79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん(2022/2/2 北見局記者 徳田亮祐) 「ああ、兄ちゃんが帰ってきた」 ぼろぼろに破れて色あせた日章旗を受け取った時の気持ちを女性はそう語りました。 令和3年(2021年)11月、アメリカから北海道北見市に住む女性のもとに、突然、日章旗が届きました。79年前、太平洋戦争の激戦地ガダルカナル島で23歳の若さで戦死した兄が持っていたものでした。 日章旗を「兄ちゃん」と呼んだ女性は、戦後をどのように過ごしてきたのだろう。 そして、なぜ、旗はアメリカから突然返還されたのだろう。 多くの疑問を解くため、「79年ぶりの兄の帰還」の取材を始めました。 「兄ちゃん」のことが知りたい 日章旗を「兄ちゃん」と呼んだ女性、北見市常呂町に住む中股かず子さん93歳。 自宅を訪ねると、「兄ちゃん」の新江繁規さんのアルバムを見せてくれました。 繁規さんは9人きょうだいの長男だったそうです。 中股さん 「兄ちゃんはラッパを吹いたりスキーをしたりするのが好きでした。成績もみな「甲の上」をとっていて、すごく優秀でした。だから、お父さんも兄ちゃんの通知表だけは大事にとっていました。きょうだいみんなでお風呂に入る時、兄ちゃんに入れてもらったりしてね。本当にいい兄ちゃんだったと思います」 さらに中股さんは、繁規さんと和服姿の女性の写真を見せてくれました。 女性は繁規さんの許嫁でしたが、2人が結婚することはありませんでした。 繁規さんが今の旭川商業高校を卒業したあと、結婚前の21歳で徴兵されたからです。 そして繁規さんは、日本陸軍でも屈指の精鋭と呼ばれた旭川の一木支隊に配属されました。 中股さん 「私が13歳の時、兄ちゃんが入隊することになって網走まで送りました。それが兄ちゃんと会った最後ですね。兄ちゃんが汽車の窓からね、上半身を大きく出して『みんなで自分の分まで親孝行してくれ』と言ってくれました。戦争はだんだんひどくなる時でしたからね。もうこれで会えないんだなと思いました」 昭和17年(1942年)8月、繁規さんの部隊はわずか900人余りで、1万人のアメリカ海兵隊に占領されたハワイとオーストラリアの間にある要衝、ガダルカナル島の飛行場の奪還作戦に投入されました。 軍部の甘い見通しで10倍の兵力に挑んだ結果、隊員の8割以上が戦死し、ほぼ全滅しました。 中股さんが兄、繁規さんの戦死を知ったのは、4か月後の昭和17年12月11日でした。 父のもとに文書が届けられ、兄がガダルカナル島で頭部を撃たれて死亡したことだけがわかりました。 当時の東条英機総理大臣の名義で、繁規さんが戦死した日に陸軍中尉に昇進したと伝える文書も届きましたが、遺骨や現地で身につけていた遺品は一切届きませんでした。 前途洋々の若者の命を奪いながらも「紙」が送られてきただけだったということに、私は怒りを感じましたが、中股さんは「時代」という言葉とともに静かに「しかたがない」と、心情を語ってくれました。 中股さん 「戦死の公報を受け取った父は、兄が亡くなったと言って涙をこぼしていました。あの時はみんな亡くなったら『お国のためだから』という時代だから。『お国にご奉公した』と言っていました」 繁規さんはガダルカナル島でどのような最期を迎えたのか。かつて、ガダルカナル島から生き延びて帰国した別の元兵士から、写真とともに、『繁規さんが戦死したのに、自分は何の役にも立たず、おめおめと生き延びてしまい申し訳ない』と書かれた手紙が届いたことがありました。中股さんは兄の最期を知りたいと思いましたが、送り主の名前も住所も書かれていませんでした。 心の傷が完全に癒えることがなかったという中股さんでしたが、そんな時に突然、アメリカから送られてきたのが、兄の日章旗でした。 中股さん 「ガダルカナル島は激戦地だったので旗が戻るとは夢にも思わなかった。きっと旗を体に巻いていたんだと思う。弾があたったりして、旗が破けちゃったんだと思って。旗を受け取った瞬間、どすっと重たかった。それで『ああ、兄ちゃんが帰ってきた』と思った。この一枚の旗がね、本当に重たかった」 この時になって初めて私は、中股さんにとっては「旗の返還」ではなく、「79年ぶりの兄ちゃんの帰還」なのだと知ることができました。 手を握ってお礼を伝えたい 中股さんの話を聞いていると、居間の目立つところに孫やひ孫の写真と一緒に、ある家族写真が飾ってあるのに気づきました。 写っていたのは、日章旗を返してくれた65歳のアメリカ人、マーク・シェルトンさんとその家族でした。 ルイジアナ州に住むシェルトンさんは8年前、父の遺品を整理していたところ、クローゼットで旗を見つけたといいます。その後、テレビ番組で日章旗のことを知り、自身で経緯を調べた結果、旗は21年前に亡くなったシェルトンさんの親戚が、戦利品としてガダルカナル島から持ち帰ったとみられることがわかりました。 シェルトンさんは、日章旗の返還に取り組むアメリカのNPO「OBONソサエティ」に相談します。そして、旗は、出征する兵士のために一人一人が心を込めて寄せ書きをしたもので、多くの遺族が見つかることを待ちわびていると知り、NPOに託したといいます。 中股さんは、旗とともに送られてきたシェルトンさんの手紙を大事に保管しています。 シェルトンさんが中股さんに宛てた手紙 「親愛なる中股さま。 