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無明残日抄

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日本の顔?

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2004年4月北米報知掲載。

…日本の顔を知ってもらう…

 男の右手に銀色のものが光った‥ナイフだ。 しかしナイフの冷たい光りより私を襲ったのは男の言葉の方だった。慣れた手つきでブレードを開閉してみせながら男は言った…「このナイフは日本製、凄く切れる。ジャップの身体も良く刻めるぞ」と…。連れの男はかなり酔っているが、この男の眼は酔っていない…。パイオニアスクエアのビルの前で同僚を待っている間の出来事だった。男は最初から私が日本人であると見極めて罵声を浴びせてきた。日頃から東洋人との接触が多くないと中国人、日本人、韓国人の見分けはつけにくい。身なりは悪くない。気に入らないボスが日本人だったのだろうか?‥それとも日系の会社を首にでもなったのだろうか?…。日本人を侮辱する雑言を吐き続ける男を見つめながら私は考えていた…。 彼我の距離は武道で云う攻撃間合い、つまりいずれかが一歩踏み込んで手足や武器が互いに届く距離である。幸いナイフの刃わたりは小さいし不意打ちの心配は無い。アメリカに住むようになって数十年、こういう場面は初めてではない。血気盛んだった頃なら挑発にのって相手を懲らしめてやろうとしていただろう。懲らしめというのは相手に反省の機会を与え同じ過ちを繰り返させないということだが、たとえこの場で彼を屈服させても日本人への憎しみは消えはしないだろうし、むしろ憎しみを増し、次の機会にはもっと弱い相手を狙って鬱憤をはらそうとするだけだろう…。そう考えながらも、私を困惑させ応対を躊躇させたのは、ナイフを見せびらかす男の態度だった。そこには質の高い物(日本製)への尊敬?…とそれを所持することの誇りのようなものさえ感じられたからだ。同じようなことは、日本製の車が欲しいばかりに、運転していた日本人が襲われたというニュースを聞いた時にも感じた。どこかが間違っている。一体どこが間違っているのだろう。物に対して価値を認める同じ気持ちが、何故それを作った民族や国には向けられないのだろうか? …何の反応も見せない私に拍子抜けがしたのか、男は連れの男に袖を引かれ、捨て台詞を残して去っていった。
 日本の企業は質の高さを売り物にアメリカはもとより世界に市場を拡げてきた。その価値を疑うものはいないのに、何故、日本はすぐ攻撃の対象にされジャパンバッシングが起きるのだろうか。それは物を作った人間の存在が見えないからではないだろうか。人間の不在とは、文化の不在と言い換える事も出来る。カラオケで歌い、寿司を食い、日本製の電化製品に囲まれ、日本製の車を運転していても、そこには日本の文化は無い。これが戦後60年近く日本がしてきた日米交流の成果なのだ。大衆にとって、自分もまた同じ立場にあったらと同感できる顔がそこに見えない限り、容易に煽動に踊らされバッシングは起きる。もしも今、あなたやあなたの会社が大衆の攻撃に曝され、政治家も役人も学識者も警察でさえも頼れない時、金では買えない彼等自身の意志であなたの側に立ってくれると確信できるアメリカ人の友人知人があなたには何人いますか? …たとえ友人知人でなくとも、あなたに並んで立ってくれる普通のアメリカ人が一人でも増えてくれる様、私は今年も桜祭を手伝いにいこうと思います。…日本の顔をもっと知ってもらう為に
#ブログ #文化

