百済(くだら)様式をとどめる浄法寺廃寺のかわらは、7世紀末という時期では、幾内はともかく、地方では非常に類例が少ない。しかし、この寺のことは、わが国の文献のどこにも発見できない。
 同じころ、建立された下野薬師寺が、国立の寺として、「六国史」などの文献にしばしば登場するのと比べると、極めて異質だ。ともあれ、この古い寺の存在は、ユニークな古墳文化を築き上げた那須国勢力が、中央の仏教文化をすみやかに受け入れたことを示している。また、わが国の仏教文化の地方への普及を物語るものでもあろう。
 韋提について語るとき、どうしても触れなければならないのは、江戸時代に、韋提の古墳を探そうとした人がいたことである。水戸藩主、徳川光圀(水戸黄門)がそれだ。
 延宝4年(1676)。磐城の僧円順が彼の地を訪れ、多年草に埋もれていた古碑を見つけ、梅平村の大金重貞にそのことを話した。
 重貞は馬頭村(当時は水戸藩)に視察にきた光圀にこの古碑について報告した。光圀は「昔の君長の墓碑であるから大事にしなければならない。その修理と保存の費用は藩が負担する」と命じた。同時に藩の学者佐々宗淳に古碑の詳細を調査させ、修理、保存をする一方、近くに古墳があるのを見て、碑文の正確な資料をつかむため、元禄5年(1692)上下車塚(侍塚)の発堀調査を行った。
 しかし、鏡などの出土品はあったが、墓主を語る文字などは発見できなかったため、出土品を松板の箱に納め、再び元の位置に埋め戻した。わが国における最初の学術発掘であり、現在にまさる保護理念である。
 光圀が発掘させた侍塚と梅曽大塚古墳は、だいぶ離れており、古碑のあった地点との位置関係が問題になる。が、この地区には「古碑を何度も移転させた」という伝説があり、こんごの解決が待たれる。
 ともかく那須国造碑は、わが国金石文史上の優品であり、現在笠石神社の祭神として、手厚く保護され、年間の拝観者も多いという。

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