もの言う牧師のエッセー・・・第376話 再投稿
コロナは警告する ⑥「 キャンセルだらけ 」
コロナにより東京オリンピック・パラリンピック(以下東京五輪)が延期され、日本社会に計り知れない衝撃をもたらしたが、それは悪夢の序曲に過ぎなかった。列島が中止・延期、無観客、オンラインなど、通常開催のキャンセルだらけだ。卒業式と入学式、春夏甲子園にはじまり各種スポーツ行事、果てはモータースポーツの F1に至るまで中止の嵐が吹き荒れた。全国津々浦々の夏祭りも軒並み中止か神事のみとなり、京都の祇園祭、大阪の天神祭りやだんじり祭り、毎年200万人以上動員する青森ねぶた祭りも中止。その他コンサート、各種イベントなど枚挙に暇がない。
またそれらは経済に未曽有の危機をもたらした。中止だけならまだいいが倒産の嵐も止まない。負債総額160億円で倒産した大阪府のホテル・リゾート運営受託のWBFホテル&リゾーツ(大阪府)はその典型例で、他にも百貨店やアパレル関係、旅行・航空業界、エンターテイメント関係、小売り・飲食店などを直撃した。 聖書は警告する。
「聞きなさい。『今日か、明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、儲けよう。』と言う人たち。あなたがたには、明日のことは分からないのです。あなたがたの命は、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、全て悪いことです。」
ヤコブの手紙4章13‐16節。
これはもう何も解説が必要ないほどのストレートな警告だ。振り返れば、7年前に開催が決まった東京五輪は、新国立競技場の巨額の建設費問題や過酷な建設現場、現場監督の自殺に始まり、エンブレム・デザインの盗用疑惑、JOCの不正献金疑惑、膨らむ開催費、すったもんだの挙句に札幌へ変更されたマラソン・競歩のコースなど、正に日本人のエゴ・金・欲がむき出しであった。本来の人間が明日の保証もない はかない存在であることも忘れて。 武家が退場した明治維新、軍閥が消滅した敗戦のような大変革が、世界規模で起きようしている。今こそ悔い改め、神に従おう。神に命までキャンセルされる前に。 2020-7-9
人物というのは単に事例や静寂によっては育たない。
ただ試練と苦悩の経験を通して、魂は強くされ、ビジョンは明白となり、
大志は刺激され、成功が成し遂げられるのである。
ヘレン・ケラー
ただ一人のヒーローがあなたのために死んだ。
ただ一人のヒーローが復活した。
ただ一人のヒーローが罪と死と墓に打ち勝った。
ただ一人のヒーローがあなたを天国へ連れて行く。
その名はイエス・キリスト! AMEN
もの言う牧師のエッセー・・・第375話 再投稿
コロナは警告する ⑤「 不安に打ち勝つ 」
いまだ正体の知れない新型コロナウイルスは、社会の隅々に暗い影を落とす。先が全く見通せない中、多くの人はコロナ危機が個人の生き方や国のあり方まで変えてしまうと直感している。世界規模の危機の中、人々は不安の色を隠せない。
英ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンの神経科学者が行った調査によると、人間は 「どうなるか分からない状態」より、「悪いことが起きる」と明確に知らされるほうがストレスが少ないそうな。「パンデミックの心理学」の著者でカナダのブリティッシュ・コロンビア大学のスティーブン・テイラー教授によると、人間にとって、生活を自分でコントロールできるという感覚が大事なので、自力ではどうにもならない状況に置かれると、とにかくやれることをやって失われたコントロール感を取り戻そうとする。それで買いだめが起こると言う。なるほど自粛警察や他県ナンバーへの差別もそうかも知れない。
言い換えれば、コントロール感はうまく方向付けできれば不安を和らげることになる。例えば、人々を不安に陥れることを最大の目的とするテロに対し、日常を淡々と継続することで人々がコントロール感を維持し、不安を軽減できる。日常を奪われると不安になるからだ。そう言えば2001年9月のNYセンタービルのテロや、05年7月のロンドン、15年11月のフランスのテロなどでは可能な限り日常を続け、学校やビジネスはオープン、親たちは子供たちにペットの世話など日頃よりも多い用事を言いつけたと言う。しかしコロナでは日常の継続はさらに難しい。
ではどうするか? 「神に向かって方向付ける」ことだ。我ら人類と天地万物の創造主である神は、聖書を通じ「神に立ち返れ。」と口を酸っぱくして繰り返す。コロナに喘ぐ今がその時だ。キリストは呼びかける。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
マタイの福音書11章28‐29節、
と。疲れた多くの者が教会へ来て休むことは良くあることだ。私はこれを「第一の平安」と呼んでいる。だがそれだけでは“休み”は長続きせず不十分だ。もっと大事なのは29節の「イエスのくびき」を負うこと。イエスの御霊に満たされ、悔い改め、彼に従って歩むことだ。聖書に親しみ、教会に属し、いつも祈り、人々を愛する。これが言わば「第二の平安」であり、不安に打ち勝つ全き平安の道である。この第二の平安に達した者は、もはや恐れの風に吹きまわされることはない。教会に来て休んだら、今度は神の声に従い、雄々しく平安な日常を継続しよう。 2020-6-30
ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。
あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。
あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投 げやられました。
イザヤ書38章17節
やすき人生のためになど祈るな。もっと強い男になれるよう祈れ。
J F K
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