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泰介さんの息子の裕一さん(71)右
太平洋戦争で日本兵が持って行った日章旗 家族のもとに返還
2022年8月16日 16時21分
太平洋戦争で日本兵が戦地に持って行った日章旗がその後、アメリカで発見され、終戦から77年を経て、16日、千葉県市川市の家族のもとに返還されました。
返還されたのは、市川市出身で、船舶工兵としてニューギニアなどで戦い、おととし、98歳で亡くなった松丸泰介さんの日章旗です。
この旗は、29年前に亡くなったアメリカ軍の元海兵隊員、オリバー・ブッシーさんの息子でマサチューセッツ州に住むビル・ブッシーさん(75)が保管していたもので、遺留品の返還に取り組むアメリカのNPO「OBONソサエティ」(オボン)を通して市川市役所に届けられていました。
16日は泰介さんの息子の裕一さん(71)らが田中甲市長から旗を受け取りました。
旗は縦66センチ、横83センチで、破れたり色がにじんだりしていますが、勝利を祈ることばや泰介さんの妻など家族や地域の人とみられる名前が寄せ書きされています。
返還式では、「この旗を家族のもとへ戻せることを大変うれしく思います」というビルさんからのメッセージも紹介されました。
裕一さんは「父の苦労のあとが伺える旗で、アメリカから戻ってきて本当によかったです。より多くの人の目に触れ平和の大切さを考える機会にしてもらうため市に寄贈したい」と話していました。
“戦うよりも生きるために食糧を探す日常だった”
松丸泰介さんの息子の裕一さんによりますと、泰介さんは大正10年生まれで、宮城県の石巻市から南太平洋のニューギニアなどに向けて出征し、船舶工兵として戦ったと聞いているということです。
泰介さんはおととし98歳で亡くなり、裕一さんは「前向きで地域のためにいろいろやる人でした。戦争については、戦うというよりも生きるために食糧を探すのが日常だったと聞いたことがある。あとは、足をやられたら置いていかれるからダメだと話していた」と振り返っていました。
16日に返還された旗は、破れや色あせ、インクのにじみがあり、かなり傷んだ状態ですが、「松丸泰介君」と大きく書かれた周りには、泰介さんの妻、百合子さんなど50人以上の名前があります。
返還式のあと、裕一さんは「戦争についてほとんど語らなかった父ですが、この旗を見てどんなに悲惨な戦争だったんだろう、語ることができなかったのではないかと思いました。日の丸の赤の中に血がにじむ思いがあると分かってくれて、大事にしまってくれたのだろう。ありがたい気持ちでいっぱいです」と話していました。
ビルさん “松丸さんも父も戦争を生き抜いた”
今回、返還された旗は、太平洋戦争中、アメリカ軍の海兵隊員としてガダルカナル島やパラオに赴いたオリバー・ブッシーさんが長く保管していたものでした。
オリバーさんの息子、ビルさんによりますと、オリバーさんが1993年8月に亡くなったあと10年以上たって家を売ることになった際、クローゼットから軍服や勲章などの記念品とともに箱の中に入っているのを見つけたということです。
今回、オンラインで取材に応じたビルさんは、旗を見つけたときのことを「ワックス紙で包まれていて、ガーゼのように薄く、すぐに壊れそうでした。何度も広げたら壊れてしまうと思い、一度だけ開きました」と振り返り、「父がこの旗を持っていたことすら私は知らなかったんです。太平洋戦争については決して多くを語らない人でした。ただ、少なくとも捨てなかったということは、敬意を持っていたのではないでしょうか」と話していました。
ビルさんは、友人に相談したり自分で調べたりする中で、日章旗など遺留品の返還に取り組むNPO「OBONソサエティ」のことを知り、団体を通じて旗を返還することになりました。
ビルさんは「松丸さんも父も戦争を生き抜き、それぞれ家庭を築くことができました。本当によかったです」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220816/k10013773061000.html?fbclid=IwAR2T2oQPg6G032oJFdJRSJ9HvaCslQgBjZhoDcZdO9dQmt3FzDUQs2ll0pw
Taisuke's son Yuichi (71)
Japanese flag taken by Japanese soldiers during the Pacific War returned to family
2022/8/16 12:45:51
[NHK] The Japanese flag that Japanese soldiers brought to the battlefield during the Pacific War was later discovered in the United States, and on the 16th, 77 years after the end of the war, a house in Ichikawa City, Chiba Prefecture...
The Japanese flag that Japanese soldiers took to the battlefield during the Pacific War was later discovered in the United States, and was returned to his family in Ichikawa City, Chiba Prefecture on the 16th, 77 years after the end of the war.
The flag that was returned was that of Taisuke Matsumaru, who was born in Ichikawa City and died at the age of 98 after fighting in New Guinea as a ship engineer.
