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流産したあかちゃんを直接、見たことはありますか?
妊娠初期に、テレビモニターを通して、
いつもその成長状態を見ていたと思いますが、
不幸にも、流産に終わったとき、
麻酔下で流産手術を受け、
いつの間にか、子宮内が空っぽになっている・・・。
流産した赤ちゃんは、ご本人に確認されることなく、
ホルマリン液に保存され、
病理組織検査に提出されたと思います。
できれば、その赤ちゃんの組織を見せてもらってください。
赤ちゃんの胎盤組織である絨毛は、
まっ白で、まるで、天使の羽のようですよ。
赤ちゃんの形はわかりませんが、
赤ちゃんは、その
ビ ロ ー ド の よ う な 天 使 の 羽
に包まれていたのです。
こちらでは、流産後、ご夫婦に確認して、
ご希望があれば、
いつでも、お見せしています。
そうすることで、
バーチャルな世界から、現実を実感できるからです。
現実を直視することで、
流産した赤ちゃんは、
あなたの
記 憶 の 中 で 生 き 続 け ら れ る
と思います。
流産手術後の悲しみのなかで、
ある患者さんは、その流産組織を見て、
「白くてキレイ。天使の羽みたい。」
とおっしゃっていました。
不育症の患者さんの多くが手足の冷えを訴えられています。
また、頑固な肩こりや肌荒れも同時によく訴えられます。
時には、朝が何か憂うつで、
夜には元気になってくるということも言われます。
そのような場合、
(潜在性)甲状腺機能低下症が疑われます。
甲状腺機能は物質代謝を促す(新陳代謝を良くする)
という重要な働きを担っています。
しかし、その機能低下があったとしても、
上記のような、
ある意味、だれにでも多少ありそうな症状のため、
その異常は見逃されやすいのです。
この病気は、加齢とともにその頻度は増加し、
女性に多く出現しています。
潜在性甲状腺機能低下の頻度は、約4〜8%
と報告されています。
甲状腺機能低下は、
子宮内の新陳代謝の低下でもありますので、
不妊症のみならず、
不育症の大きな原因のひとつなのです。
子 宮 が 冷 え て い る とイメージしてみてください。
子宮内の赤ちゃんには決して良くありません。
さらに、重要なポイントは、
妊娠初期(12週まで)の母体の甲状腺機能低下は
潜在性であっても、
児 の 知 能 低 下
と関連していることが、
1999年の世界で最も権威のある医学誌
(N Engl J Med 1999; 341: 549-555)
に報告されて以来、
全妊婦を対象にスクリーニング検査すべきか否か
について、現在も、議論されているという点です。
2002年に発表された米国産婦人科学会のガイドラインと、
2007年に発表された北米内分泌学会のガイドラインでは、
症 状 (冷 え 症 等) や
既 往 症 がある妊婦さんに限って
甲状腺機能スクリーニングを行うことを勧めています。
不妊症あるいは不育症の患者さんであれば、
一般の婦人に比べて、甲状腺機能低下の頻度は高いので、
潜在性も含めて、
精査と治療が必要と思います。
また、ご本人の脳の新陳代謝にも影響していますので、
甲状腺機能低下と気分障害(不安、抑うつ等)との
密接な関係は、以前より指摘されています。
「連続して2回流産しました。私は不育症でしょうか?」
「ひとり正常出産していますが、その後に流産をくりかえしています。
このようなケースは稀なことなのでしょうか?
このようなケースも不育症になるのでしょうか?」
「妊娠反応陽性後に、すぐに流産してしまう化学的流産は、
流産回数にカウントしないのでしょうか?
化学的流産も含めて、2回以上流産していれば、
不育症になるのでしょうか?」
「2回の流産の場合、不育症の検査をして、
原因がなかった場合(見つからなかった場合)、
不育症ではないのでしょうか?」
以上のようなご相談をよく受けています。
私の見解は、
「21.不育症の医学的定義」
で説明した根拠により、
すべて、
「不育症です。」
と、お答えしています。
ただし、実際的には、
上記の経験が、ご本人にとって、
「辛 く て、医 療 の 助 け を 希 望 し て い る」
と判断された場合です。
流産をくりかえして、助けを求めている人に対しては、
身体的な検査結果のみで診るのではなく、
その人の精神的状態と社会的因子を診て、
その上で、
流産危険因子(原因と原因らしき因子)
を、できるだけ多く、
示してあげるべきと考えています。
身体的な一般的検査のみで、
「原因がないから、次の妊娠は大丈夫です」
と説明されても、
その人が、
本当に大丈夫と考えていいのかな?
原因が見つからなかっただけではないのかな?
