Search Bloguru posts

四季織々〜景望綴

https://en.bloguru.com/keimi

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 神の森◆ 1

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆追章 ...
桜  物  語   追  章   神  の  森


   宿命

神の森は、ざわめいていた。社を守る神の守が交代の時を迎えようとしていた。
 榊原八千代は、長い間行方不明になっている長男の榊原春樹を探していた。思いの方角へ捜索に人を遣わしたが不思議なことに行方が判らなかった。春樹の結界の力か、はたまた、未知の力が及んでいるようにも感じられた。思い起こせば、春樹の力は、生まれながらにして強く、神の守の風格を備えていた。弟の冬樹とは比べものにならなかった。それ故に八千代は、春樹に期待していた。突然、里の小夜と結婚したいと言い出して猛反対すると姿を消した。その足あとを途中までは辿ることができた。にもかかわらず、突然、春樹の気配が掻き消えた。八千代は、恐れていた春樹の死を自ら確認する決心をして、春樹との決別を果たす旅に出た。

 優祐は、本人の希望と光祐の決断で、都の中学校には進学せずに星稜学園中学校に進学した。自分よりも勉強熱心な祐雫が女であるが故に都の学校に進学できないのにひとりで行くには気が引けた。優祐は、祐雫の学力を尊重していたし、また、強気な祐雫の内面の繊細さもよく理解していたので、祐雫と離れて都に行く気になれなかった。優祐は、何時でも先ず人の気持ちになって考える優しい性格に育っていた。祖父の啓祐は落胆していたが、父の光祐は理解を示して、他の家族も内心喜んでいた。
 優祐は、剣術の稽古の帰りに白髪の老人から声をかけられた。
「坊ちゃん、あちらに見えている山に行くには、どう行けばよろしいかな」
 老人は、しばらくの間、桜山と対峙するように向き合っていた。
「桜山ですね。桜川をずっと辿って行けばすぐに分かりますよ。でも、今からでしたら随分時間がかかりますので、到着する頃には暗くなってしまいます」
 優祐は、桜川の上流へ続く道を指し示しながら老人に道を教えた。
「坊ちゃんの言う通りだね。今夜は、宿に泊まって明日の朝から出かけるとしよう」
 老人は、遥かな道程を見つめ、優祐に視線を移した。途端に懐かしい想いが胸に溢れた。遠い昔に帰ったような気分になっていた。
「よろしければ、ぼくがご案内しましょうか。明日は、日曜日で学校が休みですので」
 優祐は、旅の老人をひとりで桜山に向かわせるのが心配になっていた。
「さようか。それならばお願いするかな。わしは、榊原八千代と申す。そこの桜旅館に宿をとるからね」
 八千代は、桜旅館の看板を指差した。そして、明日も優祐と会えると思うと久しぶりにこころが嬉々としていた。春樹の消息を探しにきた土地で、春樹の面影を持ち合わせた子どもに出合えた事は偶然の成り行きとは思えなかった。この子どもは春樹の消息の手がかりを握っているに違いないと思えた。
「ぼくは、桜河優祐と申します」
 優祐は、表情が柔らかくなった八千代に親しみを感じた。
「桜河優祐くんか。ここは、どこもかしこも桜ばかりなのだね」
「はい、桜は、この桜川地方を守護する大切な樹ですので、至る所に植えられています。春の桜の季節は、絵にも描けない美しさです。明日の九時に桜旅館に迎えに行きます」
 優祐は、八千代に一礼して家路についた。
優祐は、光祐に八千代のことを報告して、桜山への道案内の許可を申し出た。
「全く知らない方と二人だけでは心配だから、爺にお願いしてごらん。桜山までの道は、ご年配の方の足では大変だろうからね」
「はい、父上さま」
「優祐だけでは、心配だから、祐雫も一緒に行って差し上げるわ」
 祐雫は、わくわくして横から口を挟んだ。
「ご案内が終わりましたら、一度、お屋敷へお連れしてくださいませ。山歩きでお疲れでございましょうからご休憩していただきましょう」
「はい、母上さま」
 祐里は、胸の内がざわめいていた。優祐を道案内に出してはいけないような気分になりながら、それでいて出さずにはいられないような宿命を感じていた。胸の内のざわめきは何時までも治まらなかった。
「祐里、気になることでもあるの」
 光祐は、寝室で、神妙な表情の祐里を気遣った。
「何故でございましょう。あまりにしあわせ過ぎまして、空恐ろしゅうございますの。光祐さま、どうぞ祐里を離さないようにしっかりと抱いてくださいませ」
「しあわせなことはよいことなのだから、何も心配しなくとも大丈夫だよ」
 光祐は、優しく微笑んで、怖がる祐里を力強く抱きしめた。

