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ぼくしのめがね

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ホセア九章

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アメリカは、今週木曜日感謝祭で... アメリカは、今週木曜日感謝祭です。私たちの教会でも有志が集って感謝祭ディナーを食べることになりました。同じ建物で礼拝しているヒスパニック教会がみんなで今日感謝祭をしていました。大きな七面鳥です。あまりに大きくて写真を撮りました。 そして、ハム。右側。これも相当... そして、ハム。右側。これも相当大きいです。後ろのサラダボールは、とても大きくて、そうですね。。。。日本のたらいのようです。直径80センチくらいかな。すごいごちそうですーーーもちろん、それと南米料理がたくさんです。 日本人礼拝後、いろいろとおしゃ... 日本人礼拝後、いろいろとおしゃべりしたりなんかして遅くなってたら、なんと、私たちも感謝祭ディナーにご招待いただきました。えへっ。。。ちゃっかりいただいちゃいましたーー。
2017年11月19日日曜日礼拝メッセージ音声は、こちらから、



続けてホセア書を読んでいます。このシリーズが終わると、「安息」シリーズを始めたいと思っています。そちらの方で何回もでてくると思いますが、人は、神様の栄光と喜びによって生きていると言っても過言ではありません。神様の栄光のエッセンスがその似姿である私たちのうちに秘められており、私たちが神の前に生きるときに喜びがあるのです。この喜びは、天国のお金、ご褒美でもあり、私たちの日々の生きる糧でもあります。みな、神を知っても知らずしても、何らかの喜びを探して生きているのです。

1. 喜び楽しむな No joy, no pleasure

ホセアHos 9:1-4
1 イスラエルよ。国々の民のように喜び楽しむな。あなたは自分の神にそむいて姦淫をし、すべて麦打ち場で受ける姦淫の報酬を愛したからだ。2 麦打ち場も酒ぶねも彼らを養わない。新しいぶどう酒も欺く。3 彼らは主の地にとどまらず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れた物を食べよう。4 彼らは主にぶどう酒を注がず、彼らのいけにえで主を喜ばせない。彼らのパンは喪中のパンのようで、すべてこれを食べる者は汚れた者になる。彼らのパンは彼ら自身のためだけであって、主の宮に持ち込むことはできない。

〇喜び楽しむな

麦打ち場、酒ぶねも、新しいぶどう酒も欺きである。本来、ルツ記でも読んだように、収穫後の麦打ち場は楽しいものであり、祭であり、お祝いでありました。ぶどう酒を作るワインプレスは楽しみでした。またぶどう酒は喜びの象徴でありました。しかし、アッシリアに移されてから、ますます偽の神々を礼拝していたイスラエルの民には、「姦淫の報酬を愛した」と書いてあるように、真の喜びではなく、自分勝手に頭で描いた喜びを追いかけてそれを楽しんでいるというのです。

よく、イエス様に出会う前の人生を、白黒テレビのようだったがイエス様に出会ってカラーになったように違う。と言い表したり、救われる前は、砂をかむような喜びだったが、今は、フルコースのごちそうを食べているような喜びだと表現する方があります。私も、例外ではありません。罪の中で、自分の思い描いた喜びを追いかけても、ひとっつも私を満足させるものはありませんでした。栄華を極めたソロモン王だってそう言っています。だから、若い日にあなたの創造主を知りなさいと彼は勧めました。その父、ダビデは、神に愛されている神の心近くを歩んだ人でしたが、罪を犯しました。その罪を犯して赦されるまでの日々の苦しみを詩編に書いています。

詩編Psalms38篇
v3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。 6私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。

罪を持ったまま生きるのは、自分の頭では、自分の思い描いた喜びを追いかけてるようですが、本当はとてもストレスです。骨骨も干からびるほどの疲れ、体には炎症が起きている。何も完全でない。心がずっと乱れていると。。。

2. エジプトでのこらしめpunishment in Egypt

ホセアHos 9:5-9
5 あなたがたは例祭の日、主の祭りの日に何をしようとするのか。6 見よ。彼らが破壊をのがれても、エジプトは彼らを集め、モフが彼らを葬る。彼らの宝としている銀は、いらくさが勝ち取り、あざみが彼らの天幕に生える。7 刑罰の日が来た。報復の日が来た。イスラエルは知るがよい。預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ。これはあなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである。8 エフライムの見張り人は、私の神とともにある。しかし、預言者は、すべての道にしかけるわなだ。彼の神の家には憎しみがある。9 彼らはギブアの日のように、心底まで堕落した。主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する。