と、
その検査結果の説明後でも、以前と変わらずに、
次の妊娠が怖い、
何か不安、納得できない、
何かイライラする
等の精神的不安因子が解消されていなければ、
不育症とそのご本人自身への治療としては、
不十分なものになると思います。
一方、流産をくりかえされていても、
その事実をそのまま受け止めて、
あくまでも自然体の状態で、
赤ちゃんを待っていられれば、
不育症としての検査の必要性は低いと思います。
「青木産婦人科クリニックのホームページ」の
「不育症について」のなかで、
「3.2回流産後の次回流産率は36〜44%です。」
と解説しありますように、
精神面が安定していれば、
その後の妊娠に対して、無検査、無治療であっても、
妊娠維持成功率は、
56〜64% と推測されます。
不育症の医学的定義をご存知ですか?
関連する医学用語のなかで、はっきりしている定義は、
日本産科婦人科学会の統一見解として、1981年に発表された、
「連続3回以上の自然流産を繰り返した場合を習慣流産という。」
というものだけです。
医学界の付随した定義として、
「連続2回の自然流産を繰り返した場合は、反復流産という。」
とされています。
「不育症」という医学用語は、
私の知るかぎりでは、
1990年ごろより、徐々に使われてきていると思います。
「不妊症」と対比して考えたとき、
一般の人から見ても、
「不育症」として大きくまとめたほうが
わかりやすい
と考えるようになってきたからだと思います。
実際に、私も1983年より、
流産、習慣流産、反復流産についての論文を書いてきていますが、
「不育症」という医学用語についての論文は、
1990年が最初です。
その最初の論文では、
「不育症とは、流産あるいは死産をくり返すために、
生児を得られぬ病態のことであるが、
妊娠24週未満の分娩にかぎられる反復流産あるいは
習慣流産の病態と多くの部分で重複している。」
と記載されています。
1993年の論文では、
「不育症とは一般的に、妊娠は成立するが流産・死産を
くり返すことにより、生児の得られない病態を意味し、
反復流産・習慣流産と同義語として使用されている。」
と記載されています。
わかりやすく解説すると、
「不育症とは、反復流産と習慣流産を含んでいて、
それ以外に、
妊娠24週以降の(反復する)死産も含んでいる。」
と定義されると考えられます。
〜3人の我が子にありがとう〜
35週6日、少量の出血があり、
子宮口は2〜3cm開いている。
いよいよかな?
しかし、1週間くらい、おしるしが続く人もいるらしいから、
すぐに陣痛が来るわけでもなさそうだ。
36週0日、
生理痛のような痛みとお腹の張り、
前駆陣痛かもしれないと言われていたが、
夜になり、痛みが増してきた為、
これは陣痛なのでは?と思い始め、
機械でお腹の張りの間隔を見てもらおうと、
ナースコールをする。
念の為に、夫に電話をいれる。
「 陣痛かどうか分からないけど、病院にきてくれる? 」
陣痛室に入り、子宮口を見てもらうと、
なんと7cmも開いている。
自分でもびっくり。
やっぱり陣痛だったんだ。
その後は、あっという間に痛みが増して、分娩室へ。
後に、喜びが待っている痛みなのだから、
「 痛い 」
という言葉は口に出さないようにしたいと思っていたが、
ちょっと無理だった。
助産師さんが、
「 そうだね。痛いよね。 」
なんて言ってくれるから、余計と甘えて出てしまう。
「 痛い! 」
「 オギャー! 」
大きな声が、分娩室に響き渡った。
初めて聞く我が子の声。
白い脂で包まれた生まれたばかりの赤ちゃんを
胸に乗せてもらう。
これこれ、赤ちゃんの臭い。
病室に戻り、一睡もしていなかったのに、
頭が冴えて眠れない。
亡くなった2人の子供のことばかり思い出され、
声がもれないように
必死に抑えて 泣 い た。
元気に生まれた赤ちゃんを見て、
亡 く し た 命 の 大 き さ に、
改めて気付かされた。
「 苦節何年、この赤ちゃんは宝物だね。 」、
「 今まで色々あったから可愛いでしょ。 」
というような事をよく言われるが、
私にとっては、
3 人 と も 同 じ く ら い 可 愛 く て、
宝 物 だ と 思 っ て い る。
流産、死産は悲しい出来事だし、
もう2度と経験したくないが、
だからと言って、
自分は不幸だとは思っていない。
今の自分があるのは、
子供達のおかげだと思っている。
2人の子供に教えてもらった大切な事を、
生まれてきた新しい命に伝えていきたい。
終わり。
〜3人の我が子にありがとう〜