 次の日は、朝から晴れ渡り、白い薄雲が桜山の裾野にたなびいていた。
「爺、おはようございます。今日は一日、よろしくお願いします」
 優祐は、朝食を終えると弁当と水筒の包みを持って森尾の車に乗り込んだ。
「優祐、遅うございます」
 祐雫が既に車に乗りこんで微笑んでいた。
「優坊ちゃん、おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。さて、出発いたします。祐里さま、行って参ります」
「森尾さん、よろしくお願いします。優祐さん、祐雫さん、気をつけていってらっしゃいませ」
 祐里は、玄関の車寄せで手を振って見送った。見送りながら異様な気分に襲われていた。それが何かは分からなかった。今までに感じたことのない懐かしい気分と得体の知れない恐ろしさが交錯していた。
「桜さん、何かが起こりそうな気がいたします。どうぞ桜河の家族をお守りくださいませ」
 祐里は、桜の樹に手を合わせて祈った。
午後二時を回った頃に森尾の車が玄関の車寄せに戻ってきた。光祐と祐里は、車の音を聞きつけて迎えに出た。車から降りた八千代は、祐里を見るなり驚愕の表情を見せた。
「そなたは・・・・・・」
祐里は、光祐の背中に隠れた。
「祐里をご存知なのですか」
光祐は、八千代と祐里を交互に見つめ、背後で震える祐里を気遣った。八千代は、祐里の元へ駆け寄ろうとした瞬間、長旅の疲れと心労でその場に崩れた。
 光祐は、八千代を背負い、客間の布団に寝かせた。祐里は、八千代の手を握って座っていた。
「祐里、知り合いの方だったの」
 光祐は、訳が分からずに祐里に問いかけた。
「いいえ、はじめてお会い致しました」
 祐里は、蒼白な顔で光祐を見つめ返した。
「光祐さま、こちらは、私のお爺さまでございます。不思議に思いますがそのように私の中で声がいたします。私を捜しに来られたのでございます」
「祐里を捜しに・・・・・・だが、祐里は、ぼくの妻だよ。幼子ではないのだから今更連れて行くわけにはいかないだろう」
光祐は、突然の祐里の言葉に戸惑っていた。祐里を桜河の家に引き取るときに父は、ありとあらゆる手段で祐里の素性を調べた筈だった。それが今になって祖父らしき人物が出現するとはまさに青天の霹靂の気分だった。祐里は、静かに八千代の手を握って目を瞑っていた。
「そなたは・・・・・・」
八千代は、気がついて祐里を見つめた。
「祐里と申します。あなたは、いえ、お爺さまは、私を捜しに来られたのでございますね」
「祐里と申すのか。わしは、春樹の消息を確かめに来たのじゃ。だが、死んだのじゃな。死んでからもあやつは、結界を張り巡らしてそなたを隠しておったらしい。それに何かの強い自然界の力が加わっておる。わしは、この地に来てから体調が悪うなった」
 八千代は、祐里の手を通して癒しの力を感じていた。気分が少しずつ楽になってきていた。
「確かに私の父は、榊原春樹と申しますが、私は、今では桜河の人間でございます」
 祐里は、光祐と婚約してからの十七年間のしあわせに想いを巡らせていた。
「おお、桜じゃ。強い力は、この地の桜の樹から発せられているのじゃ。それにこの屋敷からもな。余程、おまえを守りたいとみえるな」
 八千代には、祐里を守って幾重にも張られた強い結界が見て取れた。
「榊原さま、もうすぐ、お医者さまが参りますので、今日はこちらでゆっくりされてください。お話はそれからでもよろしいでしょう」
 光祐は、八千代の身体を案じた。
「突然に現れてこの体たらくだ。申し訳ない。そなたが祐里の連れ合いだね。祐里を大切にしてくれているのじゃな」
八千代は、光祐に微笑みかけて静かに目を閉じ、祐里の優しい手の温もりに包まれて安らかな眠りに落ちていった。
鶴久院長の往診で、八千代は、疲労からくる一過性の貧血で安静にしていれば大事には至らないとのことだった。
「祐里は、しあわせなのじゃな」
 八千代は、深い睡眠から覚めて診察を終えると、側に座っている祐里に話しかけた。
「お爺さま、私は、とてもしあわせでございます。父母を三歳で亡くしてから現在まで、このお屋敷で大切に育てていただきました。そして、何よりも光祐さまが私を力強くお守りくださいます」
「そのようだな」
 祐里のしあわせな表情に反して、八千代は、こころを曇らせていた。祐里が春樹の娘だと分かった以上、守人の交代の時期を迎えている神の森に、是非とも連れて帰らなければならなかった。祐里の癒しの力は、今の神の森に必要不可欠なものだと瞬時に感じられた。三歳の時に八千代が引き取り育てていれば、祐里の力は、絶大なものになっていたに違いなかった。春樹にはその力が分かっていたに違いない。だからこそ、神の森に居所を突き止められた春樹は、祐里の俗世間でのしあわせを願って、自分の魂と引き換えに結界を張り巡らして祐里を守ったのだろう。
「お爺さま、私は、桜河のお屋敷を離れとうはございません。光祐さまと離れては生きて行けません」
 祐里は、八千代の胸のうちが手に取るように感じられた。何故、八千代の気持ちが分かるのかが不思議に思えていた。
 庭では、桜の樹が風のない夜にざわざわと大きく枝を揺らしていた。
「春樹も小夜と離れては生きていけないとわしに言ったものじゃ。親子じゃなぁ。あの時に春樹の願いを聞いて小夜と一緒にしておれば、春樹を失わずに更にそなたも得ていたと思うと、わしの先見のなさが悔やまれてならぬ。それにしても里の娘が神の御子を産むとは大層珍しいことじゃ。春樹を失った現在、弟の冬樹では、神の森を守る力に欠いておる。この時期にこうして巡り合ったからには、祐里は、選ばれし者なのじゃ。春樹は、その任を怠ったがために神の森の逆鱗に触れて命を落としたのじゃ。そなたも宿命には逆らえまい。それともそなたの子をわしに委ねてくれるか。優祐は、春樹の小さい頃によく似ておる」
 八千代は、容赦なく祐里に宿命を突きつけた。
「お爺さま、優祐さんは、この桜河家の大切な後継ぎでございます。そのようなことはできません」
 祐里は、心が張り裂けそうになりながら、きっぱりと反論した。
「それならば、祐雫にするか。神の守は、男子とされているが、今から鍛えれば賢い祐雫であれば務まるだろう。祐雫の気の強さは、そなたの芯の強さを引き継いでおるからな」
 八千代の言葉は、神の森の言葉と呼応して、祐里に選択の余地を与えなかった。
「祐雫さんとて、桜河家の大切な娘でございます。そのようなことはできません」
 祐里は、必死になって我が子を守って断言した。
「ならば、そなたしかいないではないか。桜河家には恩返しとして後継ぎを残しておる。本来ならば神の守は、男子已む無くば生娘とされているが、そなたの力を持ってすれば問題なかろう。そなたは、生まれながらにして神の守なのじゃからな。もし、神の森に反して、桜河家に災いがあってはそなたも生きていけないだろう。神の森の力は絶大じゃ」
「それが神さまのなさることでございますか」
 宿命とはいえ、父母が崖崩れで亡くなったのは神の森のなさったことだと知らされ、祐里は、言い知れない怒りに震えていた。
「神の森には守り人が必要じゃ。それも力を持った守り人が・・・・・・。わしは年老いて神の森を守る力を失のうて来ておる。わしには、祐里、そなたしかおらぬのじゃ。現にわしの身体が癒えてきておるのはそなたのなせる神業じゃ」
 八千代は、祐里の手を力強く握り締めて懇願した。
「榊原さま、それはあまりにご無体なお言葉ではございませんか。突然いらっしゃって、わたくしたちの大切な祐里さんを連れて行こうとなさるなんて」
夕食の膳を持って、薫子が座敷に入って来た。
「母上さま、申し訳ございません。ありがとうございます」
 祐里は、薫子から膳を受け取った。
「桜河さま、祐里を今まで大切に育ててくださったご恩は忘れません。しかし、祐里は、ただの娘ではないのです。神の御子であり、神の守なのです。祐里は、今までこの地に小さなしあわせをもたらせていたでしょう。これからは、広い世界にしあわせをもたらせるのです。祐里を育ててきたのであれば、この娘が万人と違うことは感じておりますでしょう」
 八千代は、薫子の瞳をしっかりと見据えてこころに訴えた。
「榊原さま、万人と違うてもわたくしの娘でございます。とにかく、祐里さん、お爺さまに夕食を差し上げてくださいませ。わたくしたちは、手放す気はございませんわ」
 薫子は、八千代の言葉を受けて正論だと思いながらも、祐里を手放す気には到底なれなかった。
「母上さま、私もお屋敷を離れるなど考えられません」
祐里は、幼い娘のように無性に甘えたい気持ちになって薫子に抱きついた。薫子は、優しく、そして力強く祐里を抱きしめた。
薫子は、暗い面持ちで食堂に戻り、事情を家族に説明した。
「光祐、わたしたちの気持ちは、家族の誰も欠かないことで一致しておる」
 啓祐は、光祐に同意を求めて決断を促した。光祐は、静かに目を瞑って考えていた。
「父上さま、母上さま、家族の気持ちは充分に理解しております。が、この件は、わたしに任せください。祐里を一度神の森に帰します」
 光祐は、きっぱりと宣言した。啓祐と薫子は、驚きのあまり言葉が出なかった。優祐と祐雫は、光祐の決断に反論する余地もなく、手を取り合って光祐の顔を見つめていた。
 光祐は、夕食を終えて客間に顔を出した。
「祐里、午後からずっとで疲れただろう。おじいさまの顔色も随分よくなったことだし、ぼくが代わるから、食事をして部屋で休みなさい」
「光祐さま、私は大丈夫でございます」
「祐里、ぼくの言うことをきいておくれ」
 光祐は、蒼白な祐里の顔色を気遣って、祐里の手に自分の手を添えた。光祐の深い愛情が手の温もりを通して感じられた。
「はい、光祐さま。よろしくお願い申し上げます。お爺さま、それではごゆっくりとお休みくださいませ」
 祐里は、潤んだ瞳を光祐に向けると頷いて客間を後にした。客間の前では、優祐と祐雫が心配して待っていた。
「母上さま、お疲れでございましょう。申し訳ありません。ぼくがお爺さまをお連れしたからいけなかったのですね」
 優祐は、突然の出来事にこころを痛めていた。八千代の道案内をかってでなければこのような事態にならなかったのではないかと後悔していた。
「優祐さん、そのようなことはございませんわ。優祐さん、祐雫さん、心配してくださってありがとうございます。私は大丈夫でございます」
 祐里は、優しい心遣いの優祐と祐雫に心配をかけないように明るい笑顔を作った。
「母上さま、夕食がまだでございましょう。おばあさまと婆やが心配してございます。さぁ、食堂へ参りましょう」
 祐雫は、祐里から膳を受け取り、優祐は、祐里の手を引いて長い廊下を食堂へと進んだ。優祐と祐雫は、祐里を守りたい思いでいっぱいだった。
 光祐は、客間の灯りを消し、枕元の電燈に切り替えた。夜の静けさが客間を覆った。
「祐里は、何があろうとわたしの大切な妻です。それで災いを被るのならば仕方の無いことです。ただし、榊原家が存在しなければ、祐里は生まれていなかったというのも事実です。神の森が守り人の交代で荒れているのでしたら、しばらく祐里をお帰ししましょう。祐里の癒しの力と後を継がれる冬樹さまの力で神の森をお静めください。そして、神の森が静まりましたら、わたしに祐里を帰してください。三日後には夏休みになります。優祐を祐里の供に付けます。わたしが付き添いたいのですが、今仕事を離れるわけには参りませんので」
 光祐は、祐里を離したくないと思いながらも、帰さなければならないと決心した。
「光祐くんの意向は相分かった。ただ、神の森がどうするかじゃ。そして、祐里がどう対応するかじゃ。春樹に死をもたらせた強力な力なのだから、神の森のなさることはわしには推測がつかぬのじゃ」
 八千代は、神の森に祐里を連れ帰ったら、もう二度と桜河のお屋敷に戻れないであろうと感じていた。それを光祐には告げることができなかった。
「わたしは祐里を信じています。あの崖崩れの時も祐里は生き残り、そして、わたしの元に来ました。祐里は、神の守としてではなく、わたしと巡り合うために生まれて来たのです。たとえ、神さまでもわたしと祐里を引き裂くことはできません。わたしは遠く離れていても、祐里を信じてこころで守ります」
 光祐は、八千代の瞳を見つめて、きっぱりと断言した。
「祐里は、ほんにしあわせものじゃなぁ」
 八千代は、しみじみと若い光祐の懐の大きさに感じ入っていた。
「榊原さま、夜も更けてまいりました。そろそろお休みください。桜の樹には安眠を妨げないようにわたしがよく説明しておきますので、まずは、お疲れをお癒しください。それではおやすみなさい」
 光祐は、八千代に会釈して座敷を出た。廊下から庭に下りて、深緑の葉を湛えた桜の樹へ向かった。桜の樹は、月の光に青く光り輝いて光祐を迎えた。
(桜、心配しなくても大丈夫だよ。一度、祐里を神の森に帰しはするけれど、必ず、祐里は戻ってくると、ぼくは信じている。ぼくと祐里は、桜の下で添い遂げる宿命で巡り合ったのだもの。ぼくは、こころで念じて祐里を守るよ。どうか祐里と優祐に力を貸しておくれ)
桜の樹は、葉を優しく揺らして頷いた。
 光祐は、目を閉じて、静かに桜の葉音を聞いていた。
遠い日の記憶が蘇っていた。突如、訳もなく恐ろしくなって「ゆうりをたすけて」と桜の樹に縋りついたのは、夢か幻だったのか・・・・・・次の場面には、幼い祐里と祖母濤子の笑顔があった。
「光祐さん、ご覧なさい。桜の樹の下の祐里は、とても美しいでしょう。お屋敷の御守護の桜は、祐里そのもののような気がいたします。光祐さんが祐里を愛するのなら、これから何があろうとその愛を貫きなさいませ。わたくしは、いつも光祐さんを見守ってございますから」
「ぼくは、ゆうりがだいすきだよ」
 優しい濤子の真剣な言葉に、光祐は、気持ちをそのまま口にした。
「ゆうりは、こうすけさまがだいすきです」
 祐里は、無邪気に光祐に走り寄って抱き着いた。その光祐と祐里を濤子は、一緒に抱き締めた。
 しばらくの間、光祐は、桜の樹と共に祐里と過ごしてきた日々を想い返していた。
 光祐が部屋に戻ると、祐里は、浴衣に着替え神妙な顔つきで座っていた。
「光祐さま、いろいろとご心配をおかけして申し訳ございません」
 祐里は、正座をして光祐に頭を下げた。
「祐里のお爺さまは、ぼくにとってもお爺さまなのだから気にすることはない。祐里、お爺さまの体調が戻られたら、神の森まで送って差し上げなさい。夏休みに入るから優祐を連れて行くといい。恐れなくとも大丈夫だよ」
 光祐は、震える祐里の手を取った。
「光祐さま、祐里は、光祐さまのお側を離れとうはございません」
 祐里は、光祐の胸に顔を埋めた。光祐は、優しく祐里を抱きしめた。
「祐里、時期が来たのだよ。縁のない時は、こちらが祐里の親族をいくら捜しても見つからなかったのに、こうしてあちらから捜しに来られた。それに病み上がりのお爺さまを一人で帰すわけにはいかないだろう。優祐を連れて里帰りをするつもりで行って来なさい。祐里の父上さまと母上さまの生まれ育った土地を一度は見ておきたいだろう。ぼくが付き添って行きたいのだが、どうしても現在、仕事を離れるわけにはいかないのだよ。仕事が一区切り着いたら、すぐに迎えに行くからね」
 光祐は、祐里のいない毎日を考えただけで空虚な気分になっていた。それでも祐里の出生の謎が解け、神の森が祐里を必要としているという現実を受け止めなければならないと感じていた。
「はい、光祐さま」
 祐里は、不安で押し潰されそうになりながらも光祐に頷き返した。
「祐里、今までにもいろいろなことがあったけれど、ぼくは、祐里を守ってきただろう。今回も何が起ころうと、必ず祐里を守るからね。ぼくは、祐里を信じているから、祐里もぼくを信じておくれ」
光祐は、祐里が発つまでの毎晩、不安気な祐里を優しく抱いて眠った。祐里は、陽光に輝く満開の桜に包まれているような気分になって光祐に抱かれて安堵して眠りに就いた。

神の森に発つ前日の終業式帰りに、柾彦が小さな袋を持って、優祐の前に現れた。
「優祐くん、明日、発つのだろう。何かの時に役に立つかもしれないから、これを持っていくといいよ。母上さまには内緒だよ。ぼくが言うのもおかしいけれど、母上さまをしっかり守ってあげるのだよ」
 柾彦は、青空のような笑顔を優祐に向けた。かつての守り人として多少なりとも祐里の手助けが出来ればと考えて準備したものだった。
「はい。柾彦先生、ありがとうございます。母は、ぼくがしっかり守ります」
 優祐は、袋を胸に抱いて決意の瞳で柾彦を見上げた。

 翌日、祐里と優祐は、お屋敷で家族にしばしの別れを告げて、八千代と共に早朝の桜川駅から、光祐と祐雫に見送られて汽車で旅立った。
 夕方まで汽車に揺られて茜色に輝く夕日のトンネルを抜けると、汽車は宵闇の緑が原駅に到着した。駅舎の目前に壮大な神の森が広がっていた。
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 11