This flag was kept by Bill Bussey (75), who lives in Massachusetts and is the son of Oliver Bussey, a former U.S. Marine who died 29 years ago. It was delivered to Ichikawa City Hall through the NPO "OBON Society" (Obon).
On the 16th, Taisuke's son Yuichi (71) and others received the flag from Mayor Kou Tanaka.
The flag is 66 centimeters high and 83 centimeters wide, and although it is torn and the colors are blurred, it contains words of prayer for victory and the names of family members and local people, such as Taisuke's wife.
At the handover ceremony, a message from Mr. Bill was also introduced, saying, "I am very happy to be able to return this flag to my family."
Yuichi said, "I'm really glad that I came back from America with the flag that shows the traces of my father's hardships. I want to donate it to the city so that more people can see it and have an opportunity to think about the importance of peace." was
https://www.tellerreport.com/life/2022-08-16-japanese-flag-taken-by-japanese-soldiers-during-the-pacific-war-returned-to-family.Hkeug75dAq.html?fbclid=IwAR3OCdsNpX8OSKbaTFsRG0HTtmlaG0dI5jo5cnZ4spEriOEuj4GeDRHcbOE
「今も返還を待つ日章旗が多数ある」と活動を進める夫妻(米オレゴン州で)=OBONソサエティ提供
日章旗返還 紡ぐ友好
2022/08/17 05:00
「今も返還を待つ日章旗が多数ある」と活動を進める夫妻(米オレゴン州で)=OBONソサエティ提供
府出身女性ら米で活動
「生きた証し 家族に」
第2次世界大戦中、日本軍の兵士が身につけていた寄せ書き入りの日章旗を遺族に返還する取り組みを、京都ゆかりの女性らが米国で進めている。「戦争で命を落とした人たちが生きた証しを、故郷の家族に届けたい」。戦後77年の夏、時と海を越える活動に思いを新たにしている。(松田聡)
女性は京都市出身の敬子・ジークさん(54)。米オレゴン州のNPO「OBON(オボン)ソサエティ」の共同代表を務め、現地で集まった日章旗を国内の遺族会などの協力を得て返還につなげている。
敬子さんは、ビルマ(現ミャンマー)に出征した祖父を戦争で亡くした。「お墓には、戦死通知と一緒に届いた小石が一つ入っているだけなのよ」。子どもの頃から祖父の墓参りに行くたびに、母からそう聞かされていた。
2007年、カナダ人から突然の連絡を受けた。やがて届いたのは、多くの人の寄せ書きが記された日章旗。「武器も食料もなく、マラリアにやられ、ジャングルで倒れたのか」と 偲しの んでいた祖父のものだった。終戦から半世紀以上たったとは思えない状態で、「祖父の魂が奇跡を起こした」と感じた。
日章旗について、夫で歴史学者のレックス・ジークさん(68)が調べると、米国には多くが残っていることがわかった。
「日本にいる遺族に届けることで、平和と友好の心をつなぎたい」。そんな思いで返還活動を始めた。
魂が帰ってくる盆と同じように、遺族は旗を「お帰り」と迎えてくれるはず。そう願い、NPOの名に「OBON」を入れた。
活動は当初、手探りだった。声をかけても怪しまれ、遺族捜しに難儀することもあった。それに、日章旗は苦しい戦闘の末に得た戦利品という考えで持ち帰った米国人兵士が多かった。
講演やインターネットで敬子さんらは、寄せ書きの旗が兵士の無事を願って作られた大切なお守りであることを強調した。
次第に活動の輪は広がり、国内でも遺族会や厚生労働省の協力が得られるようになった。
中には訪日し、返還式で遺族と対面する米国人もいた。ともに戦争で対立した父親を持つ者同士。互いを思い合い、涙する姿もあったという。
敬子さんは「国は違えど、返還を申し出る人は、国や家族のために戦った兵士、その子どもらという同じ立場。日本兵にも尊敬の念を抱き、返された遺族の心の一区切りになるよう願っている」と話す。
これまでに日章旗のほか、手紙や名札、帽子、軍刀など約500件の遺品を46都道府県で返還した。府内でも、沖縄戦で戦死した宮津市出身の男性の日章旗が、5月に故郷へ戻った。
遺族が見つからない場合でも、何かの手がかりや平和学習に役立ててほしいと、出身地の公民館や遺族会などに託している。
