【つなぐ 戦後78年】(14)父の旗 突然の帰還
思いもしない“帰還”だった。2019年5月、石川県白山市笠間町の山下弘さん(82)の元に、小包が届いた。沖縄戦で戦死した父・朱一さんの遺品。多数の寄せ書きで埋め尽くされた日章旗と、英語で書かれた1枚の手紙があった。戦後70年余りを経て手にした形見を前に、山下さんは激戦を極めた沖縄で命を落とした父の最期と、帰らぬ夫を待ち続けた母の姿に思いをはせる。
県遺族連合会などによると、朱一さんは1910(明治43)年、笠間村(現白山市笠間町)石立町に生まれた。妻の咲子さんとは39年に結婚。2人の間に山下さんが誕生したのは41年8月で、同年12月8日に太平洋戦争が開戦した。
大阪市電気局に勤めていた朱一さんは、陸軍に入隊し、戦地へ向かった。山下さんと咲子さんは大阪から石川へと戻った。朱一さんは沖縄戦に動員され、45年6月26日、沖縄本島南端の糸満市山城(やまぐすく)地域で戦死したとされる。34歳。南進する米軍に追い詰められ、多くの犠牲者が出ていた日本軍の幹部が自決し、組織的な戦闘が終わった後のことだった。
小包は米ミシガン州から発送されていた。送り主は米兵だった父を持つジョン・マイヤーズさん。手紙はマイヤーズさんが記したもので、マイヤーズさんの父が第2次世界大戦中、多くの日本兵が戦地に残した旗を持ち帰っていたことなどがつづられていた。「この旗は、あなたにとって大切なものであるだろうと思います」とあり、最後は「お互いの心の傷が癒やされ、安らぎを見いだせることを願い、この旗を送ります」と結ばれていた。
マイヤーズさんと山下さんの間を仲介したのは、海外のNPO「オボン・ソサエティー」(米オレゴン州)。大戦中に米兵らが持ち帰った日本兵の遺品、特に「日の丸寄せ書き」の返還を支援している。
「えっ、今ごろ! びっくりというのが率直な感想」。旗を受け取った当時の心境を、山下さんはそう振り返る。「大きな汚れや焦げ跡もなく、少なくとも父の死後、むごい仕打ちにあったことはなさそうなのでほっとした」とも。
朱一さんの訃報が届いたのは戦後。「1枚のはがきが届いたことが印象に残っている」。幼かった山下さんには泣き崩れる母の姿が記憶にある。成長するにつれ、「父の遺骨や遺品はなぜ帰ってこないのだろう」と疑問を抱くようになった。2015年、父が戦死した沖縄県に初めて遺族会で赴いたが、戦没地とされる山城には日程の都合で足を運べなかった。その後は家族の体調不良などで、沖縄訪問は実現していない。
戻らぬ遺骨に、帰還を強く望む山下さん。その理由は、10年前にこの世を去った母の姿が心の中に残り続けているから。「家の仏壇に昔、母が石ころを置いていた。母に理由を聞くと、遺骨の代わりだと。そんな姿が哀れでならなくて、当時はかける言葉が見当たらなかった」
わずかながらも父の遺品を手にして「少し気持ちが晴れやかになった」と山下さん。母の思いを果たすため、父の最期を知るためにも、「また沖縄に赴き、父のことをもっとよく調べたい」と誓う。