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
  桜の姫

 祐里は、この年最後の鶴久病院での見舞いを終え、結子とお茶の時間を過ごしていた。
「祐里さん、ようやく、柾彦も結婚に辿り着きそうでございます」
 結子は、祐里に温かい紅茶を差し出しながら満足げに笑った。
「本当によろしゅうございました。柾彦さまには、しあわせになっていただきとうございます」
 祐里は、温かい紅茶の香りの中で、柾彦のしあわせを願っていた。柾彦が笙子と交際していることは萌から聞いていた。
「これも、祐里さんのお陰でございますわ」
 結子は、感謝の気持ちを込めて、祐里を見つめた。
「私は、何もいたしておりません。萌さまのご紹介でございましょう」
 祐里は、謙虚に応えた。
「ずっと祐里さんのことを好いていた柾彦さんが道を踏み外さないように、祐里さんが気を遣ってくださったからでございます。祐里さんと祐里さんを疑うことなく寄越してくださった光祐さんに、本当に感謝してございますのよ」
 結子は、高校生の柾彦が、初めて祐里に恋をしてからのことを思い出していた。一途に祐里を大切に想っていた柾彦が、想い余って祐里を抱きしめていた場面に遭遇した時は驚いたが、それも祐里が上手く切り抜けてくれ、それ以後も祐里は、変わらぬ態度で柾彦と接してくれていた。
「おばさま、私は、女学生の頃からいつも柾彦さまに守っていただきましたし、勇気づけていただきました。私こそ、柾彦さまには感謝してございます。それに桜河も、柾彦さまを信頼してございますもの」
祐里は、柾彦がいつでも優しく守ってくれたことを思い出しながら、結子の手を取った。
「祐里さんは、本当に神さまのように慈悲深くて謙虚でございますわね。桜河のご家族は、嘸かしおしあわせでございましょう。初めて祐里さんにお会いした時から、私は、あなたを柾彦さんのお嫁さんにと思っておりました。適わぬ夢でございましたけれど」
 結子は、祐里を強く抱きしめた。
「ありがとうございます。私は、おばさまが大好きでございます。おばさまがよろしゅうございましたら、今まで通りのお付き合いをさせていただきとう存じます」
 祐里は、結子がますます好きになった。
「勿論でございますとも。祐里さんは、志子さんと同じく私の娘ですもの。笙子さんとも仲良くして差し上げてくださいませね」
 結子は、祐里のことを桜河家に嫁がせた自分の娘のように感じていた。
「はい。桐生屋さんでお着物を誂えるときは、笙子さまにお見立てをお願いしてございましたの。大人しい方ではございますが、しっかりとした方でございます。柾彦さまは、頼もしいお方でございますから、きっと、笙子さまを導かれることでございましょう」
 結子と祐里が話をしているところに、柾彦と笙子が顔を出した。
「姫。こちらだったのですね。笙子さんを紹介しようと思って探していたのですよ」
 柾彦は、笙子の肩を優しく引き寄せた。
「柾彦さま、笙子さまの前で姫とお呼びになるのはよろしゅうございませんわ。これからは、お辞めくださいませ」
 祐里は、困った顔をして柾彦を窘めた。
「でも、姫は、姫だもの。姫に会ってから、今まで、姫としか呼んだことがないから、今更、他の名では呼べないよ。桜河の若奥さまって、呼べばいいのかな」
 柾彦は、おどけながらも、照れて困っていた。
「祐里さま、私は構いません。柾彦さまが、祐里さまをずっとそのようにお呼びして来られたのでございますから、今更、変えずともよろしゅうございます。それに祐里さまには、姫という愛称がとてもよくお似合いでございますもの」
 笙子は、祐里をずっと想っていた柾彦に、現在愛されているだけで嬉しかった。
「まぁ、笙子さま。本当に私は、姫ではございませんのよ」
 祐里は、困惑しながら慌てて打ち消した。
「私もこれからは、柾彦さまと同様に、姫さまとお呼びいたします。姫さま、どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
 笙子は、柾彦に寄り添って、丁寧に祐里にお辞儀した。
「これで決まりだね。姫は、今まで通り姫だからね」
 柾彦は、笙子の肩を抱きながら、しあわせに溢れる笑顔を見せた。
「笙子さま、こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます」
 祐里は、諦めて笙子にお辞儀を返した。
 柾彦は、ようやく、祐里への恋慕から卒業できそうな気がしていた。そして、笙子をこれから最愛の女性として愛していこうと決心した。祐里は、仲睦まじい柾彦と笙子をこころから祝福しながら、この時を待ち焦がれていた結子とともに安堵していた。

 柾彦は、まことにしあわせいっぱいだった。
祐里をひたすら守り通して、恋い慕い、その友情を壊すことなく、今、笙子というかけがえのない女性に巡り合い、溢れる愛情を注いでいた。
柾彦の恋は、祐里から笙子への愛に羽ばたいたのだった。
鶴久病院の冬枯れの桜は、寒風の中で、着々と芽吹く準備を始めていた。来春の柾彦と笙子の婚礼の日の華やかな開花を夢見て静かに枝を揺らしていた。柾彦と笙子に「永久に幸あれ」と微笑みかけているようであった。

 祐里は、お屋敷に戻ると、桜の樹の下に向かった。
「桜さん、祐里は、光祐さまのお側で恙無く過ごすことができまして、しあわせでございます。桜さんのお陰でございます。ありがとうございます」
 祐里は、溢れんばかりのしあわせな笑顔で、桜の樹に感謝の気持ちを伝えた。
 桜の樹は、幹に当たる陽射しを反射させて、祐里のまわりに光を投げかけていた。      〈 桜物語 柾彦の恋の章 完 〉


 *** しあわせに包まれたお屋敷に過去からの風が吹いてきます。
     宿命に対峙する光祐と祐里の桜物語は、追章「神の森」で
     祐里の出生秘話へと展開していきます。***
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 10

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
  告白 

 十二月に入り、桜山が薄っすらと雪化粧を施す頃となった。
 柾彦は、都の学会に出かけ、檜室教授から呼び出しを受けた。笙子との出合いで、柾彦は、すっかり美月のことを忘れていた。美月からも、その後、音沙汰がなかった。柾彦は、重い気持ちで、教授室の扉を叩いた。檜室教授は、扉を開け、柾彦を迎え入れた。
「鶴久君、久しぶりだね。わざわざ、呼びたててすまなかった。とにかくかけなさい」
 檜室教授は、柾彦に椅子をすすめて、自分も向かいの椅子に腰を降ろした。
「ご無沙汰いたしております」
 柾彦は、檜室教授の表情が穏やかなことを感じていた。
「先日は、娘の美月が迷惑をかけて、誠にすまなかった。父親として詫びをしたいと思ってね。見合いの席をすっぽかして、君を訪ねていたとは、後から聞いて本当に驚いたよ」
 檜室教授は、畏まって柾彦に頭を下げた。
「私も突然、美月さんが訪ねて来られた時は驚きました。その後、美月さんは、いかがでございますか」
 柾彦は、恐縮して、教授に尋ねた。
「実は、君のところから戻って来た日に、駅で齋藤君に会ったらしくてね。夕食をご馳走になって、重い鞄を持ってもらったら、齋藤君のことが好きになったようで。今では、賑やかな都を離れたくないから、齋藤君と結婚すると言っているのだよ。本当に困った我が侭娘だ」
美月は、桜川からの帰りの列車の中で、目まぐるしかった一日を振り返っていた。父の薦める計略的な見合い結婚に反発して咄嗟に家出をし、父の教え子の中で一番好感が持て、心優しい柾彦を頼ったものの、柾彦が深く祐里を愛していることを真摯に受け止め、自分の入る余地がないことを胸に刻んでいた。今更、すっぽかした見合相手と結婚する気にもなれずに途方に暮れていた。その時、必然的に齋藤真実に出会ったのだった。
柾彦は、話を聞きながら、厳しい檜室教授が顔を綻ばせて喜んでいる様子に、美月のこれからのしあわせを願っていた。
「齋藤でしたら、美月さんとお似合いです。たぶん、美月さんは、お見合いが嫌で、妥当な距離の私のことを思い出したのではないでしょうか」
 柾彦は、自分の窺い知らないところで、このような顛末になろうとは思いも寄らず、安堵していた。それとともに笙子の笑顔がこころに広がっていた。

結子は、忙しい日々を過ごしながらも、柾彦の恋をじれったく思っていた。笙子を紹介されてから、既に一月以上経っていた。
「あなた、柾彦さんは、どうされるのでしょうね。あちらさまにご挨拶に伺わなくてもよろしいのでございましょうか」
 結子は、夫の鶴久宗(はじめ)に柾彦のことを相談した。
「柾彦ののんびりは、今に始まったことではないだろう。いい大人なのだから、柾彦の結婚のことは柾彦に任せておきなさい」
 宗は、ゆったりと構えて、結子の心配を他所に新聞に目を落とした。結子は(柾彦ののんびりな性格は、宗にそっくりだわ)と思って溜め息をついた。