今、返還の依頼を受け、遺族を捜している遺品は1800件以上。うち府内出身の兵士のものと絞り込んだのは16件ある。
「遺品は魂が宿った『遺霊品』。過去、現在、未来をつなぐ縦の糸と、国、言語、文化の違いを乗り越えた横の糸をつなげる役割がある」と敬子さん。「一人でも多くの魂を、家族の元に戻していきたい」と力を込める。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyoto/news/20220816-OYTNT50072/?fbclid=IwAR3OCdsNpX8OSKbaTFsRG0HTtmlaG0dI5jo5cnZ4spEriOEuj4GeDRHcbOE
中日新聞がOBONソサエティが現在捜索を進めている岐阜県の旧下石町(現・土岐市下石町)出身の日本陸軍兵士 【髙木直市 命の遺書】について記事を掲載して下さいました。
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「今初メテ心カラ礼ヲ言フゾ」 妻に宛てた日本兵の遺書、米で発見
太平洋戦争の戦地で死亡した日本兵の遺書が米国で見つかり、返還に向けて岐阜県土岐市の遺族連合会が遺族を探している。遺書を戦地から持ち帰った米軍の軍医の孫が、遺品返還に取り組む米オレゴン州のNPO「OBON(オボン)ソサエティ」に託した。孫は「少しでも早く遺族が見つかれば」と返還を心待ちにしているという。
「三人ノ子供ハ絶對(たい)他人ノ手ニテ育テサスナ」「今日カラハ體(からだ)ヲ皇國ニ捧ゲ第二ノ國民タル三児ヲ守レ」
日本兵の遺書は妻宛てで、便箋三枚。子どもの養育や財産の分配などについて書かれ、妻に子どもたちの将来を託した内容となっている。
「俺ガ今日迄何ノ虞(おそれ)モ無ク常ニ安心シテ一途ニ御奉公ノ出来タノモ心秘(ひそ)カニ節子ヲ信ズレバコソダ 今初メテ心カラ礼ヲ言フゾ」と感謝を伝える言葉もあり、「今戦ノ中場デ斃(たお)レルハ誠ニ残念ナルモ俺ハ笑ツテ死ヌ事ガ出来ル」ともつづっている。
続きはこちら→ https://www.chunichi.co.jp/amp/article/526309
【遺品の帰郷 旧交戦国から相次ぐ 広がる「和解の証し」 なぜコロナ禍も一因に?】
と題して北海道新聞(東京報道センター/酒井聡平 記者) から戦没兵士の遺霊品返還についての記事が掲載されました。今年1月にOBONソサエティを介して兄の日章旗を受け取られた北海道斜里町のご遺族のインタビューも掲載されております。
後半6項/全項11がOBONソサエティに関する記事です。
戦没兵士の遺霊品返還を行う団体は当会以外にもありますが、OBONソサエティでは遺霊品のオークションなどによる売買は行うべきでは無いとの立場で活動をしております。どのような理由であれ、遺霊品に価格をつけ、結果市場価値を生み出してしまう恐れを危惧しております。また、厚生労働省でも「寄せ書きのある日章旗や千人針は、戦時中、出征する人が、その家族や身近な人々から贈られ大切に身に付けていたものです。御遺族の中には、戦没者の遺品や御遺骨がない方もおられ、日章旗などの遺品が唯一の形見になる場合もあります。こうした遺品がインターネットオークションで売買されていることは、御遺骨や遺品の帰還を待つ戦没者の御遺族にとっては耐え難いことであり、御遺族のこうした気持ちに御配慮いただきますようお願いいたします。」との指針を示しております。
関連資料をコメント欄に置いておきます。
【記事全文】北海道新聞のウェブサイトから (無料登録あり) https://www.hokkaido-np.co.jp/article/717042/?rct=n_war
またOBONソサエティではYouTubeチャンネルにてたくさんの動画を公開しております。https://www.youtube.com/c/OBONSOCIETY/videos
太平洋戦争の激戦地だったソロモン諸島のガダルカナル島で、1942年に戦死した郡山市出身の 宇南山うなやま 民男さん(当時23歳)の所持品だった日章旗が22日、保管されていた米国から遺族に返還された。80年ぶりに古里に戻り、遺族も感慨深げだった。
郡山市遺族会や宇南山さんの遺族などによると、民男さんは1919年生まれ。42年1月、広島県の宇品港から戦地に向かい、同年11月、ガダルカナル島で腰と腕に砲弾の破片を受けて戦死したという。
日章旗は43年1月、ガダルカナル島に滞在していた米軍のチャールズ・マーコットさんが、現地の住民から受け取って持ち帰り、保管していた。受け継いだ息子のロバートさんが、日本兵の遺品返還活動を行う米オレゴン州のNPO法人「OBONソサエティ」に提供し、日本遺族会などの確認作業を経て返還が実現した。
この日は、宇南山さんのおいの妻・宇南山洋子さん(80)が郡山市役所を訪れ、市遺族会の渡辺守久・副会長から「武運長久」などの寄せ書きが入った日章旗を受け取った。洋子さんは「お墓の家族に、日章旗とともに民男さんの 御霊みたま が戻ったと報告したい。皆が喜んでいると思う」と話した。
同席した品川万里市長は「日章旗の返還は、日米の善意のリレーによって実現した。世界で戦禍が絶えない中、一日も早く平和と秩序が保たれてほしい」と語った。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220723-OYT1T50130/
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