2017年11月19日日曜日礼拝メッセージ音声は、こちらから、 続けてホセア書を読んでいます。このシリーズが終わると、「安息」シリーズを始めたいと思っています。そちらの方で何回もでてくると思いますが、人は、神様の栄光と喜びによって生きていると言っても過言ではありません。神様の栄光のエッセンスがその似姿である私たちのうちに秘められており、私たちが神の前に生きるときに喜びがあるのです。この喜びは、天国のお金、ご褒美でもあり、私たちの日々の生きる糧でもあります。みな、神を知っても知らずしても、何らかの喜びを探して生きているのです。 1. 喜び楽しむな No joy, no pleasure ホセアHos 9:1-4 1 イスラエルよ。国々の民のように喜び楽しむな。あなたは自分の神にそむいて姦淫をし、すべて麦打ち場で受ける姦淫の報酬を愛したからだ。2 麦打ち場も酒ぶねも彼らを養わない。新しいぶどう酒も欺く。3 彼らは主の地にとどまらず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れた物を食べよう。4 彼らは主にぶどう酒を注がず、彼らのいけにえで主を喜ばせない。彼らのパンは喪中のパンのようで、すべてこれを食べる者は汚れた者になる。彼らのパンは彼ら自身のためだけであって、主の宮に持ち込むことはできない。 〇喜び楽しむな 麦打ち場、酒ぶねも、新しいぶどう酒も欺きである。本来、ルツ記でも読んだように、収穫後の麦打ち場は楽しいものであり、祭であり、お祝いでありました。ぶどう酒を作るワインプレスは楽しみでした。またぶどう酒は喜びの象徴でありました。しかし、アッシリアに移されてから、ますます偽の神々を礼拝していたイスラエルの民には、「姦淫の報酬を愛した」と書いてあるように、真の喜びではなく、自分勝手に頭で描いた喜びを追いかけてそれを楽しんでいるというのです。 よく、イエス様に出会う前の人生を、白黒テレビのようだったがイエス様に出会ってカラーになったように違う。と言い表したり、救われる前は、砂をかむような喜びだったが、今は、フルコースのごちそうを食べているような喜びだと表現する方があります。私も、例外ではありません。罪の中で、自分の思い描いた喜びを追いかけても、ひとっつも私を満足させるものはありませんでした。栄華を極めたソロモン王だってそう言っています。だから、若い日にあなたの創造主を知りなさいと彼は勧めました。その父、ダビデは、神に愛されている神の心近くを歩んだ人でしたが、罪を犯しました。その罪を犯して赦されるまでの日々の苦しみを詩編に書いています。 詩編Psalms38篇 v3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。 6私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。 罪を持ったまま生きるのは、自分の頭では、自分の思い描いた喜びを追いかけてるようですが、本当はとてもストレスです。骨骨も干からびるほどの疲れ、体には炎症が起きている。何も完全でない。心がずっと乱れていると。。。 2. エジプトでのこらしめpunishment in Egypt ホセアHos 9:5-9 5 あなたがたは例祭の日、主の祭りの日に何をしようとするのか。6 見よ。彼らが破壊をのがれても、エジプトは彼らを集め、モフが彼らを葬る。彼らの宝としている銀は、いらくさが勝ち取り、あざみが彼らの天幕に生える。7 刑罰の日が来た。報復の日が来た。イスラエルは知るがよい。預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ。これはあなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである。8 エフライムの見張り人は、私の神とともにある。しかし、預言者は、すべての道にしかけるわなだ。彼の神の家には憎しみがある。9 彼らはギブアの日のように、心底まで堕落した。主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する。 〇エジプト--- エジプトとはメタファーとしての引用なのか、その後にバビロンがやって来ることについてなのかは定かではないですが、この世の象徴、そして、かつてエジプトで奴隷の身であったことから解放された身であるにも関わらず、またエジプトにやられるという屈辱を示している。モフ-- エジプトの首都 〇預言者--- 預言者は、イスラエルにとった耳障りのいいことを言わないので、狂ったものと言われていた。はっきりと、神からの警告を語り、神の御心を語っているのに、うっとおしいと感じる、言うことを聞かなかった。私の恩師は、「誉め言葉は悪魔からの言葉と思い、注意をありがたく聞きなさい」と言われました。私のような性格にはもう少し緩い方がいいのかもしれませんが、これには一理あります。 〇ギブアの日のように--- ギブアの日というのは、イスラエル人にとっては忘れることのできない残虐なことが起きた日です。士師記19-20章 レビ族一人が、ベニアミン族の人の家に泊まっている時に、その家のそばめが悪い男に死ぬまで乱暴されました。レビ人はこんなひどいことがあってはならないと死体を12に切り刻んで各部族に送ったという話しのことです。結局、ベニアミンの罪により、同国民が戦い、相手を滅ぼしそうになるという悲惨な結果になりました。その時の罪ほどに、イスラエルの罪は根深いというのです。。 3. 実りがない、子孫がない God sends barrenness ホセアHos 9:10-14 10 わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、恥ずべきものに身をゆだね、彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった。11 エフライムの栄光は鳥のように飛び去り、もう産むことも、みごもることも、はらむこともない。12 たとい彼らが子を育てても、わたしはひとり残らずその子を失わせる。わたしが彼らを離れるとき、まことに、彼らにわざわいが来る。 〇イスラエルは神のブドウの木、実り期待されている木であった イスラエルはよく神のブドウ畑とか、ブドウの木に例えられますが、ぶどうはぶどう酒を作る大切なフルーツで、喜びを表すものです。神は、どれほどに、イスラエルが神のために実を結び、そして美味しいぶどう酒のような喜びを神にもたらせ、互いに楽しみ喜ぶ関係を夢見ていたことでしょう。初なりのいちぢくとありますが、果物の木を植えたら実がなるのが待ち遠しいですね。初なりの実は、待ちに待った美味しい実です。神の御心は、産めよ増えよです。それは、神の栄光が増え広がり、地を覆うためです。それは、神の喜びが満ち溢れるからです。しかし、神の栄光の現れである性交が実りのないものとなる。私たちに与えられて委ねられている栄光から、栄光をもう産み出すことができなくなる、というのです。 みなさん、私たちの思いは、行動を産み、行動はその実を産むものです。私たちは、その人のならせる実を見て、いろいろと判断することができます。神様の好意、いつも証しがあるか、無いのか、あるいは、いつも平安と喜びがあるのかないのか。周りにいる人々が成長しているのか、救われてきているのかなどと、実を見ることで、信仰の在り方をも見ることができるのです。 4. さすらい人になる Becoming wanderers ホセアHos 9:17 17 私の神は彼らを退ける。それは、彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国の民のうちに、さすらい人となる。 イスラエルの民は、エジプトから四十年もかけて神と共に定住せず約束の地に行きました。神と共にいたので、昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれました。しかし、わが罪のために今度は、ほんとうのさすらい人になるのです。本当の迷子です。 神は、私たちを今日も美味しい実のなるぶどうの木とみておられ、実がなるのを楽しみにしておられます。罪から悔い改め、神に従いましょう。
Posted at 2017-11-20 00:24
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Posted at 2017-11-20 10:22
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