 柾彦は、土曜日の診療を終えて、慌てて車を東野の華道会館に走らせた。学会があり、華道展以来、笙子には会っていなかった。柾彦は、会館の車寄せに車を止め、笙子が出て来るのを待った。華道展の時に、毎週土曜日の午前中は、華道会館で稽古があり、片づけが終わるのが一時頃だと、笙子から聞いていた。寒椿文様の艶やかな着物に椿色の被風姿の笙子が花包みを抱えて華道会館の扉から現れた。風花の舞う冷たい空気が一瞬、温かみを帯びたように柾彦には感じられた。
「笙子さん、突然ですがお昼をご一緒しませんか」
 柾彦は、車から出て、満面の笑顔を笙子に向けた。
「柾彦さま」
 笙子は、柾彦に走り寄った。笙子の胸はしあわせで溢れていた。柾彦に会いたくて、幾度涙したことか・・・・・・ようやく柾彦に会えた喜びが溢れて、大粒の涙が頬を伝っていた。
「どうしたの。なにか哀しい事でもあったの」
 柾彦は、笙子の溢れる涙に驚いていた。
「申し訳ございません。柾彦さまにお久しぶりにお会いできて、あまりに嬉しゅうございましたので」
 笙子は、熱い眼差しをしっかりと柾彦に向けた。今まで、恥ずかしくて、柾彦の顔をしっかりと見つめる事の出来なかった笙子だったが、恋するこころは笙子を強く導いていた。
「ぼくも笙子さんに会えて嬉しいよ。さぁ、泣くのをやめて」
 柾彦は、花包みを受け取ると、ハンカチを取り出して笙子の手に握らせた。笙子は、涙を拭きながら微笑んで、柾彦が開けた車の後部座席に乗り込んだ。
「笙子さんが落ち着くまで、車を走らせようね」
 柾彦は、ゆっくりと車を発進した。萌は、その二人の姿を微笑ましく思いながら、会館の事務室の窓から密かに見守っていた。
「突然来てしまったので、家の方が心配されるだろうから、一度、家まで送りましょう」
 柾彦は、桐生屋の方角に車を進めていた。
「はい。でも・・・・・・」
 笙子は、家を気にしながらもこのまま柾彦と過ごしたいと思っていた。一度、家に戻ると父に反対されるような気がしていた。
「でも、どうしたの」
 柾彦は、先程自分に熱い想いをぶつけて来た笙子の普段の大人しさに再び触れた。
「先日、お店に出ている時に柾彦さまのことを考えておりましたら、父から『こころ、ここにあらず』と叱られましたので・・・・・・」
 笙子は、再び哀しい顔をして俯いた。柾彦は、笙子を冬山に返り咲いた菫の花のように感じていた。いじらしく可愛らしい笙子を小さな菫に例えて、寒風から両手で包み込むように守りたいと思い、後部座席でしおらしく座っている笙子に声をかけた。
「それならば、父上さまにきちんとご挨拶をするよ。その前に笙子さんの気持ちを聞くべきだよね」
 柾彦は、車を路肩に停めて後ろを振り向くと、真剣な表情で笙子を見つめた。
「笙子さん、ぼくとお付き合いをしてください」
「はい、柾彦さま。よろしくお願い申し上げます」
 笙子は、胸の中でしあわせの花が一斉に開花するのを感じながら返答した。柾彦は、にっこり笑って、前に向き直ると車を発進させた。昼過ぎには売り切れる桜屋の桜餅を結子から頼まれて、偶然にも助手席に積んでいたことを幸運に思った。
 柾彦は、店先の邪魔にならない場所に車を停めると、後部座席の扉を開けて笙子を車から降ろした。笙子は、紫紺の暖簾を開けて、柾彦を店に招じ入れた。
「いらっしゃいませ。笙子、お帰り」
「いらっしゃいませ。お嬢さま、お帰りなさいませ」
 颯一朗と店の奉公人が一斉に柾彦と笙子を迎えた。
「ただいま帰りました。お兄さま、こちらは、鶴久柾彦さまでございます。父上さまはどちらでございますか」
 笙子は、まっすぐに颯一朗をみつめて、柾彦を紹介した。
「はじめまして、鶴久柾彦です」
 柾彦は、颯一朗に挨拶をして、ゆっくりと店内を見渡した。
「いらっしゃいませ。笙子の兄の颯一朗でございます。笙子、父上と母上は、奥でお昼だよ。お客さまを座敷にご案内しなさい」
 颯一朗は、大人しい笙子のこのところの変わり様に驚きを隠せなかった。店の奉公人でさえ、恥ずかしそうに話をする笙子が男性を連れて来たことが信じられなかった。
「柾彦さま、こちらへどうぞ。ご案内申し上げます」
 笙子は、柾彦を座敷へと案内した。
「少々お待ちくださいませ。父母を呼んで参ります」
 笙子は、柾彦を上座に案内すると、熱い決意を胸に抱いて奥座敷に向かった。柾彦は、姿勢を正すと、こころを落ち着かせようと庭の枯山水を眺めた。
「父上さま、母上さま、ただいま帰りました。会っていただきたいお客さまをお連れいたしました」 
笙子は、奥座敷に入ると正座をして、しっかりと弦右衛門と紗和の瞳をみつめて話をした。
「笙子、お帰り。もしや、鶴久病院の先生をお連れしたのかね」
 弦右衛門は、突然のことで驚きを隠せなかった。大人しい娘のどこに結婚相手を自分で決める大胆さが隠れていたのだろうと思っていた。
「まぁ、それは大変でございます。どういたしましょう」
 滅多な事では驚かない紗和も、左右をみまわしてあたふたとしていた。
「私は、お茶をお持ちしますので、父上さま、母上さま、お先にお越しくださいませ」
 笙子は、立ち上がって台所に向かった。弦右衛門と紗和は、顔を見合わせると、手を取り合って座敷に向かった。
「失礼いたします」
 弦右衛門と紗和は、硬い表情で柾彦の前に座った。
「突然に伺いまして申し訳ありません。鶴久柾彦と申します。どうぞよろしくお願いします。先日、久世萌さんより笙子さんをご紹介いただきまして、本日は、お付き合いのお許しをいただきに参りました。どうぞこちらをお納めください」
 柾彦は、はきはきと元気よく挨拶をして、風呂敷から桜屋の菓子箱を差し出した。
「ご丁寧にありがとうございます。先日、娘から、鶴久先生をお慕いしている旨を聞きまして、御門違いと思っておりました。世間知らずの娘で、とてもご立派な鶴久病院の先生とお付き合いをさせていただけるとは思ってもおりませんでした。こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
 子どもの頃からずっと接客をしてきた弦右衛門は、一目で柾彦の誠実さと明るさを感じ取っていた。
「失礼いたします」
 笙子が、障子を開けて静かに座敷に入って来た。座卓にお茶を出しながら、父母の穏やかな表情を見て、柾彦が父母に受け入れられたことを感じ取った。柾彦は、爽やかな笑顔で、堂々と頼もしかった。
「笙子さんは、大切に育てられたお嬢さまです。私も大切にお付き合いをさせていただきます。それに笙子さんは、鶴久病院ではなく私と付き合う訳ですから」
柾彦は、笙子の瞳を見つめて話した。笙子も熱い瞳で柾彦を見つめ返した。
「そのように思っていただきまして、笙子はしあわせものでございます。ありがとうございます」
 紗和は、ようやくいつもの落ち着きを取り戻した。
「失礼いたします。父上、藤原さまがいらっしゃいました」
 障子を開けて、颯一朗が事の成り行きを心配して顔を出した。
「颯一朗、鶴久柾彦先生だ。笙子とお付き合いをしてくださることになったからね。鶴久先生、笙子の兄の颯一朗でございます。嫁の繭子は、臨月で里帰りをしております。それでは、私は、失礼させていただいて店に戻ります」
 弦右衛門は、柾彦に颯一朗を紹介して、座敷を後にした。
「どうぞ、笙子をよろしくお願い申し上げます」
 颯一朗は、廊下で丁寧にお辞儀をして、弦右衛門の後に続いた。
「本日は、お店の忙しい中、突然伺いまして申し訳ありませんでした。今から、笙子さんをお誘いしたいのですがよろしいでしょうか。夕方には、送って参ります」
 柾彦は、紗和に申し出た。
「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございました。何もおもてなしできませんで申し訳ございません。どうぞ、笙子をお連れくださいませ。」
 紗和は、柾彦の中に清々しい青空を感じ、古い老舗の呉服屋に爽やかな風が吹き込んだように感じていた。
柾彦は、笙子の紹介も兼ねて銀杏亭に車を走らせた。
 杏子の熱い好奇な視線を浴びながら、柾彦は、笙子と向かい合わせで、遅い昼食を食べた。柾彦は、祐里と過ごす掴み処のなかったしあわせとは異なる、今まで感じたことのない満ち足りたしあわせを感じていた。
「杏子の言う通り、柾彦先生を好いてくださる方に巡り合ったでしょ。それにこんなに若くて可愛らしい方なのですもの。本当によかったですわね」
杏子は、明るい声で、恥ずかし気な俯き加減の笙子に笑いかけた。
「ありがとう、杏子。これでまた杏子には頭が上がらないよ」
 柾彦は、背中を押してくれた杏子に感謝していた。
「笙子さま、柾彦先生がじれったい時は、杏子におっしゃってくださいませ。厨房の火をお貸ししますからね」
「ぼくは、食材ではないのだから」
「杏子さま、ご指導をよろしくお願い申し上げます」
 柾彦と杏子の笑い話に、笙子もすっかり打ち解けて一緒になって声をたてて笑っていた。
柾彦は、駆け足で沈む師走の夕日が輝く中、笙子を送って車を走らせていた。
「笙子さんと一緒にいると時間が一瞬のようだね。このままぼくの家に連れて帰りたいくらいだ。明日は、迎えに行って、ぼくの父と母に紹介するよ」
柾彦は、笙子と離れることが寂しく感じられ、一刻も早く結婚したいと思った。
「はい、柾彦さま。父上さまと母上さまに気に入っていただけると嬉しゅうございます」
「笙子さんなら、一目で気に入るよ」
 笙子は、後部座席から運転席の柾彦に熱い想いで応え、柾彦は、鏡越しに頷き返した。
「奇麗な夕日だね」
 柾彦は、路肩に車を停めて笙子を降ろし、ちょうど山に沈んでいく緋色の夕日を笙子と寄り添って眺めた。
「笙子さん、桜の頃にぼくと結婚してください。今すぐにでも結婚したいくらいだけれど、いろいろと準備があって、そういうわけにもいかないだろうからね。ぼくは、この夕日のように熱く笙子さんを愛しているよ」
「はい、柾彦さま。喜んでお受けいたします。どうぞ笙子をよろしくお願い申し上げます」
 柾彦は、真剣なまなざしで笙子を見つめ、肩を抱き寄せた。笙子は、柾彦の情熱的な愛情を感じながら、柾彦にぴったりと寄り添い、寒さも忘れてしあわせいっぱいに輝いていた。
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 9

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   笙子

 笙子は、桐生屋の店先に座っていても、いつも柾彦のことを考えていた。柾彦の爽やかな笑顔が目に浮かんで離れなかった。
「笙子、先程から何度も呼んでいるのに返事をしないけれど、どうしたのかね」
 桐生弦右衛門が、笙子の前に立った。
「父上さま、申し訳ございません。何かご用でございますか」
 笙子は、我に帰って弦右衛門を正視した。
「先程から、その反物にばかり触れているけれど、気に入ったのかね」
 弦右衛門は、笙子がここ一週間ばかり、接客にも身が入らず、夢うつつの表情をしているのが気になっていた。大人しい性格の笙子ではあったが着物の見立てには定評があった。店は、長男の颯一朗が継ぐ事になっているが、着物好きの笙子に婿を取って暖簾を分けてもいいと常々考えていた。
「申し訳ございません、考え事をしておりました」
 笙子は、弦右衛門の厳しい表情に恐縮して、頭を下げて謝った。
「お嬢さま、そちらの反物は、私が棚に戻しましょう」
 すぐに見兼ねた倉三郎が助け舟を出してきた。
「お願いします」
 笙子は、倉三郎に反物を差し出した。
「考え事があるのならば、今すぐ奥に下がりなさい。お客さまに失礼になるからね」
 弦右衛門は、厳しく笙子を諭した。
「はい、父上さま」
 笙子は、涙ぐんで奥に下がった。
 弦右衛門は、妻の紗和に目配せをした。紗和は、笙子の後を追って呼び止めた。
「笙子、お話を聞きましょう」
 紗和は、奥座敷に笙子を招き入れて正座した。笙子は、一粒の涙を流して俯くと、紗和の前に正座した。
 その時、心配顔の弦右衛門が奥座敷に入ってきた。笙子に厳しい注意をしたものの笙子のことが気になって、店を颯一朗に任せて顔を出したのだった。
「父上さま、母上さま、どのように申し上げたらよろしいのか・・・・・・」
 笙子は、弦右衛門に反対されると思い、恋する胸のうちを明かす事に抵抗を感じていた。それに笙子が慕っているだけで、柾彦の気持ちが分からなかった。華道展以来、柾彦からの音信は途絶えたままだった。
「笙子、どなたか好きな方が出来たのですね。最近の笙子は、恋をしているようですもの。そろそろ、縁談のお話が出てもおかしくない年頃ですものね」
 紗和は、弦右衛門の表情を覗いながら、笙子の恋する瞳をしっかりと見つめた。
「笙子、それはまことかね」
 弦右衛門は、身を乗り出して大きな声をあげた。その声に驚いて、笙子は、俯いて身を縮めた。
「旦那さま、そのように大きな声を出されては、笙子が何も申し上げられなくなってしまいます。さぁ、笙子、あなたの気持ちを聞かせてちょうだい」
 紗和は、弦右衛門を抑えて、穏やかな微笑を笙子に向けた。
「萌先生のお知り合いの方で、二度しかお会いしておりませんし、私がお慕い申し上げているだけでございます」
 笙子は、俯いたまま小さな声で返答した。
「二度も会っておるとは、いったい、何処のどなたなのだね」
 弦右衛門は、大切に育ててきた笙子が自分の知らないところで、男性と会っていたことで、裏切られた気分になって強い口調で問い質した。
「本当に私がお慕い申し上げているだけでございます」
 笙子は、消え入るような小さな声で返答した。
「何処のどなたなのだね。名前を言いなさい」
 弦右衛門は、世間知らずの笙子が相手に騙されているのではないかと考えて声を荒げた。
「旦那さま、もう少し、やんわりとお話をしてくださいませ。笙子、お相手は、どなたですか。萌先生のお知り合いでしたら、それなりのお方でしょう」
 紗和は、弦右衛門が落ち着くように緩やかな優しい声で笙子を促した。
「あの、鶴久病院の柾彦先生でございます。最初は、萌先生とご一緒にお車で送っていただきました。次は、先日の華道展にいらしてくださいましたので、会場をご案内申し上げました」
「鶴久病院・・・・・・」
 弦右衛門は、思ってもみなかった名前を笙子から聞き、驚いて言葉を失った。紗和もお門違いの病院の名を聞き、驚きを隠せなかった。笙子と同級生だった鶴久志子と母の結子の鮮やかな印象を思い出していた。同じ絹でも洋装の結子は、いつもモダンな雰囲気で煌いていた。そのような家に和装暮らしの娘が通用できるのかが疑問でならなかった。
「笙子、今日は店に出なくていいから奥にいなさい」
 弦右衛門は、返す言葉が見つからず、そそくさと立ち上がって奥座敷を出て行った。
「柾彦先生だなんて。あちらは、大きな病院ですし、笙子の片思いでは仕方がありません。世間には、つり合いというものがございます。今日は、奥でゆっくりなさい。そろそろ、倉三郎と笙子の縁談話を進める潮時なのかもしれませんね」
 紗和は、小さな溜め息をついて店に戻った。
店では、浮かぬ顔の弦右衛門が帳場に座り、接客をしながら笙子を気にしている颯一朗や奉公人たちが落ち着かない様子だった。
笙子は、自室に戻り、柾彦の笑顔を思い出しながら、溢れる想いを抱えて涙ぐんだ。
窓の外では、笙子のこころを映して、時雨が降り出していた。
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 8

