古代の下野の歴史については、考古学や歴史学によって史実が明らかにされ、きわめて実証的に、また科学的に、古代の世界が描かれている。この間にあってさまざまに伝えられる口碑伝説は、虚と実を混じえながら、自由奔放に空想の彼方にまで羽ばたく。いまから十数年前、氏家町の郷土史家で、すでに故人となられた土屋喜四郎翁が、次のような話を語ってくれた。
古代の下野は、蝦夷のすみかだった。蝦夷はしだいに北方に追払われたが、平安時代のはじめ、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって蝦夷を征伐し、陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)にあった鎮守府を、さらに北進させて胆沢城(岩手県水沢市) に移した。
これは有名な史実だが、蝦夷征伐に際して田村麻呂は、これより蝦夷地との境である下野国で、蝦夷征伐の戦勝祈願をこめ、はるばる都から木波多神社をこの地に勧請し、 一つの神社を建てた。これがいま矢板市にある木幡神社だという。
ところでこの時、将軍は近くにある塩釜神社に一人の美しい娘がいるのを見て、ぜひもらい受けたいと思った。だが、あまりに身分が違うので、ひとまず娘を足利学校の創立者である小野篁に預け、養女として小野姓を名乗らせると同時に、諸芸を修得させてから都に迎え入れた。この人が、のちに六歌仙のうちに数えられた女流歌人の小野小町だという。
翁の話はさらに続く。小町がはじめて貴族の社交場に登場したとき、彼女の生れが卑しいことを聞いていた雲上人たちは、小町の歌の巧みさに驚いて、これは小町が古歌を盗んで、自作と偽っているのではないかと疑った。
その時、小町は紙の墨を洗い落して、いま書いたばかりの自作の歌であることを証明したという。これは草紙洗小町の伝説とよく似ている。
小町に関する伝説は数えきれないほどあるが、その多くは、小町が落ちぶれてさすらう悲話。下野にも下都賀郡岩舟町小野寺に小町塚や小町が身を投けたという身投げ淵がある。翁の話は、絶世の美女小町が野州人である、と主張する意想外の説話で、話がこの段に及んだとき、翁の語気が強まったように感じられた。
小野小町については、古今集の仮名序に、紀貫之が彼女の歌を「あはれなるようにて、つよからず。いはば、よきをうな(女)の、なやめるところあるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし」と評している。この才色ともに備わった小町の生没年代はわからない。
ただ、小町伝説は「通小町」や「卒都婆小町」などの謡曲をはじめ、浄瑠璃にも仕組まれて広く流布した。鎌倉時代にも御所で絵合(えあわせ・絵を出しあって優劣を競う遊び)が行われたとき、幕府の政所(まんどころ)別当大江広元が「小野小町一期盛衰事」を描いた絵を献じた、と吾妻鏡にある。
小町の実在性に関して、学者の説は「神に奉仕する職を伝えていた小野氏のコマチ、すなわち巫女」であり「歌物語を得意とした巫女が廻国して土着した」のだろうという。つまり、小町は特定人物を指す固有名詞ではなく、並日通名詞であるというのだが、下野の小町伝説も、この説に符合する点があるように思える。
古代の伝承は、これを事実の報告としてみると、滑稽で不合理に満ちていよう。しかし「草木のみなよくもの云うことあり(日本書紀)」と信じた古代人によって生み出されたさまざまな伝承は、人びとの素朴な心に刻みこまれ、今日まで語り継がれてきた。
下町の小町伝説が、いつの時代に生れたかは知らないが、ふるさとの伝説を語ってくれた古老の、温かいまなざしがいまも脳裏に焼きついている。
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