益子陣屋 黒羽藩飛地領支配トリデ
Sep
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その中で、この陣屋跡だけが静かな武家屋敷風のただずまいを残している。今の建物は明治になって建替えられた民家ではあるが、一豪壮な門と板の腰をつけた白壁が長くつらなっている有様はいかにも陣屋跡のふん囲気にふさわしい。
那須郡北部に中世以来の家系を保っていた大田原、黒羽の両藩は、那須郡の領地のほかに、芳賀郡内にそれぞれ4000石(大田原)、5000石(黒羽)の飛地領を持ち、この支配のため、祖母井と益子にそれぞれ地方(じかた)役人の出張陣屋を置いていた。
益子は慶長7年(1602)、大羽、深沢、生田目、清水などの村とともに、黒羽藩主大関資増(すけます)の私領となり、以後明治に至るまで、その統治下におかれた。
黒羽藩の益子陣屋は、内町から城内を経て西明寺のある高館山のふもとへと続く盆地の入口あたり、丘陵地帯の先端に位置している。ここは中世の豪族益子氏が、かつてその居城を構えた所と伝えられ、丘陵の起伏を巧みに利用した土塁や空濠(からぼり)が今も残っている。
陣屋に常駐した役人は、決して多くはなかったであろうが、郡代を筆頭に郷奉行、代官、蔵奉行、山奉行宰領、升取りなどの地方役人が黒羽から派遣され、現地の家格ある者のうちから選んだ下役を指揮して、下之庄(黒羽藩領のうち芳賀郡内の村々)の統治にあたった。
かれら陣屋役人の一年間の仕事内容をおおまかに紹介すれば、陣屋が藩当局より担わされていた任務を理解するに便利であろう。
元日に陣屋で、年頭のご祝儀が行われる。陣屋の下役をはじめ、益子町五組(新町、内町、城内、道祖土、石浪) の名主、そのほか生田目、清水など領内6カ村の名主、組頭が年頭のあいさつに集る。7日には、郡代以下数人がはるばる黒羽まで登り、殿様に年頭のあいさつをすませる。
2月には、毎年かならず「宗門人別改」(現在の戸籍調査)が行われる。黒羽から派遣された役人と陣屋役人1人が立会い、名主に命じて村ごとの調査をさせる。最後に、その宗門の坊さんを陣屋に呼んで「宗門帳」に証明の押印をさせる。
3月は、領内各村ごとに、困窮人調べが実施される演(つぶ)れ百姓を出さぬようにと、貧窮者には秋までの期限で、種モミを貸付ける。また、用水堰の普請もこの時期にかならずやっておくよう、名主に念をいれさせなければならない。
農繁期を前に、4月からは下役の郷廻りが村々の巡回を始め、一軒一軒の百姓に、農作業の督励をする。
田植えは5月に行われる。役人の巡回はいよいよひんばんになる。名主も忙しい。この多忙のなかで、5日には端午のお祝いが陣屋で行われ、名主一同そろってごあいさつする。
「夏成」(畑年貢の一つ)は6月を収納期として納めさせる。6月から7月は、農閑期で比較的ひまがある。しかし、逆にこのときに博奕などの遊興にふける者がふえるので、郷村廻りの役人は油断できない。8月は「秋成」の上納期である。
9月には、そろそろ早稲の収穫が始り、本年貢も一部上納される。いよいよ、もっとも多忙な季節となる。
10月初旬から稲の収穫が本格化する。陣屋から役人が2人ずつ各村の名主の屋敷へ出張し、年貢の取立てが行われる。年貢の収納は、11月下旬までに全部、完了しなければならない。役人も百姓も、もっとも緊張するのがこの時期である。年貢に不満を持つ百姓の騒動も、この時期に起きやすい。
役人や名主は、心をくだいて無難にこの時期を乗越えようとする。役人にとっては腕のふるいどころである。
芳賀郡内の領地は、黒羽から遠く離れた飛地であり、古くから治めるのにむずかしいところとされた。陣屋勤めは黒羽藩士にとって、その能力をみられる試金石であり、郡代や郷奉行の職は、昇進のための登竜門でもあった。