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   紫乃〈しの〉

 柾彦は、往診の帰りに桜河のお屋敷に車を停めた。紫乃が、柾彦を迎えた。
「柾彦さま、いらっしゃいませ。奥さまと祐里さまは、外出中でございますが、ちょうど、栗の渋皮煮が出来あがったところでございますので、召し上がっていかれませんか」
 豊かな微笑を湛えて紫乃は、柾彦を招き入れた。
「そろそろ、おやつの時間だと思って、寄ったところです。勿論、いただきます。今日はお屋敷の中が静かですね」
 柾彦は、台所に入って椅子に腰かけた。
「午後の休憩時間でございます。私は、台所を一番好いてございますので、いつもここにおります」
 紫乃は、手際よくおやつの膳を用意して、柾彦の前に差し出した。
「美味しそうですね。いただきます」
 柾彦は、手を合わせて栗の渋皮煮を口に入れた。ほろ苦さと甘さが合わさって、秋の豊かな香りが口の中に広がった。
「奥庭で採れた栗でございます。本当に柾彦さまは、美味しそうに召し上がられますね」
 紫乃は、柾彦の食べ振りから元気をもらっていた。
「紫乃さんの作るものが美味しいからですよ。お屋敷の方がたは、しあわせですね。毎日、紫乃さんの美味しいご馳走が食べられるのですから。ところで、紫乃さんは、どうして結婚しなかったのですか」
柾彦は、はじめて紫乃と二人きりになり、紫乃のことを聞いてみたくなった。
「私のことでございますか。恥ずかしゅうございますね」
 紫乃は、柾彦の真剣な眼差しを受けて、顔を赤らめながら昔を思い出すように話し始めた。
「私が、東野のお屋敷にご奉公に上がったのは、十二歳の時でした。奥さまは、五つで、本当に可愛らしいお嬢ちゃまでございました。紫乃、紫乃と私に懐いてくださいまして、私がお世話をする事になりました。桜河の旦那さまは、東野のご長男の圭一朗さまと同い年の十で、奥さまがお生まれになられた時からの許婚でございましたので、よく遊びにいらしていました。旦那さまも、私のことを姉のように慕ってくださいましてね。私は、何処に行くにも奥さまのお供をいたしました。奥さまが十八で、こちらにお嫁入りの時には、貧血ぎみの奥さまのことが心配で、桜河のお屋敷にお供してご奉公することになりました。お暇をいただいて、結婚も考えたのでございますが・・・・・・その頃に柾彦さまのようなお方と巡り合っておりましたら、私もきっと結婚してございました」
紫乃は、柾彦に微笑みかけて話を続けた。
「でも、奥さまのご希望もございましたし、私自身が奥さまと離れとうございませんでした。その頃、祐里さまの産みの母の小夜さんがお手伝いに来ていました。小夜さんは、素直な働き者でございましてね、私も小夜さんとすぐに仲良くなりました。東野の籐子奥さまに家事を習い、こちらでは、厳しい方ではございましたが、大奥さまの濤子さまにお料理を丁寧に教えていただきました。桜河のお屋敷のお料理は、大奥さまから全て教えていただきましたので、祐里さまに私からお伝えいたしました。光祐さまがお生まれになり、産後の肥立ちがお悪い奥さまと光祐さまのお世話をすることが嬉しゅうて、結婚など考えられませんでした。そのうち、可愛い祐里さまも来られて、旦那さまの代になリまして、いつの間にか、ここが私の家のように思えまして、私は、死ぬまで桜河のお屋敷にご奉公するつもりでございますのよ」
 紫乃は、しあわせな微笑を湛えながら、懐かしむように話をした。
「ここが紫乃さんの家ですし、桜河のお屋敷では、紫乃さんは、かけがえのない家族です」
 柾彦は、紫乃のしあわせをともに感じていた。
「はい、もったいのうございますが、私は、勝手にそのように思ってございます。柾彦さまは、そろそろ、ご結婚でございますね。奥さまからお話をお聞きいたしました。どうぞ、おしあわせになられてくださいませ」
紫乃は、柾彦の晴れ晴れとした笑顔を自分のことのように嬉しく思っていた。光祐の弟のように感じていた柾彦が良縁に恵まれたことが嬉しかった。
「まだまだですよ。出会ったばかりですから。紫乃さん、ご馳走さまでした。病院に戻ります」
柾彦は、照れ笑いをして手を合わせると、時計を見て立ち上がった。紫乃は、玄関横の車寄せまで柾彦を見送り、茜色に染まった庭の桜の樹を見上げた。桜の樹は、華やいだ茜色の葉を揺らし、紫乃を労ってくれていた。
「婆や、ただいま帰りました」
優祐と祐雫が、石畳を駈けて学校から戻って来た。
「優坊ちゃま、祐嬢ちゃま、お帰りなさいませ」
 紫乃は、玄関前で二人を抱きしめた。
「婆や、今日のおやつは、何」
 優祐と祐雫が、同時に問いかけた。
「さぁ、何でございましょうね。お着替えをなされて手を洗われましたら、食堂にいらしてくださいませ。それまでのお楽しみでございますよ」
「はい。婆や」
「祐里さまは、お留守でございますが、お二人で大丈夫でございますね」
 紫乃は、日本家屋に向かう優祐と祐雫の背中に伝えた。優祐と祐雫が生まれてから光祐と祐里は、日本家屋に移り住んでいたが、平日の朝食から夕食までの時間は、ほとんど洋館で過ごしていた。紫乃は、あどけない二人から元気をもらっていた。
「はぁーい」
 優祐と祐雫は、着替えをするために日本家屋の玄関へ競って走っていった。
「紫乃さん、ただいま帰りました」
 祐里は、石畳を静かに歩いて、紫乃の背中を優しく見つめていた。
「祐里さま、お帰りなさいませ。柾彦さまと入れ替わりに、今、優坊ちゃまと祐嬢ちゃまがお帰りになられたところです」
「声が聞こえてございました。柾彦さまとは、途中の道でお会いしました。紫乃さんの美味しいおやつに、ご満足のご様子でございました。紫乃さん、今日のおやつは、何」
 祐里は、子どもたちの真似をして問いかけた。
「さぁ、何でございましょうね。可愛い祐里さま、手を洗われましたら、食堂にいらしてくださいませ。それまでのお楽しみでございますよ」
「はい。紫乃さん。おいしそうな匂いがしてございますね」
 紫乃は、子どもたちに答えるように返事をした。祐里は、子どもの時から優しく見守り続けてくれる紫乃に感謝の気持ちで微笑んで、子どもたちの後を追った。
夕方になって、薫子が帰って来た。
「奥さま、お帰りなさいませ」
「紫乃、ただいま帰りました。今日は、少し疲れました」
 薫子は、迎えてくれる紫乃の穏やかな笑顔を見るだけで、疲れが癒されていた。
「お疲れでございましたら、お部屋でゆっくりなさってくださいませ。すぐに熱めのおしぼりと甘いものをお持ちいたしますので」
 紫乃は、幾つになっても薫子のことが可愛くて仕方がなかった。東野の籐子から、よく『薫子の身体が弱いのは、紫乃が甘やかすからでございます』と叱られたものだった。それでも、つい手を出さずにはいられなかった。
「静かでございますね。祐里さんと子どもたちはどちらに」
「おやつを召し上がられて、木の実探しに奥庭へお出かけでございます」
紫乃は、扉を開けて薫子を部屋に入れた。
「紫乃、とても嬉しそうな顔をしているけれど、何かございましたの」
 薫子は、長椅子に座りながら紫乃をまじまじと見つめた。
「午後に柾彦さまがお寄りになられて、私の料理を誉めてくださったものでございますから。それにもったいないことでございますが、私のことをかけがえのないお屋敷の家族だとおっしゃってくださいました」
紫乃は、満ち足りた気分で、自然に微笑みが溢れていた。
「さようでございますとも。わたくしは、いつもそのように思っていてよ。紫乃、いつまでも元気でわたくしの側にいてくれなければ、嫌でございますよ」
 薫子は、今まで紫乃が側に居たからこそ、恙無く暮らしてこられたことを改めて感謝した。身体の弱い自分の代わりに、厳しい義母の濤子とも上手く接して助けてくれた。光祐と祐里の世話や広い屋敷の家事一般、奉公人の取り纏め及び出入人の采配を引き受け、家族が気持ちよく暮らせるように心配りをしてくれた。薫子は、啓祐に寄り添い、紫乃に甘えて、今日までこられたのだった。
「坊ちゃまと祐里さまがおしあわせになられましたので、今の紫乃は、奥さまとご一緒させていただけることが何よりのしあわせでございます」
紫乃は、温かな微笑みを湛えて、台所におやつを取りに行った。

夜になって、啓祐と光祐が一緒に帰って来た。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
 車の音がすると家族が一斉に玄関に集まり、声を揃えて啓祐と光祐を迎えた。
「美味しい匂いがしているね。紫乃、今夜の夕食は何だろうね」
 啓祐が鞄を薫子に渡しながら、後ろに佇む紫乃に問いかけた。
「本日は、旦那さまの好物にいたしました。ご用意が出来ておりますので、食堂にいらしてくださいませ。もちろん、デザートは、坊ちゃまの好物をご用意いたしております」
 紫乃は、啓祐と光祐に微笑んで、お屋敷の家族の一員であることでこころが満ち足りて、ただただしあわせだった。
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 7