〇エジプト--- エジプトとはメタファーとしての引用なのか、その後にバビロンがやって来ることについてなのかは定かではないですが、この世の象徴、そして、かつてエジプトで奴隷の身であったことから解放された身であるにも関わらず、またエジプトにやられるという屈辱を示している。モフ-- エジプトの首都

〇預言者--- 預言者は、イスラエルにとった耳障りのいいことを言わないので、狂ったものと言われていた。はっきりと、神からの警告を語り、神の御心を語っているのに、うっとおしいと感じる、言うことを聞かなかった。私の恩師は、「誉め言葉は悪魔からの言葉と思い、注意をありがたく聞きなさい」と言われました。私のような性格にはもう少し緩い方がいいのかもしれませんが、これには一理あります。

〇ギブアの日のように--- ギブアの日というのは、イスラエル人にとっては忘れることのできない残虐なことが起きた日です。士師記19-20章 レビ族一人が、ベニアミン族の人の家に泊まっている時に、その家のそばめが悪い男に死ぬまで乱暴されました。レビ人はこんなひどいことがあってはならないと死体を12に切り刻んで各部族に送ったという話しのことです。結局、ベニアミンの罪により、同国民が戦い、相手を滅ぼしそうになるという悲惨な結果になりました。その時の罪ほどに、イスラエルの罪は根深いというのです。。

3. 実りがない、子孫がない God sends barrenness

ホセアHos 9:10-14
10 わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、恥ずべきものに身をゆだね、彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった。11 エフライムの栄光は鳥のように飛び去り、もう産むことも、みごもることも、はらむこともない。12 たとい彼らが子を育てても、わたしはひとり残らずその子を失わせる。わたしが彼らを離れるとき、まことに、彼らにわざわいが来る。

〇イスラエルは神のブドウの木、実り期待されている木であった

イスラエルはよく神のブドウ畑とか、ブドウの木に例えられますが、ぶどうはぶどう酒を作る大切なフルーツで、喜びを表すものです。神は、どれほどに、イスラエルが神のために実を結び、そして美味しいぶどう酒のような喜びを神にもたらせ、互いに楽しみ喜ぶ関係を夢見ていたことでしょう。初なりのいちぢくとありますが、果物の木を植えたら実がなるのが待ち遠しいですね。初なりの実は、待ちに待った美味しい実です。神の御心は、産めよ増えよです。それは、神の栄光が増え広がり、地を覆うためです。それは、神の喜びが満ち溢れるからです。しかし、神の栄光の現れである性交が実りのないものとなる。私たちに与えられて委ねられている栄光から、栄光をもう産み出すことができなくなる、というのです。

みなさん、私たちの思いは、行動を産み、行動はその実を産むものです。私たちは、その人のならせる実を見て、いろいろと判断することができます。神様の好意、いつも証しがあるか、無いのか、あるいは、いつも平安と喜びがあるのかないのか。周りにいる人々が成長しているのか、救われてきているのかなどと、実を見ることで、信仰の在り方をも見ることができるのです。

4. さすらい人になる Becoming wanderers

ホセアHos 9:17

17 私の神は彼らを退ける。それは、彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国の民のうちに、さすらい人となる。

イスラエルの民は、エジプトから四十年もかけて神と共に定住せず約束の地に行きました。神と共にいたので、昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれました。しかし、わが罪のために今度は、ほんとうのさすらい人になるのです。本当の迷子です。
神は、私たちを今日も美味しい実のなるぶどうの木とみておられ、実がなるのを楽しみにしておられます。罪から悔い改め、神に従いましょう。
#ホセア書 #旧約聖書 #礼拝

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ホセア八章 

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Facebook AZAMI ... Facebook AZAMI さんの写真をお借りしました。うちの近所からみえる風景です。シアトルは、寒いですーー

2017年11月12日日曜日礼拝メッセージ音声は、こちらから


ホセア8:1-14 誰に信頼するのか?

引き続き、ホセア書を読んでいます。毎週毎週ここのところは、神の裁きの言葉と憂いの言葉ばかりで、なんだかうんざりしてきます。みなさんもそうでしょうか。そう思うときに、それでも、まだ神は、忍耐して、イスラエルの民が立ち帰ることを待っている。裁きはあるが、それは、立ち直るための懲らしめであることも見ることができます。私たちならば、すぐに立ち去る、あきらめるようなことでも、神様は忍耐強く待つて下さっているということが分かります。

1. 角笛を口に当てよ Trumpet; Calling for War

v1-6
1 角笛を口に当てよ。鷲のように敵は主の宮を襲う。彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ。2 彼らは、わたしに向かって、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている」と叫ぶが、3 イスラエルは善を拒んだ。敵は、彼らに追い迫っている。4 彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。彼らが断たれるために。5 サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。わたしはこれに向かって怒りを燃やす。彼らはいつになれば、罪のない者となれるのか。6 彼らはイスラエルの出。それは職人が造ったもの。それは神ではない。サマリヤの子牛は粉々に砕かれる。

