左は武蔵が「五輪の書」の四年前(1641)に著述した「兵法三十五箇條」より抜粋。右の「五輪の書」(1645)からのは、これを下敷きに推敲したものと思われる。推敲の過程が極意を汲む手掛かりとなりそう。(出典:武術叢書 大正4年 国書刊行会復刻版)
「五輪の書」、宮本武蔵の残した二天一流の皆伝書。近年は剣術だけでなく企業の経営理念にも当てはまるとして外国語にも訳され広く読まれるようになった。他の武術書の解説なども読んで思うのだが、解説を試みる以上、其々の道で名人と呼ばれるような方が書いておられるのだが、訳者の解釈の違いで原書が伝えようとする所とは違っているように思えるものもある。
ここでは武術としての技術的な皆伝である「水の巻」より「目付け」の事という部分を抜粋し原文を掲載したので参照されたい。
武蔵は「目付け」目の付け方には「見の眼」と「観の眼」があり、大事なのは「観の眼」ではあり日常的にも「観の眼」で見るようにと言っています。普通に私達がモノを見るという行為では、目標に焦点を合わせるという事が無意識に行われます。これが「見の眼」です。これは最新カメラの何十倍もの速度で行われています。問題はこの焦点の合わされた部分外の視界が認識されないという事です。 “遠くを近く見、近くを遠く見ろ”とは、周囲も含めて全てを見ろと言う事でしょう。白内障などで水晶体を摘出して挿入されるのは固定焦点レンズですから焦点合わせの機能は無くなり、近くから遠くまで焦点が合っていますが、物理的には全てに焦点が合っていても「見の眼」の目で見ようとする意思が働いていますから「観の眼」にはなりません。「観の眼」とは見る眼ではなく観える眼なのです。
この「観の眼」だが、速読法の「フォトリーディング」が使うソフトアイと呼ぶ技法に近い。普通に言う視力、静止したモノを識別する解像力の「静止視力」や、動いているモノを 識別する「動体視力」(左右の動き、前後の動き)とは違うものです。
いわゆる「無念無想」(思考を止めて自我を消す)になれると「目付け」は自ずと「観の眼」になります。これは全てに対応できる自然体になることでもあります。同時に自分から攻撃に出る(先をとる)という事も出来ません。攻撃には「見の眼」とならざるを得ないですから。武道の本旨とは、「死を覚悟し相打ちを本懐とする」ことに尽きるのかも知れません。
ここでやっと表題の「イチロー選手」ですが、私は、彼は今でも“4割”を打てると思っています。絶頂期の同選手の「動体視力」は抜群のものだったのでしょうが、戦列を離れる前に三振などが増えたのは、他の身体能力が若い選手に劣らず、技術的には神技と言われるまでに鍛練されていますから視力(見方)だけが課題でしょう。ボールが投手の手を離れてホームプレートに届くには約0.4秒かかります。短いと言えば短いが、好調の時には充分に長く感じられた筈です。メジャーリーガーでもボールが投手の手を離れた瞬間からスイングを開始するようですが、ボールのよく見える時は充分に引き込んで(後半の0.2秒で)調節できるようです。イチロー選手の場合、最後の0.1秒での調節も出来ていたように思えます。武蔵なら、今のイチロー選手に“ボールを見るのを止めろ!「観の眼」で観ろ”と言うのではないでしょうか。「観の眼」で0.2秒に球質とコースを、次ぎの0.2秒を「見の眼」で変化を。「観の眼」から「見の眼」への切り替えは瞬時です。名選手は好調時にはボールが止まったように縫い目まで見えたと言っていますが、本当でしょう。イチロー選手には彼の言葉のように、“50歳で4割を打って引退”して欲しいですね。
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