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太鼓パイオニア

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2002年11月北米報知掲載。

 ずぅーん、ずぅーん‥‥。ずうん‥でもなければズーン‥でもない。欅の大木をくりぬいた大太鼓の音と響きに、太古から眠っていた祖先の血が騒いだのか、得も言われぬ震えが背筋を駆け昇る‥‥。 実はこれ過日ベナロヤホールに於ける「鼓童」演奏会での経験ではない。23年前の1979年、シアトル桜祭に於いて「鼓童」の前身である初代「鬼太鼓座」の生演奏を初めて聴いた時の感動である。
 和太鼓というと「鼓童」や現在の「ザ・鬼太鼓座」に代表される組太鼓と思われがちだが、この組太鼓の形は古くからあったものではない。現在の組太鼓の形式は戦後の民族芸能復活の中で「御諏訪太鼓」創設者小口太八師が古来の演奏法をオーケストラ的に組み合わせものを初とするのが定説のようだ。この組太鼓が世界に日本音楽の代名詞ともなる今日の礎を築いたのが、田耕(でん・たがやす)氏であった。早大時代、学生運動の闘士だった氏が学生運動に挫折放浪の中、和太鼓に出会い急成長の社会から落ちこぼれた青年達と共同生活で新潟県佐渡に「鬼太鼓座」を作ったのが1968年頃、そして1975年、その成果をアメリカ、ボストンマラソンにて女子を含む座員全員が完走後、ただちに舞台に駆けあがり大太鼓の演奏という衝撃的デビューで飾るのである。この年からボストンマラソンには連続して出場。その帰途79年、80年とシアトル桜祭に参加する。83年の桜祭には天野宣師指導の山梨県航空学校生徒の「雄飛太鼓」参加。これらの公演がシアトルの音楽青年達に与えた影響は現在、七組もの太鼓グループの活躍で計り知れよう。1979年は文字通りシアトルにとっては太鼓元年だったのである。79年の「鬼太鼓座」シアトル公演に関して隠れた逸話がある。シアトル桜祭は当時、日米協会の主催だったのだが、「鬼太鼓座」というのは、どうも共産主義者の集まりらしい、そのような団体を後援するのはいかがなものかという意見が出たのである。共産主義者というのは田氏の前歴に言及してのことだが、いまだ東西冷戦の只中のことで、今なら笑い話しになるのだが。もちろん取り越し苦労であった事は言うまでもない。
 世界各地での興行の成功でスターとなった青年達に自立の気持ちが芽生えたのは当然のこととはいえ田氏の考えとに溝を生ずる結果となる。自ら育てた若者に道を譲り、田氏は佐渡を去り九州の地で第二の「鬼太鼓座」を作ることとなり、佐渡のグループは「鼓童」という洗練されたプロ集団として成長、今日に至る。そして独立したメンバーからは、一流ソロ太鼓奏者の林英哲などが出るのである。分裂の際の確執はあろうが、源を一つとする両団体が互いの存在を無視するかのような昨今の態度は発祥を知るものとしては残念な気がしてならない。
 田氏は一時期、シアトルに事務所を置いていたことがある。森口富雄氏の子息タイラー君が「鬼太鼓座」にスタッフとして加わっていた縁もあっての事だが、その頃「鬼太鼓座」の公演を日本館劇場でした際が田氏と話した最後だった。しばらく前に森口氏から田氏の健康が優れない由をうかがった事があったが、又の再会を楽しみにしていた。氏が昨年四月、合宿地である富士の裾野の近辺で交通事故により亡くなられた事を知ったのは最近である。享年69才だっだ。
 はじめてのシアトル公演の時、わずかな出演料でホームステイ自炊の青年達を不憫と思ったのか、後援者の方が日本料理店に招待して下さったのだが、気がつくと全員が左手に箸を持っているのである。全員が左利きというのも妙ときいてみると、太鼓に両手を均等に使えるよう普段から食事は左手を使うようにしているとの答えである。けっしてパブリシテーをねらった行為でないことは特別のこととは考えていない様な彼等の言動で明らかだった。彼等はうまく演奏しようとは考えていなかったろう。走り抜いて鍛えた身体から溢れるエネルギーの全てを太鼓にぶつけていたのが彼等の演奏だった。
 あれから20年以上が過ぎている。今のシアトルの太鼓グループのメンバーの多くは生まれてもいないのである。
 田耕(でん・たがやす)本名:田尻耕三。その名の通り田さんは田を耕し続けてきた。彼の後ろで田は世界に広がり新しい稲穂が次々と実るのを、歓喜する客席の後で壁に張り付くようにして静かに見つめる氏を、私は今日も太鼓演奏会場に見るのである。
#ブログ #芸能

