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栃木県の歴史散歩

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畿内の諸大寺に準ずる格式

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 下野薬師寺の瓦が律令時代当時の〝中央〟に当たる「畿内」にあった溝口廃寺(兵庫県)のものと同じ文様を持っているほか平城宮とも極めて類似していることを明らかにした。今回はさらに考察を進め、互いに遠く離れた寺の間になぜこのような関係が生まれたかを解き明かした。その結果、平城宮―下野薬師寺―溝口寺の順で瓦工が移動、あるいは瓦に文様をつける笵型が運ばれたと想像され、薬師寺そのものの建立に中央官人組織が強く働いていたことがうかがわれる。
 型笵がどこで所有(管理)されているかは、同笵(同じ文様)現象を解明するに重要なことであるばかりでなく、特に瓦工集団の組織、性格を追究するための基本的問題である。所有関係については、Ⓐ瓦工集団が所有し、瓦工の移動によって笵も移動する。Ⓑ 一方の寺院が所有し、他の寺院に貸与する、Ⓒ中央の官の造瓦所(窯場)で所有し、寺院の造色にあたる造寺司に貸与する―の3点が一般的に論じられている。下野薬師寺と溝口廃寺の同笵関係については、どの関係にあてはまるか。
 下野薬師寺と溝口廃寺の距離は直線にしても約750キロ。不幸にして、両寺とも造瓦所が明確となっていない。ところで両寺が造瓦所を共有し、瓦の運搬によって供給を受けたと仮定すれば、遠隔の2寺に極めて密接な関係を想定しなければならない。しかし、他の資料からもこのことを立証するのは困難であり、やはり別個の造瓦所の存在を想定するのが妥当であろう。そこで笵型の移動を想定しなければならない。
 下野薬師寺(A)と溝口廃寺(B)の瓦の製造時期は、笵割れの大小により、下野薬師寺が先であることは前回に述べた。従って笵型の移動もA→Bの流れとなる。
 さらに笵型の所有関係について、検討すると、まず文献的には当時、職人の規律を定めた「賦役令」、丁匠赴役条によれば、作具は自ら備えるとあるし、造瓦司関係の史料や観世音寺資財帳の記載には、瓦工の私的な所有物でなく、公的機関によって管理されたとする見解がみられる。
 しかし、実際には時期によっても異なるだろうが例えば国分寺造営などにより、各地に瓦の大量生産が必要になった場合、瓦の文様や造瓦技術の上でも各地で格差がみられ、中央の管理が十分行き届いていない。だから、作具についても中央管理の面からだけでは解決できない点もある。いずれにしても歴史的には2通りの場合があったことを前提に含みながら、問題の同笵瓦について考えてみよう。
 下野薬師寺の性格については、文献によってその創建時に関して諸説があるが、創建時の瓦に大和川原寺様式を伴うことに立脚すれば、天武朝(672-686)年間、あるいはそれに近い年代に求めることができる。
 川原寺様式の瓦の全国的分布は、壬申の乱に功績のあった地域と一致する。当時の地方寺院は、律令体制の確立を目指す対地方政策の一環として次々に建立された。対東国支配を目的とした下野薬師寺も、九州、太宰府の観世音寺と東国の戒壇を保持、幾内の諸大寺に準ずる格式を与えられ歴史的な頂頭を迎える。
 その薬師寺に「造司工」という官の組織が少なくとも天平5年(733)以前に設置されていたことが「正倉院文書」の中にうかがえる。造司工そのものが造瓦に直接関係したものではないにしても、造寺に関して京都・三条に住む「子首」という人が司工として派遣されている。
 すでに79歳という高齢に達していることを考慮すれば、それ以前に子首が中央官人として中央組織の中に活躍していたことも考えられよう。下野薬師寺の造寺が中央との密接な関係があったこともうかがうことができ、薬師寺の官寺としての性格が推定される。
 下野薬師寺202型式の瓦が、平城宮6682型式に極めて類似するものであり、それが彼の地で神亀末年(729)―天平末年(749)に求められていることを前回に述べたが、このことは下野薬師寺においても、それに近い年代に求め得ることを可能にするものであろう。
 平城宮において、この瓦と製作年代が接近する他の瓦があり、それが6682型の瓦と同様な関係で下野薬師寺203三型式となって当地にもたらされている。これらのことは平城宮という中央の造瓦組織と下野薬師寺のそれが極めて密接な関係にあることを示すものであろう。
 さらに薬師寺の瓦が平城宮との比較において、その造瓦時期は「正倉院文書」における下野薬師寺寺造司工の記載時期に近い。このことは両寺宮の密接な関係をさらに強く導き出せるものであり、下野薬師寺の造瓦における範型が、中央官人によってもたらされたものである可能性も強くする。
 そして、下野薬師寺と播磨国溝口廃寺の瓦が別個の造瓦所で製作されたと考えるなら、下野薬師寺で使用後、笵型が再び750キロの道程を戻っていったものであろう。この移動にも中央官人が関係していたことを考えなければならない。
 この地方の瓦の分布をみれば、202型式の瓦は下野薬師寺に限定され、そこには段状の顎の存在しかみられない。それに比べ、同じ時期に製作が開始されたと考えられる203型式の瓦は、宇都宮市の水道山瓦窯と同笵関係にあり、段顎と曲線顎の双方がみられ、出土する瓦の量も多い。またあとになって、近在の寺院の瓦にこの203型式の文様が実に多くの影響を与えている。
 つまり、下野において202型式のが実に短命なのに対し、同じ瓦工集団によって製作されたであろう203型式の瓦は前者が去った後も、下野の地にとどまり、引き続き製作が続けられ、その優美な唐草の文様はやがて付近の諸寺(国分寺、同尼寺、上神主廃寺、多功廃寺、那須官衛、下総結城廃寺)の屋根を飾るのである。
 国分寺以前に建立される寺院は畿内およびその周辺に多く、地方寺院、特に東国においては極めて限定された地域となる。しかも、このように遠距離に同笵瓦が発見されることは唯一の例であり、当時の地方寺院の造瓦組織の多くがそうであったと明言できる資料は少なく、実際の資料操作の面で今後に期する部分が多い。

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