〇角笛は、戦いのための Trumpet; Calling for War

 神は、戦いのための招集を呼び掛けています。角笛は、戦いのために人々に喚起を呼び掛けるものです。とうとう、アッシリヤが鷹のように襲ってくるというのです。
主の宮というのは、イスラエルのことであり、今や金の子牛のヤロブアムの宗教の宮と化した宮です。
民は、勝手に王を自分たちのために立てていました。しかし、王も助けることはできず、敵が来るというので、民は、「私の主、私は主を知っている」というというのです。。。
しかし金の子牛、イスラエルが拝んでいるにせの神は、粉々に壊されるというのです。

〇ファンタシーと自分の思い Fantasy & Your desire

想像力はイマジネーションは神様からの賜物。人は、心に思うことを行動に移すものです。
 人は、窮地に追い込まれると、必ずファンタシーを持ちます。辛さに直面し続けることが成因的に耐えられないからです。空想の世界に休みを見出すことは、自然なことです。しかし、本当の休みがファンタシーの中にはないのです。人は、自分の思いと願いと人間的な知恵によって実現しようと必死になります。イスラエルの民は、金の子牛にその思いを託したわけですが、人は、自分の神を作り出す。また、ここで神に指摘されているように、自分にとって神に導かれていない人間・リーダーについていく。神様に選ばれていない人についていく。神の導きでなく、自分が良かれと思う人についていく。。。ということが起きます。すべての根っこは、偶像礼拝です。

〇偶像礼拝は、恐れからくるマニピュレーションであります。恐れは信仰の反対。

偶像礼拝の反対は、信頼です。苦しみの中にあるとき、祈りの課題があるときに、何に信頼するのか、空想を持つとき、ビジョンを持つとき、願いを持つとき、計画を持つときに、その都度神を信頼しましょう。神に導かれていくことを選びましょう。前回話したように、神に導かれて行くことは、時には、全てを壊されることかもしれない。しかし、信頼しているならば、必ず勝利を見ることになるでしょう。

神は、本物ではないもの、神から来ていないもは、粉々にすると、ここでも語られていますね。

2. 裁きを受けるイスラエル Judgment on Israel

v7-10
7 彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす。8 イスラエルはのみこまれた。今、彼らは諸国の民の間にあって、だれにも喜ばれない器のようだ。9 彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリヤへ上って行った。エフライムは愛の贈り物をした。10 彼らが諸国の民の間で物を贈っても、今、わたしは彼らを寄せ集める。しばらくすれば、彼らは王や首長たちの重荷を負わなくなるであろう。

〇風をまくようなもの、

すなわち、種をまいたら刈り取りができるが、彼らは、神にあって何も種をまかず、風を撒くようなものであった。すると、つむじ風が来て、全部滅ぼしてしまう。アッシリアのことを言っている。

〇誰にも喜ばれない器、ひとりぼっちの野ロバ。――

器もロバも、用いられるためにあります。誰にも喜ばれない器とは、何も入れることができない、使うことができない壊れた器のこと。器が伝えなければ、器の意味がない。ロバも、交通や労働の大切な人間のパートナー。一人ぼっちの野ロバとは、労働のための人の役に立つものではない。ということ。

本来イスラエルとは、神に選ばれた民であるから、世界中の国々、人々に神を指し示す、神を紹介する役目を持っていたはず。。。

私たちも「用いられる」とは、ということを考えてみると分かる。自己実現の道ではないのです。弘法筆を選ばず、という言葉がありますが、弘法さんはどんな筆を使っても素晴らしい作品を書かれる。あなたがどんな立派な筆か知らないが、書く人がへたっびなら、いい作品はできない。私たちを用いられるのは、神です。
神に用いていただかないのなら、いい実はならない、いい作品は出てこないのです。
自分という器を、神に差し出すことがなければ、いいものができないのです。

イスラエルは、自分のわがままと、繁栄を求め、偶像と人によりたのんだので、いいものができなかったのです。ここにも、誰に信頼するのか。。。と神さまに問われているようです。

3. 神はイスラエルの捧げものを受け取られない Unaccepted Sacrifice

v11-14
11 エフライムは罪のために多くの祭壇を造ったが、これがかえって罪を犯すための祭壇となった。12 わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。13 彼らがわたしにいけにえをささげ、肉を食べても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰せられる。彼らはエジプトに帰るであろう。14 イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。

