応仁の大乱以降、諸大名の悲願とするところは、戦勝による領国の取得のみにあったといえる。そのため、戦闘に際して出兵、撤兵などの用兵上の機会を見いだすことは切実な問題だった。こうした時に重んじられたのが卜筮(ぼくぜい)であった。卜筮とは簡単にいえば〝占い〟である。
人間には、ものごとに取り組むにあたって、たとえば決行する日がふさわしいかどうか、未来の吉凶をどうしても知りたい、予測したいという願望がある。このことはいっそう占いを発達させることになったのだろう。
中世武家社会にあっては武将は一軍の統率と士気の鼓舞のため、日の吉凶を占い、これによって行動を決める場合が少なくなかった。その占いの結果が吉と出れば勇躍して進撃の下知(げじ)をなしたことはいうまでもない。しかし、もし凶と出た場合はどうなのか。日が悪いと、進攻を見合わす武将もいたが、ほとんどが凶であることを隠し、吉であると告げ、出兵したのではないだろうか。凶であることを兵に知らせることは、一軍の士気を失い合戦に支障をきたすことにもなりかねない。
だが、単に凶であることを隠しただけでは、心もとない。吉であることの理由づけをして、一軍の士気を高めてから行動をおこした。武家政治の創始者である源頼朝について興味深い話がある。治承4年(1180)10月27日、源頼朝は高倉宮以仁王の令旨(りょうじ=仰せ)を奉じて常陸の佐竹秀義の征伐に向かおうとした。ところが、陰陽師に日の吉凶の占いを仰いだところ、進発10月27日は、凶に当たるという。しかし、頼朝は、半年前の同じ「27日」に以仁王からの令旨が届いている。この日は源家再興の吉日である、とした。そんな理由をつけて出発を敢行したところに武将源頼朝の面日、躍如たるものがある。
足利市昌平町に残る遺跡が国指定の史跡であり、鎌倉初期に創設され、中世では唯一の学校施設だった。「足利学校」は、この卜筮ときわめて深い関係があった。足利学校での教育は、漢字を中心としたものであったが、特に易学に重点がおかれていた。それは関東管領の上杉憲実が永享11年(1439)に学校を再興後、校長として当時の易学の権威者、快元を招いていることからも理解できる。
したがって、諸国から集まった多数の学徒の目的も実用的な卜筮にあった。その結果、足利学校の出身者は、卜筮の権威者と認められた。戦国時代、諸大名に仕えた人物は、かなりの数にのぼったことだろう。
このように鎌倉時代以降、武将は卜筮によって合戦の日の吉凶を見、また好機を敏感に見分け出兵させるという戦法を採用した。この両方を上手に用いることができた人物こそ名将であった。そこで当時の武将は卜筮を必要とすると同時に兵書の講義をうけることも重要であることを知り、この両方に優れた者を側近に仕えさせた。
南北朝以降、室町に至ると禅僧がもっぱら、この任にあたった。禅僧は武家の子弟教育にあたる一方、軍事顧間をも兼ねるようになった。やがて、武将の出陣に際して軍隊に加わり、武将の側近にあって「陣僧」と呼ばれるようになった。「使僧」として敵陣に向かう場合もあった。僧形をしていたので中立の立場を示すのによろこばれたわけである。
だが、次第に卜筮に拘泥しない傾向が現れてくる。その理由は実戦の体験の積み重ねによる戦術の向上や禅僧などによる兵書の講読などによるものであろう。
江戸時代、足利学校では年頭に際して徳川幕府に年筮(一年の吉凶を占ったもの)を献じていたが、このことは前代、戦国時代の学校の活動の名残をとどめるものであったのだろう。
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