12 When they had all had enough to eat, he said to his disciples, “Gather the pieces that are left over. Let nothing be wasted.” 13 So they gathered them and filled twelve baskets with the pieces of the five barley loaves left over by those who had eaten.
12 イエスは弟子たちに言われました。「さあ、少しもむだにしないよう、パン切れを集めなさい。」 13 残りを集めると、なんと十二のかごにいっぱいになりました。
ヨハネ21章15-19
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上 に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの 小羊を飼いなさい。」16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたの で、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 まことに、まことに、あなたに告げます。あんたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
15 So when they had eaten breakfast, Jesus said to Simon Peter, “Simon, son of Jonah, do you love Me more than these?” He said to Him, “Yes, Lord; You know that I love You.” He said to him, “Feed My lambs.” 16 He said to him again a second time, “Simon, son of Jonah, do you love Me?” He said to Him, “Yes, Lord; You know that I love You.” He said to him, “Tend My sheep.” 17 He said to him the third time, “Simon, son of Jonah, do you love Me?” Peter was grieved because He said to him the third time, “Do you love Me?” And he said to Him, “Lord, You know all things; You know that I love You.” Jesus said to him, “Feed My sheep. 18 Most assuredly, I say to you, when you were younger, you girded yourself and walked where you wished; but when you are old, you will stretch out your hands, and another will gird you and carry you where you do not wish.” 19 This He spoke, signifying by what death he would glorify God. And when He had spoken this, He said to him, “Follow Me.”
★ 古いやり方との決別
V15 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上 に、わたしを愛しますか。」「これらのもの以上に。。。。」, “Simon, son of Jonah, do you love Me more than these?”
イエス様は、この世のやり方、古い働き方と、天の国のやり方、新しい働き方とは違うことを改めて教えました。
日本語では、「この人たち以上に」とありますが、英語では、these と訳されているとおりに、何をさしているのか少しぼんやりしています。言語のギリシャ語では、これらのこと、these matters これらのものthese things, このようなもの such things となっています。イエス様は、きっと、先ほど漁に出たこと、洗った網や、魚をさして話されたのだと思われます。
★ 神の働き人の資格 愛の測り
「イエス様をアガペーで愛しますか?」
今日読んだ箇所の通り、イエス様は、ペテロに面と向かって尋ねられました。「ヨハネの子シモ ン、あなたは、わたしを愛しますか。」フルネームで読んでいますから、イエス様は大変重要な ことを言われようとしています。
ギリシャ語では、「愛」するという言葉に、三つの種類があります。
① エロス、肉体の愛、奪う愛、相手に求める愛。
② フィレオー、友愛、ギブアンドテイクの愛、条件付の愛。そして、
③ アガペー、最高の愛。神の愛。一方通行の愛、無条件の愛。
イエス様は、ペテロに、最高の愛、アガペーの愛でイエス様を愛しますか。と問われています。
イエス様は、続けて三回同じような質問をされます。そして、日本語では、全て愛しますか。となっていますが、言語では、一回目と二回目がアガペーとなっています。無条件の愛、捧げつくす愛で愛しますか?と聞かれました。
考えてみてください。それを言われたのは、全てをペテロのために、またあなたのために捧げつくしたそのお方が聞かれてるのです。あなたも全部捧げますかと。
しかし、ペテロは、二回とも、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」“Yes, Lord; You know that I love You.” アガペーでなく、フィレオーの愛で愛することは、イエス様、あなたがよくご存知です。フィレオーでなら愛せます。。。といいました。ペテロは、イエス様を裏切ったことで、自分のありようが良く分かったのです。気軽に、できるなんて言えるものではないと。。。
ペテロ、変わりましたね?!