〇祭壇は、神に捧げているようで、金の子牛に捧げていた。
 多くの祭壇を作ったが。。。真の神へのものではなかった。。。

〇神の言葉をないがしろにしている。――神の教えを持っていることは、イスラエル人の誇りであり特権であったのに、自分の心の赴くままに行動し、神の言葉を無視することとなった。

〇いけにえ、宗教行事は、いけにえの肉を食べる会と変化し、いけにえの意味は踏みにじられてしまった。

〇神の存在を忘れているイスラエルに安息はない。

神の存在を全てにおいて認める。信頼する。

箴言Proverbs 3:5, 6

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。rust in the Lord with all your heart, And lean not on your own understanding; 6 In all your ways acknowledge Him, And He shall direct your paths.


#ホセア書 #旧約聖書 #礼拝

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ユダヤ教安息日体験

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大きなシナゴーグの天井はぐーー... 大きなシナゴーグの天井はぐーーーんと高く、空から星が落ちてくるような風になっています。すごく美しいです。ちゃんと写真が取れなかったのが残念 外は、こんな感じ。前の二人は1... 外は、こんな感じ。前の二人は180cm はあるとおもうので、どれだけ大きな建物か分かりますかね。。。天井が高ーーーいです。 会堂の前には、こんな感じで、メ... 会堂の前には、こんな感じで、メノーラなどのモチーフ、金色で豪華な感じです。。。大理石かなーー 小さいおヘや。真ん中の扉には、... 小さいおヘや。真ん中の扉には、聖書の巻物が入っています。途中で、ラビがじゃじゃーーん、という感じで開いて、巻物を取り出し、前の大きなテーブルに広げて読み上げます。 これは、安息日に使う、祈りや聖... これは、安息日に使う、祈りや聖書のみ言葉が
ヘブル語と、英語で書いてる本です。
聖書朗読には節がついていて歌いながら読みます。昔は、ニクドや句読点がなかったので、歌いながら読み方、区切り方を覚えて伝えたそうです。そのなごりだそう。。
みなさん、こんにちは

先週の土曜日には、素敵な体験をしました。

大学院の授業で、霊性と安息日というのを取っているのですが、
その授業の一環で、ユダヤ今日のシナゴーグを訪問することになりました。

シアトルのにあるシナゴーグは、とても豪華でした。1970年代に建ったようです。

大きな天井の高い会堂は、ステンドグラス風のモザイクの窓がとても印象的。
そして、いろんなところに、ダビデの星のモチーフ、メノーラ、モーセの十戒のタブレットなどのモチーフがほどこされています。

私たちは、小さいお部屋で、安息日の集いに参加しました。
ラビもとてもやさしく、みなさんもあたたかく迎えてくれました。

ユダヤ教は、もてなしの心が伝統ですが、本当にそれを肌で感じることができました。
おばあさんに、今日は、あなたたちと一緒にできてうれしかったよ。また来てね。と。

また、ラビもいろいろと私たちの質問に答えてくれました。

安息日の集いは、たくさんの祈りと、聖書の朗読、また聖書の内容のディスカッション、歌などがありました。
一時間ほどの集いのクライマックスは、聖書の巻物が現れ、それをラビがもって会衆の間を歩きます。
会衆は、お辞儀をしたり、キスをしたりして、神の言葉にたいする敬意を表します。

私の予想していたユダヤ教とは違っていまた。聖書の理解ももちろん、旧訳に関してですが、私たちに近いですし、神の言葉を愛する態度も素晴らしく、たくさん共感することがありました。

また、日本人としても、共感しました。
それは、集いの終わりにその日に亡くなった方々の名前を読み上げ、家族のために祈っていたことです。
ユダヤ教は、「記憶する」ことを大切にしていることは、旧約聖書を通して知っていましたが、死者に対しても、忘れない態度、というのは、非常に感動しましたし、何か、日本人にも通ずるあたたかい気持ちを感じました。

一つ、ラビから、優しく言われた言葉が、クリスチャンは、自分たちの教理の方が究極で優れていると思っていると思いますが、
そんなに素晴らしい教理なら、それに従って、よい行いをしてください。。。
と、

クリスチャンの国と言われている国ではありますが、アメリカに住んでいる悪は、底知れず、また、究極の資本主義、マテレアリズムは、強烈です。

「行いのない信仰は、死んでいる」という言葉が

新約聖書にもあります。

深く心に刻みました。

イエス様の究極の愛に従って、その教えの通りに生きるものでありたいと思った安息日の出来事でした。

いい体験をさせいただきました。

感謝しますーー

#ユダヤ教 #大学院 #安息日

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