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
  笙子〈しょうこ〉

 笙子は、忘れ物のように華奢な身体を小さくして、ちょこんと後部座席に座っていた。その姿が柾彦にはなんとも可愛らしく感じられた。
「鶴久先生、お仕事の途中に送っていただきまして、申し訳ございません」
 俯き加減のまま、笙子は、小さな声で呟いた。
「柾彦でいいですよ。帰り道だから、気にすることはありません。笙子さんは、東野まで帰るの」
 柾彦は、笙子を寛がせようと明るい声で話しかけた。
「はい」
 笙子は、思いがけず柾彦と二人だけになり、恥ずかしくてどきどきしていた。今まで殿方と二人だけになることなどなく、まして車内の空間は、笙子の高鳴る鼓動が柾彦に聞こえてしまいそうに接近していた。
「この時間だとあと一時間近く、列車が来ないはずですよ。一度、病院に戻って急患が無ければ、このまま、東野まで送りましょう」
 柾彦は、笙子の返事を待たずに、病院の方角へ曲がった。
「それでは、柾彦さまにご迷惑でございます。私は、待つのには慣れてございますので、ご心配なさらないでくださいませ」
 笙子は、驚いて、申し訳なさで尚更瞳を潤ませた。
「今日は気持ちのいい晴天なので、気分転換に車を走らせてみたくなっただけで、笙子さんを送っていくのはついでですから、気にしないで」
柾彦は、病院玄関の車寄せに駐車して、受付係の倭子(しずこ)に一時間ばかり出てくることを伝えると、白衣と上着を交換して車に戻ってきた。笙子は、申し訳なさそうに後部座席に静かに座って待っていた。
「お待たせしました。急患は、ありませんでした」
 柾彦は、運転席に座ると振り向いて、笙子が打ち解けるように、元気な笑顔で声をかけた。笙子は、白衣を脱いだ柾彦に少し寛いだものを感じた。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
 笙子は、瞬きをしながら柾彦の瞳を見つめて、少しだけ微笑んだ。柾彦は、笙子と一緒に居ることでほんのりとした気分を味わっていた。車内には和やかな空気が流れていた。
「ぼくには、六つ下の妹がいましてね。この秋に嫁いだのですが、笙子さんは、幾つくらいですか。あっ、女性に歳を聞いては失礼でしたね」
 柾彦は、妹の志子(ゆきこ)と笙子を比べていた。志子は、母の結子によく似た明るく活発な性格だった。
「志子さまでございますね。同い年でございます。女学校では組が違っておりましたが、志子さまは、はきはきとされてございましたので存知上げております」
 笙子は、柾彦が志子にとって、自慢の兄ということも知っていた。
「志子と同じ年だったのですか。桐生というと呉服屋の桐生屋さんなの」
 市松人形のようにしっくりと着物が馴染んでいる笙子を車内の鏡で見ながら、柾彦は問いかけた。
「はい、さようでございます」
 笙子は、姿勢を正したまま静かに頷いた。
「どうりで着物がしっくり似合っているわけですね。いつも、着物を着ているの」
 対向車を避けるために片側に停車して、柾彦は、鏡越しの着物姿の笙子をゆっくりと見つめた。柾彦は、日常的に洋装の結子と生活しているので、着物姿の笙子が新鮮に感じられた。
「はい。物心ついた頃からでございます」
 笙子は、柾彦の質問に答えながら、少しずつ、柾彦に打ち解けていった。
 柾彦は、偶然に出合った笙子とこれほど会話が出来るとは思ってもみなかった。それどころか、東野に近付くにつれて、笙子のことを愛しいとさえ思っている自分に驚いていた。こころなしか車の速度がゆるやかになっていた。
「笙子さん、着きましたよ」
 柾彦は、桐生屋の手前で車を停め、後部座席の扉を開けて、笙子を降ろした。
「柾彦さま、本日は、誠にありがとうございました。お礼と申しましては失礼かと存じますが、華道展のご招待券でございます。よろしゅうございましたら、是非、お母さまとご一緒にいらしてくださいませ」
 笙子は、巾着袋から華道展の招待券を二枚取り出して、柾彦に手渡した。そして、深々とお辞儀をして、柾彦に笑顔を向けた。
「こちらこそ、楽しいドライブでしたよ。また、縁があるといいですね」
 柾彦は、爽やかな笑顔を笙子に向け、車を発進させた。柾彦の車が角を曲がるまで、笙子は、その場に佇んで見送りながら、色白の頬を紅色に染め、胸が高鳴るのを感じていた。柾彦は、角を曲がると腕時計に目をやり、思いのほか時間が経っていることに気付き、慌てて車の速度を上げて帰路に着いた。笙子は、しばらく、柾彦の車が去った方角を見つめて佇んでいた。偶然の巡り合わせで、初恋の感情が芽生えていた。今まで、笙子にとって、結婚相手は、父が決めるものとばかり思っていた。現に父は、口には出さなかったが、桐生屋の奉公人の倉三郎と笙子を結婚させて、暖簾分けをするつもりでいるらしかった。
「お嬢さま、お帰りなさいませ。車でお帰りでございましたか」
 倉三郎が、車の音を聞きつけて店先に顔を出した。
「ただいま帰りました。萌先生のお知り合いの方が、お送りくださいましたの」
笙子は、紅潮した顔を倉三郎に気付かれないように俯き加減で返答した。
「お嬢さま、お荷物をお持ちいたします」
 倉三郎は、笙子の花包みを受け取った。今の今まで、笙子は、倉三郎と結婚することに、何の疑問も持ち合わせていなかった。父の意向は絶対的なもので、倉三郎は働き者で客受けもよく、何よりも笙子に優しかった。けれども、笙子は、この瞬間、柾彦に恋をした自分に気が付いた。

 翌週の日曜日に、東野の久世華道会館で、盛大な華道展が催された。柾彦は、母を誘って、笙子に会う為に華道展に出かけた。
 久世春翔と萌は、来客の応対で忙しく会場を飛び回っていた。
 柾彦は、受付の後方に佇む笙子を見つけて会釈した。笙子は、柾彦の笑顔に見つめられ、恥ずかしげに俯いて、柾彦に近付いた。
「柾彦さま。いらしてくださいまして、ありがとうございます」
 笙子は、丁寧に感謝の気持ちを込めてお辞儀をした。
「こちらこそ、ご招待ありがとう。母上、久世のお弟子さんで、本日ご招待してくださった桐生笙子さんです。笙子さん、母です」
 柾彦は、笙子を結子に紹介した。
「はじめまして。鶴久結子でございます」
 結子は、珍しく柾彦から華道展に誘われ不思議に思いながら、恋愛において堅物の柾彦から女性を紹介されるとは思いもよらず驚いていた。驚きながらも、結子は、笙子を観察していた。見事な錦秋文様の振り袖姿の笙子は、頬を染め、柾彦を恋する瞳で見つめていた。娘の志子が同級生の笙子のことを『祐里に雰囲気が似ている』と言っていた事を思い出していた。
「はじめてお目にかかります。桐生笙子でございます」
 笙子は、緊張しながら、結子に深々とお辞儀をした。
「母上、笙子さんに会場を案内していただきましょう。笙子さん、お願いするよ」
柾彦は、笙子の瞳を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「はい。お母さま、柾彦さま、こちらからご案内申し上げます」
 笙子は、春翔の作品から順に案内していった。
 その少し後に薫子と祐里は、華道展を訪れた。
「萌さん、ご招待ありがとうございます。ご立派な作品展でございます」
 薫子は、会場で忙しく動き回っている萌を見つけ、労いの言葉をかけた。
「萌さま。ご招待ありがとうございます。ご盛況で何よりでございます」
 祐里は、盛況ぶりを薫子と一緒に喜んでいた。
「叔母さま、祐里さま、ご来場ありがとうございます。祐里さま、あちらをご覧になってくださいませ。お似合いでございましょう」
 萌は、薫子と祐里に礼を述べ、柾彦と笙子が並んで楽しそうに話をしているところを微笑みながら指し示した。
「柾彦さまと桐生屋さんのお嬢さまでございますね。微笑ましゅうございますね」
 祐里も萌同様、柾彦がしあわせそうな笑顔でいることが嬉しかった。そして、柾彦に恋の春が訪れたことを感じていた。
「柾彦さんもその気になられたようでございますね。結子さまもこれで、一安心でございましょう」
 薫子は、結子の気持ちになって喜んでいた。
 しばらくして、薫子は、柾彦と笙子の熱気に当てられている結子に声をかけ、恋する二人に配慮した。
「柾彦さん、私は、薫子さまとお食事をして帰りますので、ここで失礼しますね。笙子さん、ご案内ありがとうございました。是非、遊びにいらしてくださいね」
「はい、喜んで伺わせていただきます。本日はお越しくださいましてありがとうございました」
 結子は、笙子に挨拶をして、薫子と祐里とともに会場を後にした。柾彦は、祐里と同じ会場にいながら、祐里の姿に気付かなかった。柾彦と笙子は、一緒に会場を回るだけで楽しく感じていた。大勢の来場者の中にあって、そこは二人だけの世界が広がっていた。
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 6

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   萌〈もえ〉

 霜月に入り、桜の樹の葉が茜色に染まり、静かな華やぎを見せていた。
「萌さん、こんにちは。春翔は、相変わらずですか。よろしければ、送りましょうか」
 柾彦は、往診の帰りに星稜時代からの悪友・久世春翔(くぜはると)の妻・萌を見かけて声をかけた。萌は、女学校を卒業すると同時に幼馴染みの華道家・久世春翔と結婚し、一女二男の母になっていた。春翔は、久世家の一人息子、萌は、東野家の一人娘の結婚ということで、二男は東野家の後継ぎとして東野姓を名乗っていた。
「柾彦先生。ごきげんよう。春翔は、相変わらず、あちらの華、こちらの華と、女性の間を飛び回ってございます。ひとつの華では、満足できないらしくて。これから、銀杏亭の生け込みでございますの。銀杏亭までお送りいただいて、よろしゅうございますか。こちらは、桐生笙子さんで、いつも私のお供をしてくださいますの」
 東野地所の一人娘として絢爛豪華に育てられた萌は、結婚してからも生家の後ろ楯を享受し、華道家の妻としての華やぎを醸し出していた。春翔の女好きは評判だったが、萌は、妻としてしっかりと春翔を支えていた。萌の大輪の菊と牡丹の艶やかな着物姿は一際目を惹いた。柾彦は、萌の陰に隠れて気付かなかった、笙子の姿を初めて目にした。
「桐生笙子でございます」
 若い笙子は、紫苑色の振り袖姿で、恥ずかしそうに萌の後ろに佇んでいた。
「鶴久柾彦です。さぁ、どうぞ」
 柾彦は、車から降り、後部座席の扉を開けて、萌と笙子を車に乗せた。
「柾彦先生、私を銀杏亭で降ろしてくださった後に、笙子さんを桜川の駅までお願いしてもよろしゅうございますか」
 萌は、遠慮なく柾彦に頼んだ。
「ちょうど帰り道ですから、お任せください」
 柾彦は、気軽に応じた。
「ありがとうございます。柾彦先生は、ますます、ご立派になられましたね。いつまで、独身を通されるのでございますか」
 萌は、それとなく笙子に、柾彦が独身であることを示した。先日より、おせっかいやきの杏子から、柾彦の縁談について相談を受けていた。萌は、立派な頼もしい柾彦が、どうして結婚しないのか不思議でならなかった。
「別に独身を通しているわけではありませんよ。縁が無いだけです」
 柾彦は、萌の唐突な質問に、ハンドルを切りながら苦笑した。
「柾彦先生が、お気づきになられてないだけではございませんの。ねぇ、笙子さん、素敵な男性でございましょう」
 萌は、隣に黙って座っている笙子に、意味ありげに囁いた。
「はい」
 笙子は、薄っすらと頬を染めて、俯き加減で同意した。
「萌さん、誉めていただいてありがとうございます。さあ、銀杏亭に着きましたよ」
 柾彦は、車を降りて、後部座席の扉を開けた。
「柾彦先生、ありがとうございます。笙子さんのことをよろしくお願いします。笙子さん、それでは、ごきげんよう」
 萌は、自身の見立ては間違いではなかったと、こころ踊る気分になった。柾彦の好みは、祐里のように慎ましやかな女性と心得ていた。
「萌先生、私も銀杏亭にお供いたします」
 笙子は、萌が車から降りると、初対面の柾彦と二人きりになることが心細く感じられて、慌てて萌の後を追った。
「今日は、銀杏亭で杏子さまとお話がございますので、笙子さんは、ご遠慮していただけるかしら」
 萌は、ここで笙子に車を降りられては大変と思い、慌てて車の扉を閉めた。
「萌先生・・・・・・」
 笙子は、心細さで瞳を潤ませた。
「それでは、萌さん、杏子によろしく伝えてください。笙子さんのことは、任せてください」
 柾彦は、萌に会釈をして、運転席に戻った。
 萌の姿を見つけた杏子が銀杏亭から出てきて、二人は、柾彦の車を見送りながら、手を取り合って歓声を挙げた。
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 5

