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- 鉄仏と宇都宮氏の関係を探る 鉄への信頼と鎌倉仏教の影響?
鉄仏―鋳型の中に高熱で溶解した鋳物鉄を流しこんで造った仏像をいう。仕上がりの見ばえは余りよいとはいえない。しかし、いかにも素朴で、どっしりと重要感にあふれた姿は、何ともいえない。現在、関東地方で、所在を確認されている鉄仏は約30体ある。これらの鉄仏は、大部分が13世紀中ごろから14世紀初めの鎌倉時代にかけて造られた中世の産物である。この鉄仏類は最近、ようやく彫刻史の上で注日され、研究が進められ、関心も高まってぃる。埼玉県立博物館で「関東の鉄仏展」が開催されたことは、そのあらわれとみてよい。
この特別展に出品されたのは、ほとんど関東の鉄仏だった。本県からの出品もあった。下野の鉄仏については、栃木県文化功労賞を受賞された野中退蔵氏の労作「下野の仏像」に取りあげられている。これらの鉄仏は、まことに幸いなことに、銘文によってその仏像の造立時期、造立者がわかっている。
中世、下野の豪族宇都宮氏についてはすでにこの欄で紹介したが、本稿では宇都宮氏と鉄仏の関係について紹介してみようと思う。
まず、宇都宮二荒神社の宝物として伝えられる鉄造の「狛犬」(こまいぬ)がある。これは、いわゆる鉄仏ではないが、鉄仏と同質のものである。
狛犬といっても、ほかのように、唐獅子ではなく和犬である。両耳をたれ四肢(し)をそろえてすわっている。その手法は、稚拙な感じを与えるものだ。左前足が欠けている。左側面に陽鋳銘(銘文が陰刻でなく地よりも高くあらわれているもの)があり、「建治3年(1277)4月日、吉田直連施入」とみえる。
この「吉田某」なる人物が、一体どういう人物だったのかは、はっきりしない。二荒山神社の神官だったのか、宇都宮氏の被官だったのか。いずれにせよ、同神社と大変ゆかりの深い人物だったろう。
次に宇都宮市清水町、清厳寺の「鉄塔婆」について紹介しよう。
この鉄塔婆は、板石塔婆(板碑)と同じ形をしたもので、上部に梵(ぼん)字の「キリーク」、その下に雲に阿弥陀仏、下部には4行28字の偶(げ)と4行79字の銘、ならびに年紀などが陽鋳されている。
銘文に見える「孝子某」を幕末期下野芳賀の国学者河野守弘は、彼の労作「下野国誌」の中で、「宇都宮旧記」によるとして宇都宮景綱の子貞綱だとしている。亡母の十三回忌に造った塔婆だ、という。
貞綱はモンゴル軍が、わが国を三度目に襲った事件=弘安の役に多くの軍勢を率いて九州筑前に下向したが、到着した時はすでにモンゴル軍撤退のあとだったという。貞綱は九州で警戒防備にあたったという。
この塔婆は、もと同市釈迦堂町の東勝寺にあったものである。この寺は宇都宮貞綱が建立したが、宇都宮氏没落とともに廃寺となり、塔婆は清厳寺に移された。清厳寺は、宇都宮氏の腹心の部下だった芳賀氏の建立である。
ところで、宇都宮氏は弘安6年(1283)に、一族の統制強化を目的とした「宇都宮家弘安式条」を定めた。この年に造られた鉄仏が塩谷郡喜連川町の専念寺で発見されている。阿弥陀如来立像で、全身に火災にあった跡が認められる。
筆者は前掲の野中氏の著書で、この鉄仏の存在を知り、知人にさそわれて同寺を訪ねた。そして背銘「奉読誦阿弥陀経百巻、弘安六年癸未十月□□ (2字不明)」を確認したときの感激を忘れることができない。宇都宮氏とゆかりの深いものではないかと思えてならなかったからである。
宇都宮頼綱の弟朝業は、塩谷郡川崎に住み、塩谷氏の祖となった。この喜連川あたりも、宇都宮氏の支族塩谷氏の支配下にあったと考えられている。しかも、宇都宮氏は浄土教に深く帰依している。頼綱自身、法名を蓮生といい、法然の弟子証空に熱心に師事しており、朝業は法名を信生といい仏門に入っている。従って背銘に「奉読誦阿弥陀経百巻」と見えるのは、この浄土信仰を示す、数少ない在地の史料といえる。
上都賀郡西方村の西方薬師堂の薬師如来坐像も、貴重な鉄仏の一つである。銘文が背面中央と左肩に陽鋳されており、部分的に漆箔(うるしはく)の跡がある。年紀銘は、前掲の狛犬と同じ建治3年である。
勧進僧(寺院の建立・修復あるいは仏像の造立などのため信者や有志を勧誘して、その費用を奉納させるために尽力する僧)や鋳物師(いもじ)の名前のほかに「四郎入道」「源藤三入道」などという名も刻まれている。いずれも、この地方に勢力をはっていた武士ではないだろうか。
この地域にはのちに、宇都宮景綱の孫、綱景が館をかまえ、西方十余郷を領し、西方氏の祖となった。宇都宮氏と関係の深い地域だったといえる。
鹿沼市上石川の北犬飼薬師堂の薬師如来坐像は、銘のある県内の鉄仏としては最古の作品である。背面に陽鋳銘があり、建保六年(1218)という年紀銘を認める。
いかにも素朴というか、稚拙な感じが漂っているが誇れる鉄仏である。銘文には「大旦那藤原則安」「大工坂本某」のほかに「紀氏」を名乗る者が2人刻まれている。宇都宮氏の腹心の臣に、紀氏(益子氏)がいるが、この鉄仏に見える紀氏も、宇都宮氏と関係の深い紀氏ではないだろうか。
以上、推測の域を出ないところもあるが、あながち否定できない点もある。特に下野の鉄仏には、多くの在地武士と思われる人名を見いださせる。筆者は宇都宮氏の一族か被官と考えたい。中世、下野の有力武士の代表である宇都宮氏が、浄土宗に代表される新興仏教に影響を受け、こうした鉄仏を造ったのではないだろうか。
下野には、天明釜で有名な佐野天明宿があり、多くの鋳物師たちが住んでいた。おそらく鉄仏の多くは、地元の天明の鋳物師たちによって造られたものだろう。
わが国の歴史で、鉄の文化といえば、ただちに「日本刀」が思い浮かぶ。鉄という永久不変なものへの信頼が、新興階層である武士たちの人気を集めて、こうした鉄製の仏像が造られたのだろう。鉄はサビに弱いので、腐食して、朽ちはててしまった鉄仏も、かなりあったのではないかと思う。
(執筆にあたって野中退蔵著「下野の仏像」埼玉県立博物館編「関東の鉄仏」を参照した)
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