今までは、背伸びしたり、立派なことを言おうとしたり、絶対に離れないなんて豪語したりしていたのに、失敗を通り、自分の身の丈が分かったペテロは、自分はアガペーでなく、フィレオーの愛でなら愛せることは、イエス様がご存知の通りです。と告白したのです。これは、大きな変化です。
それで、良いのです。ありのままの姿で、そのままで主に仕えたらいいのです。
失敗と挫折を通らずして、ありのままの自分の姿で神についていけないのです。
みなさん、私たちは、ここを読むときに、イエス様をアガペーの愛で愛することが、働き人としての入学試験に合格することだと思いませんでしたか。イエス様をアガペーで愛することが前提条件だったら、prerequisite イエス様は、ペテロのフィレオーの答えの後に「わたしの羊を牧しなさい」とは、言わなかったことでしょう。
イエス様は、三度目には、レベルを落として、ペテロに「フィレオーで愛しますか?」と聞かれました。そして、その上で、もう一度、「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。
みなさん、私たちは、時々、たくさんイエス様を愛するものが神様の働きをすると思うのです。しかし、イエス様は、ありのままで、そのままで、イエス様を愛したら言いと言われているのです。
そして、もう一つ、大切なことを覚えていただきたいのです。神の召しとは、あなたの思いや、あなたの能力よりも、あなたの意思の強さ、コンディションに関係しないのです。神の召しの方が圧倒的に強いのです。私たちの側で、するべきことは、ありのままの姿で、「はい。イエス様。そうします。」と答えることなのです。
★ 仕え方の変化
18 まことに、まことに、あなたに告げます。あんたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きた い所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あな たの行きたくない所に連れて行きます。」19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現す かを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさ い。」. 18 Most assuredly, I say to you, when you were younger, you girded yourself and walked where you wished; but when you are old, you will stretch out your hands, and another will gird you and carry you where you do not wish.” 19 This He spoke, signifying by what death he would glorify God. And when He had spoken this, He said to him, “Follow Me.”
★ 病気の原因? Why uncurable disease?
V2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」And His disciples asked Him, saying, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?”
しかし、イエス様は、こう答えられました。イエスは答えられた。
V3「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。Jesus answered, “Neither this man nor his parents sinned, but that the works of God should be revealed in him.
★ 時間が限られている Limited time frame
V4,5 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」4 I must work the works of Him who sent Me while it is day; the night is coming when no one can work. 5 As long as I am in the world, I am the light of the world.”
★ つばで作ったドロで Mud with saliva
V6,7 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行ったWhen He had said these things, He spat on the ground and made clay with the saliva; and He anointed the eyes of the blind man with the clay. 7 And He said to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which is translated, Sent). So he went and washed, and came back seeing.
ですから、つばを掛けられた土は、十字架で恥を受けられたイエス様を表しているのです。
イエス様は、そのドロでこの盲人の目を開けました。
イザヤIsaiah 53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。But He was wounded for our transgressions, He was bruised for our iniquities; The chastisement for our peace was upon Him, And by His stripes we are healed.
と聖書に書いてあるとおりです。キリストの打ち傷、十字架のわざによって私たちは癒されるのです。
★ 主と出会うEncounter God
十字架の主を表すつばの泥は、盲人の目につけられた。
主は私たちが主の受けた恥と主の体の痛みに接点を持つことが必要であることを示されている。
主の傷と私の傷が一体化することの必要である。
主は、私の肉を食し、私の血を飲むという表現で、ヨハネ6
で語られてもします。
主の十字架と個人的に出会わなければならないのです。
★ 行って洗うDo what He says
そのあと、シロアムの池で洗えと言われた。盲人は、出かけて行って、お言葉通りにした。ここで、彼は、自分の信仰を使った。
自動的に癒されたわけではなかったのです。用意された十字架の主との出会い。その後は、信仰だったのです。
信仰は、信じてみる、信じたことを行動に起こす。その行動が心で信じていることの証し、信仰が本当であることが示されるのです。ですから、信じていることを信じてると信仰告白することが非常に大切なのです。
★ 目があいた Eyes are opened
この盲人は、目という、生まれつき癒されようのない場所に十字架の主を塗られました。
信仰をもって言葉に従った結果。目が開かれ見えるようになったのです。
文字通り視力が与えられたのですが、世界が見えた、自分が見えた、開かれたのです。
彼は、遣わす、シロアムの池で目を洗って、目があいて、今度は、神に遣わされた証し人となりました。人々がイエス様のことを聞き、彼は、イエス様のことを証しするものとなりました。