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   祐雫〈ゆうな〉

 祐雫は、白百合女学院小学校の六年生に進級した。父の光祐よりまっすぐな性格を受け継ぎ、成績優秀で(どうして長女の私は、桜河家の後継ぎにはなれないのかしら)と不思議に感じていた。同級生たちは、流行の洋服や髪型のこと、星稜学園小学校の誰某が素敵という話ばかりで、話を合わせてはいたがどこか物足りなさを感じていた。
 土曜日の放課後、祐雫は、よき理解者である柾彦を頼って、鶴久病院を訪れた。祐雫が病院の扉を開けると、受付係の倭子(しずこ)が笑顔を向けた。
「祐雫さん、こんにちは。柾彦先生は、今、ご自宅へ戻られましたよ」
「こんにちは。ごめんくださいませ」
 祐雫は、受付係の倭子にお辞儀をして、自宅へ続く廊下を進んだ。柾彦は、自宅前で秋の和かな日差しに輝く桜の樹を見上げていた。十数年前に桜河のお屋敷から譲り受けた挿し木は見事な枝振りに成長していた。それとともに鶴久病院は、益々発展していた。
「こんにちは、柾彦先生。お腹が空いたので来てしまいました」
 祐雫は、にっこり笑って柾彦に駆け寄った。
「雫姫(しずくひめ)。ようこそ、鶴久城へ。母上さまに断ってきたの。また、内緒にして来たのでしょう」
 柾彦は、祐雫の頭を撫でて微笑み返した。祐雫は、初めて出会った頃の祐里に顔立ちがよく似てきていた。ただ、祐雫は、はきはきとした性格で、生まれながらにして桜河のお嬢さまとして誰にも臆することなく育った風格を備えていた。柾彦は、玄関の扉を開けて、祐雫を自宅に通した。
「ただいま、母上。雫姫も一緒なのだけれど」
「こんにちは。おばさま。おいしそうな匂いに釣られて来てしまいました」
 玄関の扉を開けると、昼食の美味しそうな匂いが立ち込めていた。
「お帰りなさいませ、柾彦さん。祐雫ちゃん、いらっしゃいませ。ちょうどよかったですわ。お昼を作りすぎてしまって困っていたところでしたのよ。祐雫ちゃんの鼻は、よく利きますのね」
 結子は、祐雫の鼻に軽く手を当てた。
「また、姫に内緒で来ているから、母上、電話を入れてください。姫が心配している頃だろうから」
「祐里さんを心配させてはいけませんものね」
 結子は、祐里に電話をかけてから、昼食を食卓に並べた。
「柾彦さん、祐里さんがよろしくお願いしますとのことでした。祐雫ちゃん、どうぞ、たくさん召し上がれ」
「いただきます」
 祐雫は、結子の作る洋食が大好きだった。
「優祐くんは、家に戻ったの」
「はい。午後から、剣術のお稽古でございます。優祐は、母上ご自慢のよい子でございますもの」
「まぁ、祐雫ちゃんがお姉さまのようですわね」
 結子が声高に笑う。
「おじいさまが、優祐を兄とお決めになられたので、祐雫は妹でございますが、双子なので、祐雫が姉でもよろしゅうございましたのに」
 祐雫は、口を尖らせた。
「雫姫は、ご機嫌斜めだね。何かあったの」
 柾彦は、食事を終えて、祐雫を居間の長椅子に座らせた。
「祐雫は、なんだかつまりません」
 柾彦は、祐雫のことを姪のように感じていた。
「祐雫は、今の学校では退屈ですの。優祐のように、もっともっと勉強がしたいのです」
 祐雫は、自身の宿題を終えると、優祐の教科書を借りて勉強し、向学心に燃えていた。
「そうだったの。雫姫は、勉強が好きだったのか」
 柾彦は、祐雫を抱きしめた。
「柾彦先生の匂いがいたします。消毒液の匂い。お医者さまになるのもよろしゅうございますね」
 祐雫は、柾彦の腕の中で、小さな希望を見出していた。
「まぁ、それはよろしゅうございますわ。柾彦さんときたら、相変わらずの堅物で鶴久病院の後継ぎができませんもの。祐雫ちゃんが後継ぎになってくだされば、鶴久病院も安泰ですわ」
 結子は、食卓を片付けながら、喜びの声をあげた。
「母上は、また、そのような夢の話をされて。雫姫は、桜河家の大切な姫ですよ。光祐さんから叱られます。雫姫、進路については、父上さまとよく相談をするといいよ」
 柾彦は、母の発言を窘めながら(ぼくが、もう少し若ければ、雫姫に恋をしていたかも知れない)と祐雫の中に受け継がれる祐里の面影に、こころの中で呟いていた。

 その夜、光祐は、祐雫の部屋の障子越しに声をかけた。剣術の稽古で疲れた優祐の部屋の明かりは消えていた。
「祐雫、まだ、起きているの」
「父上さま」
 祐雫は、机から立ち上がり、障子を開けて、光祐を部屋の中に入れた。
「勉強をしていたのかね。祐雫は、勉強熱心だものね。この頃、祐雫がつまらなそうにしているのが気になっていたのだよ」
 光祐は、長椅子に座り、隣に祐雫を座らせた。
「祐雫のことを気にかけてくださったのでございますか」
「もちろんだとも。可愛い私の子どもだからね」
 光祐は、優しい笑顔で大きく頷いてみせた。
「祐雫は、優祐のようにもっともっとお勉強がしとうございます。母上さまは、いつも女の子らしくが口癖で、祐雫にお手伝いばかり仰せになります」
 祐雫は、光祐の深い愛情を感じて、こころに陽が差し込んだ気分になった。
「そのようなことはないだろう。祐雫のことを一番心配しているのは、母上だよ。母上は、心配を表情に出さないひとだからね。それに、手伝いは勉強と同じように生きていくためには大切なことなのだよ。母上は、祐雫だけではなく、優祐には男らしくと他の手伝いをさせているし、祐雫は、これから様々な体験をして、日々成長していくのだから焦ることはないのだよ」
 光祐は、自己主張をするようになった祐雫の成長を感じていた
「おじいさまもおばあさまも優祐も婆やも爺も、母上さまのことばかり。祐雫のことなんて誰も気にしてくださらない」
 祐雫は、口を尖らせた。
「なんだ、祐雫は、母上にやきもちをやいていたのか。ほら、そのような顔をしていると可愛い顔が台無しだよ」
 光祐は、幼さの残る祐雫の肩に手をまわして抱き寄せてから、瞳を見つめて話をした。
 「母上は、家族皆の宝物だからね。その母上が一番気にしているのが、祐雫のことなのだから。となると、祐雫こそが家族の宝物の中の宝物ではないのかね」
 光祐は、祐里と競おうとする祐雫の女性としての成長の早さに驚いていた。
「祐雫が、宝物の中の宝物。父上さまのおっしゃることはよく分かりません」
 祐雫は、不思議な顔をして光祐を見つめた。光祐は、優しく祐雫の黒髪を撫でた。
「学問では、教えてくれないことだからね。祐雫、外の桜の樹を見てご覧。三百年以上ここにいて、ずっと桜河の家を見守ってくれているのだよ。嬉しいことも楽しいことも、怒りや悲しみさえ、一緒に感じてくれている。母上は、この桜のようなひとなのだよ。祐雫もそのうち、母上のようになれるのだからね。焦ることはない。優祐は、優祐らしく、祐雫は、祐雫らしく、育っていけばいいのだよ。そして、何かあれば、私や母上に相談してくれると嬉しいね」
「祐雫は、祐雫らしくでございますか」
「そうだよ」
 光祐は、大きく頷いて、しばらくの間、祐雫を黙って抱きしめていた。祐雫は、光祐の広い胸の中で、満開の桜の花に包まれているような優しい心地を感じていた。
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 4

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
  美月〈みづき〉

鶴久病院の職員出入り口に、美月は、大きな鞄を手に佇んでいた。
「柾彦さま、来てしまいました。柾彦さまのいない日々は、私には耐えられません」
 教授の娘の檜室美月だった。柾彦を真っ直ぐに見つめる美月の瞳には、大粒の涙が溢れていた。
「美月さん、突然にどうしたのですか」
 柾彦が医師として鶴久病院に戻って来てから、八ヶ月が経とうとしていた。柾彦は、ただただ驚いていた。教授の家には、数回招待されて伺ったことがあり、もちろん美月ともその時に会話を交わしたことはあったが、交際をしていたわけではなかった。柾彦にとっては、教授の娘という認識しかなかった。
「お見合いのお話がすすんでおります。私は、柾彦さまに嫁ぎたく思います。檜室の家には、もう戻らぬ覚悟で参りました」
 美月は、熱い想いを柾彦にぶつけて、柾彦の広い胸に飛び込んだ。
「美月さん、ぼくには、おっしゃっている事がよく理解できないのですが、落ち着いて話をしてください。とにかく、ここでは話ができませんので、家へどうぞ」
柾彦は、美月の大きな鞄を受け取り、自宅に招き入れた。母の結子が所用を済ませて帰って来るまでに話を終わらせたかった。美月を居間の長椅子に座らせて、落ち着くように熱い紅茶を入れた。柾彦自身も熱い紅茶を飲んで落ち着きたい心境だった。柾彦は、紅茶を一口飲んで深呼吸をした。
「美月さん、ぼくは、あなたの名前と教授の娘さんであることくらいしか知りません。それなのにぼくと結婚するなど理解に苦しみます」
 柾彦は、美月を傷つけないようにするにはどうしたらいいのか、頭の中で考えていた。
「美月では駄目ですか。それとも、既にどなたかいらっしゃるのですか」
 美月の瞳からは、ぽろぽろと真珠のような涙が、次から次へと零れていた。柾彦は、不思議な気分でその様子を眺めていた。どなたかと問われて、想い描くのは祐里の顔・・・・・・柾彦は、突然の美月の想いに戸惑うばかりだった。
「美月さん、ぼくは本当にあなたのことを何も知らないのです。とにかく涙を拭いてください。目が腫れてしまいますよ」
 柾彦は、白衣のポケットからハンカチを取り出して美月に渡した。
玄関の呼び鈴が鳴り、柾彦があたふたと扉を開けると、祐里が立っていた。
「柾彦さま、こんにちは。紫乃さんの作ったお彼岸のおはぎを御裾分けにお持ちいたしました。おばさまは、いらっしゃいますか」
 祐里は、玄関に揃えられた女性の靴に目を落とした。
「姫、ありがとう。母上は、外出していて、もうすぐ戻ってくると思うのだけれど」
柾彦は、祐里に助けを求めたい気持ちと美月のことをどのように紹介すればいいのか分からない気持ちの中で戸惑っていた。
「柾彦さま、お客さまでございましたら、私は、ここで失礼いたしましょうか」
 祐里は、柾彦の決まりの悪そうな様子に配慮した。
「姫、どうか、帰らないで。とにかく、どうぞ、上がってください」
 柾彦は、慌てて祐里を招き入れて、美月の前に案内した。
「こちらは、教授のお嬢さんの檜室美月さんです。美月さん、桜河祐里さんです」
 祐里は、泣いている美月と困惑している柾彦を見つめた。
「この方が、柾彦さまの婚約者ですか」
 美月は、ハンカチで涙を拭きながら、挑むような瞳を祐里に向けた。
「そうですよ。だから、美月さんは、落ち着かれたら、家に戻ってください」
 柾彦は、美月の勘違いを肯定して、とっさに嘘をついていた。祐里は、その場の状況がよく呑み込めずに佇んでいた。一途な美月の想いがその視線から感じられた。柾彦は、今ようやくその想いに気付いた様子だった。祐里は、柾彦から美月に視線を移した。真っ直ぐに祐里を見つめる瞳からは、大切に育てられた雰囲気と勝ち気な性格が感じられた。
「ただいま帰りました。祐里さんがいらしているの。ちょうど、美味しいケーキを買ってきましたのよ」
 結子は、玄関に揃えられた女性の靴に目を留めて、祐里が来ているのだと思い込んだ。恋愛において堅物の柾彦に女性の影は皆無だった。結子は、居間の扉を開けると言葉を失った。知らない女性が柾彦の前で涙を流し、祐里が側に佇んでいた。
「おばさま、お留守にお邪魔しております」
 祐里は、結子に挨拶をして、再び柾彦に視線を向けた。
「母上、あの、この方は、檜室教授の娘さんで、美月さんです」
 柾彦は、結子の声に驚いて、赤面しながらあたふたと美月を紹介した。
「お母さまですか。初めまして、檜室美月と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
 美月は、ハンカチを瞳に当てながら、立ち上がって結子にぺこりとお辞儀をした。
「祐里さん、いらっしゃいませ。美月さん、柾彦の母の結子でございます」
 結子は、落ち着きのない柾彦と泣いている美月を交互に見つめて、この場の状況の理解に苦しんでいた。
「お母さま、お見合いの日に家を出て、柾彦さまの元へ参りました。私には柾彦さましか頼る方がいないのに、祐里さんという婚約者がいらしたのですね」
 美月は、再び、大粒の涙を零した。驚く結子に柾彦は、大きく首を横に振った。理解に苦しみながらも結子は、柾彦の態度で状況が読めてきた。それから、ゆっくりと美月に目を留めた。柾彦を頼ってきた美月がいじらしく思えた。
「まぁ、びっくり。そんなに泣いては、可愛いお顔が台無しですわ。柾彦さんのことをこれほどに慕ってくださって、母として嬉しいばかりです。お父さまやお母さまが心配されてございましょうが、折角いらしたのですから、ゆっくりお話をいたしましょう」
「母上、それは」
 柾彦は、母の対応に驚いていた。
「柾彦さん、女性を泣かせるなんて殿方のなさる事ではございませんわ。すぐに美月さんを追い返しても何も解決いたしません。美月さんが落ち着くまで、いていただきましょう。そうと決まれば、美味しいケーキを皆でいただきましょうね」
 結子は、美月に優しく微笑んで、ケーキの箱を抱えて台所へ向かった。
「おばさま、お手伝いをいたします」
 祐里は、おはぎの重箱を抱えて、結子の後ろに続いた。
 柾彦は、美月と結子の波長に巻き込まれたように感じていた。六つ下の妹の志子(ゆきこ)は、美月と同い年で、この秋に嫁いだばかりだった。志子を嫁に出して平気な顔をしていた結子だったが、やはり淋しさを感じていたのだろうか。好き嫌いをはっきりさせる結子が、美月を追い返さなかったことを不思議に思っていた。結子は、あの祐里を抱きしめた日、なにも気付かないそぶりを見せながら、やはり、自分の祐里への恋慕に気付いたのだろうか。柾彦は、結子のこころの内を推量しながら、今まで教授の娘としか認識していなかった美月を女性として改めて見つめた。不自由なく育ち、自己主張をしっかりと表現出きる女性。そのような女性は、大学時代にいくらでもみてきた。しかし、柾彦の求めている女性ではないような気がしていた。
「祐里さん、紫乃さんのおはぎですね。ありがとうございます。それにしても、柾彦さんも隅におけませんね。柾彦さんには、押しかけ女房がお似合いなのかもしれませんわ」
 結子は、祐里から重箱を受け取り、笑顔を見せながら、居間の様子を覗った。