お兄様が生きた確かな証である日章旗が故郷にかえってくることで、あなたやご家族、そして私自身にも、喜び、平和、そしてある意味、心の平穏がもたらされることを願っております。マーク・シェルトンより」 取材中、中股さんは、「年も年だし、アメリカに行くことは難しいが、本当はシェルトンさんの手を直接握ってお礼を伝えたい」と、たびたび話してくれました。 しかし、新型コロナウイルスの感染拡大もあり容易にアメリカには行けない状況です。私は繁規さんの遺影を見ながら、「何かできることはないか」と考えるようになりました。 それと同時に、私はシェルトンさんの手紙に「アメリカ軍人として自国のために誇りをもって戦った私の親族のことをあなたに知って頂ければ幸いです」、「旗のことを一生懸命に調べていると、私の心の中でたくさんの疑問や感情が混ざり合いました」とも書かれていたことが気になりました。 シェルトンさんは、どうしてかつての敵国である日本にわざわざ旗を送り返したのだろうと。 私にできることは・・・ 中股さんの話を聞いた私は、NPOを通じてシェルトンさんと連絡を取り合い、2人がオンラインで話す場を設けることを提案しました。 シェルトンさんも「ぜひ中股さんと話がしたい」と応じてくれ、令和3年12月に実現しました。 私は、2人が対話する中で、シェルトンさんが日章旗を送る決断をした背景もわかるのではないかと思いました。 ひらがなで「こんにちは」と書かれたフリップを片手に持ち、笑顔であいさつをしたシェルトンさん。隣にいた孫を、中股さんに紹介しました。 シェルトンさんの孫 「僕の名前はジョセフです」 シェルトンさん 「孫のジョセフの名前は、私の叔父ジョセフ・シェルトンにちなんでいます。 あなたのお兄さんと同じように戦争から帰ってきませんでした」 シェルトンさんには旗を持っていた親戚とは別に、戦争に参加したジョセフ・シェルトンさんという叔父がいました。昭和20年(1945年)に名古屋の空襲に参加した際に撃墜されて捕虜となり、その後、処刑されたといいます。 シェルトンさんの手紙に書かれていたのは、このことだったのです。 しかし、シェルトンさんはかつての敵国である日本に旗を返すことに、全くためらいはなかったといいます。 国は違えど、家族や親戚を戦争で失った遺族の悲しみは同じだと考えたからです。 シェルトンさん 「戦争に巻き込まれたのは『人間』なのです。私よりも前の世代が日本に対して厳しい感情を持っていることは知っていますが、私の世代や若い世代は、過去に何があったのかを受けとめ、次に進む準備が出来ています」 「思いはみんな一緒」 中股さんはこの日のために用意した手紙をシェルトンさんに読み上げました。 シェルトンさんに宛てた中股さんの手紙 「親愛なるマーク・シェルトン様へ シェルトンさんのご家族の写真をいただき、毎朝『おはようございます』と声をかけています。私は1人暮らしの93歳という年寄りです。おかげさまで元気です。 日章旗は兄が身につけていたもので、兄が帰ってきてくれたのと同じです。これからは仏前で毎日兄と会えるのです。兄との昔の思い出を思い出しながら暮らしていきたいと思います。長生きしてよかったなとつくづく思います。 捨てられてもしかたないほどにぼろぼろな旗なのに、捨てずに返して下さいましたシェルトン様に心よりお礼申し上げます」 手紙を読んでもらったシェルトンさんは「とてもうれしく光栄です」と応じ、中股さんがアメリカに来たらアメリカンフットボールの観戦に案内したいと笑顔で話していました。中股さんも涙をぬぐいながら「いつか北海道に来て下さい。私が生きている間にお会いしたい」と、別れのあいさつをしました。 マスク越しでも、中股さんがほほえんでいたのがわかりました。 中股さん 「戦争中、アメリカのことはただ、敵国だという気持ちでした。だけど、終戦になって、こうやってじかにシェルトンさんのお話を聞かせてもらい、お互いにたくさんの方が亡くなっているんだから、思いはみんな一緒だと思いますね。だから戦争だけはもう2度とないように、ない世界になってほしいです」 取材を終えて 中股さんは「今の時代とは違い、当時は戦死したら『おめでとう』という人もいた。家族は涙を流しても外では誰にも言えないような時代でした」と話していました。だからこそ、そのような「時代」に後戻りしないよう、戦争だけはやめてほしいという訴えは、胸に響きました。 そして、中股さんは、旗がどれぐらい大事なものなのか、私に教えてくれました。今にもちぎれそうな旗が、「どすっと重たかった」こと、そして中股さんが毎日仏壇の前で優しかった「兄ちゃん」に会っていることを。 一方で中股さんは「兄ちゃん以外にも戦死した人はたくさんいる。1人でも多くの人に遺品が届いてほしい。私ばかりよくしてもらって申し訳ない」とも話していました。 中股さんのように遺品が返ってくるのを待っている方々は今も全国にいます。遺族が高齢化する中、1つでも多くの遺品が早く見つかり、遺族の手元に返されてほしいと思います。 https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_139.html?fbclid=IwAR2yEr8J8H-I9lbSf3yqRg_IC20a2GCewSUMYZZLtvvARmlHNhC3A-6Qv4Q