不育症の検査も終わり、治療方針も決まった。
そして、3人目の赤ちゃんが
私のお腹の中にやって来てくれた。
妊娠が判明し即入院。
フラグミンの24時間点滴が始まった。
週2回ある内診の日は、いつも緊張と不安で一杯だった。
内診台にあがり、
エコー画面を見る先生の表情をちらりと伺う。
「 なんだかいつもと様子が違う? 」
「 難しそうな顔をしている? 」
妄想が広がって、
「 今回は残念だったね。 」
そんなフレーズが頭を過ぎる。
私の不安を察するかのように、
先生は、画面をみて第一声、
「 赤ちゃん元気だよ。 」
と言ってくれた。
よかったー。
安心して小さな手足を動かす赤ちゃんを見ることが出来た。
入院中は、他の不育症患者の方とも親しくなれた。
不安な気持ちを言い合うだけで、
自分だけじゃないんだと気持ちも楽になった。
妊娠後期になり、お腹が頻繁に張るようになった。
切迫早産で、再び入院となった。
2人目の子をウテメリン内服して2日目で死産した為、
ウテメリンに対してとても恐怖心を抱いていた。
点滴が刺され、
お腹に機械をつけて張りと赤ちゃんの心拍数を計っていく。
ふと、心拍が途切れた。
サーッと血の気がひいて、
急いでナースコールを押す。
「 赤ちゃんが動いて、機械から外れてしまったんだよ。 」
そう聞いて、ホッとした。
ウテメリンが直接死産につながった訳ではないと、
先生に説明してもらったが、
それでも不安は消えなかった。
朝夕のドップラーも、私には恐怖だった。
お腹の上で何度も位置を変えながら、
心音を探していたあの時の様子が、
トラウマになって思い出される。
毎朝、胎動を確かめる。
うん、動いてる大丈夫。
次の朝、今日も元気だ、
よかった。
絶対無事に生まれてくる。
そんな未来が分かっていたら、
もっと楽しく
お腹の赤ちゃんと毎日を過ごすことができるのに、
お母さんは
いつも、いつも、心配ばかりしていてごめんね。
私の中に赤ちゃんを入れておくことが、
赤ちゃんの命取りになるような気がして、
切迫早産で入院しておきながら、
1日でも早くお腹から出てきて欲しいと願っていた。
私は、赤ちゃんのことを第一に優先して
元気なうちに取り出してほしいと、帝王切開を希望した。
先生と話し合って、ウテメリンをはずして、
38週0日までに自然に陣痛がつかなければ、
帝王切開をすることになった。
今までは、
陣痛促進剤を使っての分娩しかしたことがなかったので、
自分の体の力でおこる陣痛はどんなものなのだろうかと、
興味もあった。
「 オギャー。 」
なんて産声を聞いたら、感動するんだろうな。
〜3人の我が子にありがとう〜
毎朝、基礎体温を測るのが日課となった。
昔から酷い生理不順だったのが、
1人目を流産した後から、
だんだん定期的に生理が来るようになり、
2人目を死産した後は
基礎体温のグラフも高低きれいに描けるようになり、
決まって生理も来るようになった。
それを先生に話した所、
「 それは、赤ちゃんのおかげだよ。
赤ちゃんがお腹にいたから、
子宮内の環境がよくなったんだよ。 」
というような説明をしてもらった。
「 子供達は笑うことも泣くこともなく、
短い一生を終えてしまったのに、
私は、また、新しい命を望み、幸せになっても良いのだろうか 」
と、
亡くなった子供達に対して、
なんだか申し訳ないような気がしていた。
しかし、先生の話を聞いて、
「 いつの日か私が、
赤ちゃんを抱くことが出来るように、
体を整えてくれていたんだ 」
と思えるようになり、
子供たちに対して、また一つ、
「 ありがとう 」 が増えた。
〜3人の我が子にありがとう〜
そんな時、
「 不育症 」 という言葉を知り、
青木先生を知る事となった。
妊娠初期での流産を繰り返すという人は多くいても、
私のように中期、後期で・・・
という人にはなかなか出会えず、
原因はあるのか治療は出来るものなのかと
不安になっていた。
そして、私の疑問や不安を青木先生にメールで送ってみた。
翌日、まさかこんなに早く返事を頂けるとは思っていなかった。
「 死産された胎児は男の子でしたか?
女の子でしたか?
名前は付けられましたか?
今は十分に供養してあげることが何よりです。
自分を責めてはいけません。
誰に対しても責めないで下さい。
あなたの赤ちゃんは、
あなたの子宮の中で精一杯生きたのですから。 」
「 まだ、若いから。 」
今まで死産をした病院では、
そんな言葉くらいしかかけてもらえなかった。
若いなら、赤ちゃんが死んでしまっても大丈夫なの?
死んだら、また、次に産めばいいというものなの?