夕方になり、美月は『今日のところは家に帰って教授と話し合うように』と柾彦に説得され、祐里を迎えに来た車に同乗して、後ろ髪をひかれる想いで桜川の駅に向かった。
「祐里さんは、柾彦さまとは幼馴染みなのですか」
 美月は、柾彦がずっと祐里に恋して過ごしてきたことを感じていた。柾彦の視線は、いつも祐里に注がれていた。それに結子も、祐里に好感を抱いているのが感じられた。そして、祐里は、その場に然るべく存在していた。
「柾彦さまとは、十六の時にはじめてお会いしました。それからは、何時も優しく見守ってくださる大層頼もしいお方でございます」
 祐里は、一途な美月の強い想いを感じていた。
「私は、はじめてお会いした時から、柾彦さまが好きになりました。でも、柾彦さまは、私を教授の娘としか見てくださらなくて。片思いなのに押しかけてきてしまいました」
 祐里の前では、美月は、自身が色あせていくように感じていた。
「さようでございましたの。ご自分のお気持ちを大切になさって、お父上さまとよくお話し合いをされるとよろしいかと存じます。美月さまのしあわせをお祈り申し上げます」
 祐里は、優しい微笑を湛えて、美月の今後のしあわせを願った。
桜川の駅で、美月は、祐里に礼を言い、都への帰途についた。
 美月は、帰りの列車の中で、違和感を覚えていた祐里の左の薬指に光る指輪を思い出して、桜河という名字から、数年前に都で人気を博しながら、里の娘と結婚した桜河光祐の妻だということに気付いた。そして、美月を帰す為に柾彦が嘘を付いた事を真摯に受けとめた。
#ブログ

People Who Wowed This Post

◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の恋◆ 3

thread
◇◇◇桜物語◇◇◇  ◆柾彦の...
   恋慕

 毎週水曜日の午後、祐里は、鶴久病院の入院患者を見舞う奉仕活動をしていた。以前に祐里が知人の見舞いに訪れた病室で『祐里さまが病室にいると、気分がよくなり痛みが和らぐようだ』という入院患者の声を聞きつけた結子が、試しに祐里に依頼したところ、不思議なことにどの病室からも歓迎されたのだった。祐里も入院患者が楽しみにしているのを知り、喜んで見舞っていた。
「ご機嫌いかかでございますか」
 祐里は、病室を廻り、手を握ったり、痛いところを撫でたりして、ひとりひとりに優しく話しかけた。祐里の慈悲のこころは、入院患者を元気付け、しあわせな気分にしていた。その評判は、口から口に広がり、鶴久病院は、ますます、受診者が増えていた。
祐里は、見舞いを終えて、副院長室前の廊下で柾彦に出会った。
「姫、お疲れさま。珈琲をご馳走しますよ」
 白いワンピース姿の祐里は、病院の廊下に差し込む秋の和かな陽射しに輝いていた。柾彦は、昨夜から急病の患者にかかりきりで、心身ともに疲れていた。杏子から結婚話を突かれたことも影響してか、こころが祐里の優しさを求めていた。
「柾彦さま、お疲れさまでございます。お心遣いありがとうございます」
祐里は、柾彦の後から副院長室に入って、静かに扉を閉めた。突然、柾彦は、我を忘れて力強く祐里を抱きしめた。祐里は、消毒液の匂いに包まれた。柾彦は、祐里の温もりと甘い香りに包まれながら、しあわせを感じていた。
「柾彦さま、何かございましたの」
 祐里は、柾彦の今までにない行為に驚きながらも、母のような優しい声で柾彦を包んだ。柾彦からは、心身の疲労と激しい恋慕が感じられた。
「姫、しばらくの間、このままでいてもいいですか」
柾彦は、祐里の耳元で囁き、自分の行為を恥じながらも(姫を離したくない。今だけでもぼくの姫なのだから)と強く思っていた。窓の外では、桜の樹が心配して、秋風にさわさわと葉音をたててそよいでいた。
「はい」
 祐里は、柾彦の心労を感じ、柾彦の背中に手を回して (いつも、優しく守ってくださる柾彦さま。いかがされたのでございますか)とこころの中で呟いた。祐里は、柾彦が大好きだった。光祐への愛とは全く違う愛情を感じており、失いたくない存在だった。柾彦が自分を好いていることは感じていた。勿論、光祐の妻として、それに応えることは出来なかった。それでも、柾彦との楽しい時間を失いたくはなかった。祐里は、自分のその想いが柾彦を苦しめていることを改めて感じ(柾彦さまの優しさに甘えてばかりの私がいけないのでございます)と自身を責めていた。
 柾彦は(このまま時間よ止まっておくれ)と強く念じていた。
その時、扉が叩かれた。
「はい。どうぞ」
 柾彦は、驚いて反射的に祐里を離し、返事をした。
「祐里さん、こちらでしたのね。お茶にお誘いしようと思って捜しておりましたのよ。柾彦さんも一段落したらいらっしゃい」
 結子は、柾彦の動揺した顔に気付きながらも、明るく祐里に声をかけた。
「はい、おばさま。お誘い、ありがとうございます。柾彦さまとのお話が終わりましたら、すぐに伺います」
 祐里は、落ち着いた笑顔を結子に向けた。
「それでは、お茶の準備をして待っていますね」
 結子は、すぐに扉を閉めて廊下へと消えた。廊下に出ると、しばらくの間、壁に凭れて、柾彦の一途さを不憫に思い、柾彦の祐里に対する恋慕を憂慮していた。
 柾彦は、扉が閉まると同時に長椅子に崩れるように座り込んで、両手で顔を蓋った。
「柾彦さま。いつもお元気な柾彦さまがそのようなお顔をなさると、私も元気がなくなってしまいます。柾彦さまは大層お疲れでございますのね」
 祐里は、長椅子の隣に座って、柾彦をふんわりと優しく抱きしめた。柾彦の激しい恋慕と祐里の穏やかな慈悲のこころが交錯して、二人を切なく包んでいた。そのうちに祐里の慈悲のこころが、柾彦の疲れたこころをゆっくりと癒していった。
「姫、大変失礼な事をしました。本当に申し訳ない。どうか許してください」
「柾彦さま、私は何も気にしてございません。大丈夫でございますね。おばさまがお待ちでございますので、お茶に参りましょう」
しばらくして、柾彦は、我に帰ると祐里に深く頭を下げて非礼を詫びた。そして、祐里に促されて、自宅で結子と共にお茶の時間を過ごした。

 祐里が鶴久病院を出ると、珍しく、学校帰りの優祐が佇んでいた。
「母上さま。そろそろ、お帰りの時間ではないかと待っていました」
 優祐は、学校が終わると、急に胸の内が葉の擦れるようなさわさわとした気分に陥り、祐里のことが気になって、通学路から外れた鶴久病院に足を向けた。
「優祐さん、ありがとうございます。ご一緒に帰りましょう」
 祐里は、微笑んで、優しい母の表情を優祐に向けた。優祐の気遣いが嬉しかった。優祐は、成長期に入り、いつの間にか祐里と同じくらいの背丈になっていた。祐里は、優祐と並んで、桜川の土手沿いの道を歩いた。
「母上さまは、柾彦先生と友だちだから、病院のお手伝いをされているのですか」 
 優祐は、微かに消毒液の匂いの残る祐里に思いきって問いかけた。大好きな祐里を柾彦や入院患者に横取りされたように感じながらも、そのように思うこころの狭い自分を恥じていた。
「優祐さんは、柾彦先生を好きでございますか」
「はい。お会いすると、楽しいお話をたくさんしてくださって、元気付けられますので大好きです」
 祐里は、微笑みながら優祐に問い返した。優祐は、青空のように清々しい柾彦を思い出していた。
「私も柾彦先生にいつも元気をいただいてございます。柾彦先生は、お友だちと申し上げるよりも、兄妹のような・・・・・・優祐さんにとっての祐雫さんのような感じでございますね」
 祐里は、優祐に答えながら、自身の胸にも言い聞かせていた。
「それに、病院のお手伝いをさせていただいているのではございませんのよ。ただ、入院されている方とお話をさせていただいてございますの」
 優祐は、自身の狭いこころを反省し(母上さまは、神さまのようなお方です)と祐里の慈悲深いこころに感じ入っていた。

 その夜、子どもたちが就寝してから、光祐は、祐里の横に座って優しく声をかけた。
「祐里、何かあったの」
「いいえ・・・・・・何もございません。光祐さま、祐里は、いつもと違うてございますか」
 祐里は、普段通りに振る舞っていたつもりが、光祐に気付かれたことに困惑していた。
「いや、いつもの祐里だよ。何もなければそれに越したことはないけれど、ひとりで辛い事を抱え込む性分の祐里のことだから、心配事でもあるのかと少し感じたものだから。ぼくの大切な祐里だもの、誰よりも祐里のことは分かっているよ。ぼくは、いつでも祐里を信じて見守っているから、祐里が信じる道を行きなさい」
 祐里は、静かに光祐の肩に頭を擡げて寄り添った。光祐の深い愛情が感じられた。
「祐里は、光祐さまのお側に居させていただくだけで、しあわせでございます」
 祐里は、こころがしあわせで満たされていくのを感じていた。
「ぼくのしあわせは、祐里がしあわせでいてくれることだよ」
 光祐は、それ以上は何も追及せずに、祐里の肩に手をまわして力強く抱きしめた。祐里は、光祐の愛に包まれて自信を取り戻していた。(光祐さま、祐里は自身を信じて、そして、柾彦さまを信じて、いままで通りのお付き合いをして参ります)とこころに誓った。
#ブログ

People Who Wowed This Post

  • If you are a bloguru member, please login.
    Login
  • If you are not a bloguru member, you may request a free account here:
    Request Account
Happy
Sad
Surprise