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栃木県の歴史散歩

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戦国武士と文芸 中央の歌人と積極的に接触

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 戦国乱世の時代にあっても武士のなかには学問研究や文芸活動に保護、育成の手を染めた者も決して少なくない。周防の大内氏、駿河の今川氏、能登の畠山氏、若狭の武田氏などの守護大名の例は、特に有名である。下野でも山上、壬生、小山各氏らが連歌を中心に中央の歌人と接触し、文芸に意欲を燃やした。
 駿河生まれで、連歌師として著名な柴屋軒(さいおくけん)宗長の紀行文「東路の津登(つと)」によれば、永正6年(1509)8月の中ごろ、宗長は下野の佐野に到着し、山上氏(筑前守)の館に滞在し、連歌会(れんがえ)を催している。山上氏は、佐野氏の一族である。この折、筑前の子と思われる音丸という幼少ながらも連歌に心得のある者が参会している。宗長はさらに、佐野泰綱の亭において連歌会を開いており泰綱の父、秀綱は、このことに感激している。
 宗長は佐野をあとにして壬生へと足を向けた。これに同行したのが、佐野氏の家臣である横手刑部少輔繁世である。壬生には壬生綱房の亭を訪ねた。歌名所として聞こえた室八島を見学してから鹿沼へ行き、綱房の父、綱重を訪ね、綱重と共にさらに日光山へと向かっている。その帰りには再び佐野へ立ち寄り、足利の鑁阿寺(ばんなじ) へ詣で連歌会を催している。横手氏は、この座にも出席し「必ず駿府を尋ねたい」旨を話した。これに対し、宗長は「我庵はうつの山べの松にほふ蔦のはとづる谷の細道」と、詠い教えている。横手氏も連歌に関心があったようである。このように、佐野氏とその家臣に積極的に文芸を学びとる態度があったことが指摘される。
 しかし、とりわけ注目できるのは宗長と壬生綱重との交渉であろう。宗長は横手繁世に伴われて壬生へ行き、連歌を催し壬生綱房と会っている。室の八島をへて、さらに鹿沼に足を進め、綱房の父である綱重の館に一泊し一路、日光山へと向かった。日光では、座禅院で連歌を催している。ついで大平山へ向かい、般若寺に一泊、連歌を催している。翌日、綱重は宗長と別れている。この間、壬生綱重は、ずっと宗長と同道しいるのである。
 両人は非常に別れを惜しみ、「六十(むそじ)あまり全(おな)じふたつの行末は君が為めにぞ身をもおしまん」と詠んでいる。綱重は「壬生系図」によれば、大水3年(1523)に76歳で没している。したがって、永正6年(1509)には62歳という老境であった。宗長もまた61歳という老齢に達していた。宗長の綱重に対する心遣いが感じられる。
 彼らが下野を遊歴したのは、季節的にみると台風のシーズンであった。日光から、宇都宮をへて壬生、大平山へ至る道中は「雨風吹出」「きぬ(鬼怒)川、中(那珂)川などいう大河とも洪水」をし、「雨風に簑も笠もたまらず」、時折、雷鳴さえ轟きき、雨は「車軸の如」き有り様であったという。こうした悪天候を両人は、ものともせず旅している。
 宗長が連歌の師匠である飯尾宗祇に倣って諸国遊歴の旅に出たことは有名な話であるが、それにもまして驚くのは壬生綱重のとった態度である。そこには「連歌」に対する地方武士の強い希求の念を見いだすことができる。そればかりではない。「此頃、那須と鉾楯(ほうじゅん)すること出きて合戦、度々に及べり」と宗長は見聞のさまを記している。これは宇都宮氏と那須氏の反目・抗争を示している。戦乱も風雨をも意に介せず、宗長に同道した壬生綱重は下野の戦国期にあって確かに異彩であろう。
 壬生綱重にくらべて小山政長や、山上宗閑の場合はきわめて強引な態度である。室町時代の屈指の学識家で歌人でもある三条西実隆の日記「実隆公記」によれば、享禄元年(1528)9月6日、易僧の葉雪が京都の実隆邸を訪ね、小山政長の連歌に付句合点を求めてきた。「頻(しき)りと所望」(原漢文)とあるところから、実際はよほど執拗に感じたらしい。しかし結果的には実隆の方が折れて、その求めに応じている。
 続いて政長は享禄5年(1532)6月19日に連歌師宗牧を仲介者として実隆の発句を所望している。実隆は清書して与えている。政長は、よほどうれしかったものとみえ、同月23日、再び宗牧を仲介者として発句のお礼として沈香(じんこう=じんちょうげ科の常縁喬木で香料として使用)を贈り届けさせている。
 また「実隆公記」享禄5年3月8日条によれば三条西実隆は前月末に請われた「詠歌大概」一冊を山上筑前の子である宗閑に与えている。この書物は、藤原定家の著した歌論書であり、彼の歌論中、最も重んじられたものである。したがって三条西実隆自身、この書物を珍重していたことは想像できる。
 宗閑が「一詠歌大概」に眼をつけたのは、その価値について熟知していたからかも知れない。政長といい、宗閑といい、両者は優劣をつけられぬほどの強引ぶりである。実隆は決して快くは思わなかったであろう。けれども、その強引さのなかに下野武士の激しい文化意欲というものを感ぜずにはおれないのである。

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