「那須の金山」開発の名ごり 江戸初期に採掘の記録
Aug
21
半信半疑のまま付近をたずね歩いてみると、確かに石臼がある。神社の境内や民家の庭先などに、注意しなければほとんど気がつかぬように置かれてある。通常のものよりひとまわり大きく、上下の摺りあわさる面は激しくえぐられでもしたかのように摺り減っている。
最近家を改築されたお宅では。改築前の家の土台にこの石臼が使われていた。その家は元禄時代に建てられたものだという。とすると、この石臼は元禄以前のものであるに違いない。しかし本当に金採集のために使われたものであろうか。その日は、その事実をとても信じられぬまま帰宅した。
それから数日過ぎたある日、なにげなく「水府志料」(江戸時代に著わされた常陸国の地誌)を読んでいると、意外な記述にぶつかった。同書の久慈郡、那須郡の各所に、江戸初期に行われた金鉱山の開発の事実と、それに関連した遺跡、遺物の存在が記されており、先日、須賀川で見聞してきたのと全く同様のことがらであった。
同史料にもとづいて考えてみると、金山開発は八溝山ろくを中心に、常陸国との境に沿って、佐竹氏の時代はもとより、その後の水戸、黒羽両藩の時代にかけても行われていたと思われる。
近世大名による金山開発は、通常元禄期ごろまでがその盛期であり、その後はどこでも技術的に行詰り、衰えてしまう。現在県内に残る史料のうちには、この地方の金山開発を裏付ける史料はないものであろうか。江戸時代初期の史料は少ない。ことに那須地方ではごくまれである。果してあるだろうか。
旧小口村梅平(現在の馬頭町)出身の大金久左衛門重貞は、著書「那須記」を通じて広く知られているが、この重貞の自伝である「重昭童依調年記」(重貞は晩年に重昭を名のる)の中に、江戸初期の水戸藩による金山開発の記録があった。
同書によると、重貞31歳の時、大山田に新たに金山が発見された。万治3年(1660)のことである。水戸藩の役人の命によって金の採掘が始められ、間もなく大山田の八郎右衛門、小日の大金久左衛門重貞ら4人が「金掘り支配」を仰付けられ、各人に給米として7石二人扶持が与えられた。彼らのほかに、金掘り人足あわせて5、60人がことにあたったという。
後日、馬頭町小日に現在も名家として残る大金家をおたずねした。もしやと思って捜すうちに、庭の松の木陰に、いつか須賀川で見たのと同様の石臼を発見し、ようやく那須地方における金山開発の史実を信じる気持になれた。
これを端緒として、那須地方と金との関係はようやく明らかになってきた。金山の開発は近世初期に一時盛期を経験したが、その後は衰え、幕末に殖産興業的立場から再び注目された。
ことに黒羽藩はさかんに開発を試みたがうまくいかず、本当の活況をもたらしたのは、技術的に進歩した大正、昭和になってからであり、それもごく短期間にすぎなかった。盛時には、これにより巨利を得た人もいたとか。
これらの金山開発に先んじて、那須では古くから砂金の採集も行われていたと考えられる。「続日本後紀」承和2年(835)の条の
下野国武茂ノ神ニ従五位下ヲ授ケ奉、コノ神沙金採之山ニ坐 の文を引用するまでもなく、現在でも武茂川、押川の流域には砂金採集の遺跡が「小金沢」「金洗沢」などの地名とともに点在しており、その折使われた各種の道具類も民家に所蔵されている。
夏も終りに近いある日、私たちは昔実際に砂金採りをした人の案内で「大尽沢」の異名を持つ清流深く踏入った。切るように冷たい水につかりながら、昔とったきねづかで、あざやかな手さばきを見せる老人の方法は、紛れもなく古代以来、連綿と伝えられてきた「ねこながし」であった。
あふことは絶えて那すのゆりかねや心ばかりはちちにくたけと(下野歌枕)
と歌にまでうたわれた那須の金の姿が、いま私たちの日の当りにあった。
注 佐竹氏は中世以来の常陸の大豪族であり、義重以来、常陸、下野に大勢を占め、慶長7年(1602)出羽へ転封されるまでは、佐竹義宜が常陸、下野に計54万石を領した。