青木先生から、亡くなった赤ちゃんに対する言葉をもらい、
すごく嬉しくて、涙が出て仕方なかった。
真っ暗闇の中に、光が差した様だった。
〜3人の我が子にありがとう〜
退院後、
私は自分の気持ちを分かってくれる人はいないかと、
救いを求めるようにインターネットで
同じ境遇にあった方を探した。
そして、死産を経験された方が
辛い気持ちになった時に思い出す、
あるお坊さんの言葉として
紹介されていた文章に私も救われた。
「 人間は、この世に生を受ける時、
神様からこう問われるそうです。
あなたは、この両親の子として
生まれても○○才までしか生きられないが、
それでもいいですか?
この問いに、 イエス と答えた命が
この世に誕生します・・・ 」
そんな内容だった。
「 子供たちは、
少 し の 間 で も い い か ら、
私達のもとへ来たかったんだ。 」
そう思えた瞬間、ふと気持ちが楽になった。
「 あの時こうしていたら、ああしていたら、
死なずに済んだんじゃないか 」
そんな思いでいてはいけない。
自分達の命と引き換えに、
子供達は、
大切なことを色々教えてくれた。
それまでは、
妊娠=出産 だと当たり前のように思っていたが、
命はすごく尊いもので、
そんな当たり前のものではないのだと分かった。
辛い日々の中で、
本当の人の優しさに気付くことができた。
たくさんの事を私に残してくれた。
お母さんの所へ来てくれて本当にありがとう。
そう感謝し、
子供達の運命を素直に受け止めることが
一番の供養になるんじゃないか、
そう思えるようになった。
〜3人の我が子にありがとう〜
1年後、
子供が欲しいとずっと願っていたのに、
いざ高温層が続くととても複雑な気持ちになった。
妊娠しているのか早く知りたい。
でも、それを知ってしまったら、
また、赤ちゃんが死んでしまうのではないか
という 恐 怖 心 と毎日戦っていかなくてはならない。
そんな気持ちが交錯していた。
複雑な思いを胸に検査薬の判定は 「 陽性 」。
手が震えた。
ある日、
妊娠した事を友人に伝えた。
「 うわぁー、よかったね。 」
「 でも、また前みたいな事になるんじゃないかって不安で・・・。 」
「 えー!そんな事思っていちゃ駄目だよ。 」
ひどい言葉を言われた訳でもないのに、
涙が溢れそうになった。
私の不安な気持ちは、認めてもらえないんだ。
昔からの友人であっても同じ経験をした人でないと、
気持ちは理解してもらえないのだろうか?
それからは他人の言葉で傷つくのを恐れ、
夫と自分の両親以外には妊娠を報告することができなかった。
今回は、大きな総合病院を受診する事にした。
健診の前日から、緊張と不安で一杯になり、
病院に着いて血圧を測るといつもより高く、
心拍数も100を超え、
まるで運動した後のように心臓がドキドキしていた。
それでも、なんとか無事に週数を重ねていった。
妊娠30週。
前日、寝る前には、お腹を力強く蹴っていた胎動が
朝になってみると全く感じられない。
昼頃になり、病院へ電話を入れた。
日曜だったが、ちょうど主治医が当直で、すぐに病院に駆けつけた。
エコーで様子を確認する先生の肩がガクッと落ちた。
「 どうして。心臓が止まっている。えー、なんで、どうして。 」
私も、あれだけ毎日元気に動いていた子が、
今日はピクリともしないという事が異常なことだと分かっていたが、
現実を受け入れたくなくて、
「 本当ですか?本当なんですか? 」と、
何度も聞き返した。
あまりにも悲しい事実を突きつけられ、涙も出なかった。
これ以上、
お腹に赤ちゃんを入れておくことも出来ない為、
子宮口を広げる処置がとられ、
翌日、陣痛促進剤を投与された。
「 産 み の 苦 し み 」というけれど、
後に喜びが待っていない苦しみは、
どう乗り越えたらいいのだろうか。
私は、1人目の子をこの目でみてあげられなかった事を
後悔していた。
だから、今回は、
この手で赤ちゃんを抱きたいと思っていた。
分娩台にタオルで包まれた赤ちゃんが連れてこられた。
私にそっくり。
まるで眠っているかのようだった。
お腹にいた時のように話しかけ、
決して忘れないように瞼に焼き付けた。
夫が涙を流していた。
初めてみる涙だった。
子供が死んでしまったと知った時、
自分も一緒に
死にたかった。
けれど、子供の姿を見て、
「 命を無駄にしてはいけない。
この子が経験できなかった喜びも、苦しみも、
全て、私が引き受けて生きていかなければならない 」。
そんな風に思え、夫にも話し、また2人で涙を流した。
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