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日本館劇場の灯

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2002年2月北米報知誌掲載。

「消えるか?日本館劇場の灯」
瑤曲、琴、三味線の音が九十数年を経た壁に響渡る。去る一月二十六日、日本館劇場に於ける“お正月”で「日本館劇場伝統保存会」主催による“日本芸能シリーズ”も二十周年を迎えた。最も主催者にとっては二十周年を祝うというより辛うじて辿り着いたといった感じの方が正直な気持ち。誤解が多いようなので始めに断わっておくが、日本館劇場を含む「神戸パークビルデング」は某企業の所有であり、「日本館劇場伝統保存会」は賃貸料を支払って同劇場を借りるクライエントの一つにすぎない。
 「日本館」の建立は1909年(明治42年)に遡る。以来1942年の日系人強制収容による閉鎖まで日系コミュニテーの中心として数々の催しに使われてきたことは、ロビーに飾られている写真パネルからも窺い知れる。催しは日本芸能にかぎらず政治演説会や、今やベナロヤホールを本拠とするシアトルシンフォニーもこの劇場で演奏したことがある。上記の写真パネルの一つ(1925年付)には、戦前の日本がおくりだした世界的オペラ歌手“三浦 環”(みうらたまき)の姿もある。しかし最も特筆に値するのは、かって舞台正面に緞帳(どんちょう)として掛けられていた広告幕だろう。ここには六十数年前の日系人社会が凍結して見る者の前にある。年配者には日本の銭湯を思いおこさせる広告の中には当時のシアトルの銭湯の名もみうけられる。今、この中で残っているのは「まねき」と「肥後十仙(ひごテンセントストア」だけだが、中央にはシアトルの風雲児、古屋政次郎の起こした戦後日本の総合商社のモデルともいえる「古屋商店」、そして米国銀行に門を閉ざされた移民の為に設立した「東洋銀行」。その他広告費滞納の為か白く塗りつぶされた部分があるのもおもしろい。
 戦後、収容所から戻った日系人にも忘れられ廃虚と化していた建物の中に日系人達が置き捨てていった歴史の爪痕を発見したのは、70年代のはじめに此のビルを買い取った建築家エド・バーク氏である。日系史遺産としての重要さを感じたバーク夫妻の奔走により1978年に連邦史跡遺産として登録され、政府援助金の助成を得て劇場を含めて全ビルが生まれ変わったのが1981年のことである。隣接地も神戸パークとして桜の名所に生まれ変わった。しかし建物が再生されても中身がなくては何の意味も無いとの気持ちに賛同する有志により1983年に結成されたのが「日本館劇場伝統保存会」である。その名の示す様に芸能に限らず、かって劇場が果たした役割をも保存していきたいというのがその趣旨である。「日本館劇場伝統保存会」では劇場にまつわる記録をとどめるパネル展示も制作、このパネルは、桜祭などでの展示後、日系人会に引き継がれ、現在は西北部日系博物館の主要展示の一部となっている。
 恒例となった“お正月”をはじめとして数々のプログラムに使われてきた劇場も、諸々の事情により建物の所有権がバーク夫妻を離れてからは、劇場部分を除いて各種事務所に賃貸され以前より楽屋スペースの手狭な所に、階段の踊り場さえ使用出来ない有様で衣装の着付けなど不可能に近く、近年は管理の不行き届きか、常設の筈の照明機具や音響、舞台資材の紛失や破損も酷く今年のイベントも出演者諸氏に不便を我慢願っての開催となってしまった。政府援助金助成を得ての保存責務期間も過ぎ、税制上の特典も無くなった今、所有者に劇場補修を期待する事は望み薄であり、最悪の場合、他の施設に改築されてもやむを得ぬのが現状である。いまだ同劇場を訪れた事の無い方には機会があれば是非今のうちに一見をお薦めする。最近、戦前のパナマホテルの一部が日系遺産の保存も含めて新店舗として生まれ変わった朗報があったが、日本館劇場の復旧時といい、何れも非日系人によるのは日系コミュニテーの一員として有難くもあり、また残念な気もする。文化的事業は採算が取れない事もあろうが次の世代に何を残し何が出来るか身近な所から一度見直しては如何なものであろうか。

注:「古屋政次郎」と戦前の日本人社会については武田勝彦著のドキュメンタリー小説「富士ふたつ」の一読推薦。おもしろい事うけあい
#ブログ #文化 #芸能

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