景気循環と国鉄 第2話 経済の発展と国鉄
Dec
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そんな中で、国鉄では積極的に輸送力の増強に努めるとともに、ディゼルカーによる地方ローカル線の輸送改善なども本格的に行っていきました。
当初投入されたのはキハ01と呼ばれる気動車で、戦時中に不要不急路線として撤去された白棚線復活用の車両として計画されたものですが、ご存じのとおり白棚線はその後専用道で復活することとなりましたが、白棚線に代えて、木原線(現在のいすみ鉄道)に投入することとなりました。
模型等で見られた方も多いと思いますが、キハ01は両端にドアがあるタイプで、これは元々路面電車タイプで復活させることを目的としていたからだと言われています。
当時は、自動車も発展途上の時代でしたが、既にその頃から地方ローカル線の扱いには国鉄も経費節減に努めていた他、地域特別運賃の導入や、レールバスの導入といったあらゆる経営努力はしていましたが、実効は上がらなかったようです。
「戦後は終わった」の合言葉とともに、始った30年代、巷では神武景気、更にはその後なべ底不況を経て、昭和33年6月から昭和36年12月まで続く岩戸景気に繋がってといわれた好景気に支えられ、国民経済は大きく発展しました。
当時は投資が投資を呼ぶと言われ、マネービルという言葉が使われ出したのもこの頃でした。
マネービル、ボディビルを真似た造語のようで、証券会社が積極的にこの言葉を使っており、当時家風呂が無かったのでよく銭湯に連れて行ってもらったのですが、銭湯の洗い場の鏡などに証券会社の宣伝が入っていて、マネービルという言葉が書かれていて、幼稚園児であった子供には何のことか理解できなかったと言う思い出があります。笑
サザエさん(原作)でも、マネービルという話題が出てくるのもこの頃で、空前の投資ブームと言われました。(今のビットコインのような感じでしょうか)
そうした好景気に浮かれる話がある反面、森永砒素中毒事件や、水俣病(当時は、原因は不明の精神疾患が多発と報告されていた。)などの食品に関する事件が起こっていた時期でもありました。
この辺は、本題から外れますので省略させていただきます。
話題を鉄道に戻しますと、昭和31年11月には最後まで非電化で残っていた米原~京都間が電化され、東海道線は全線電化が完成。
これによりC62やC59など特別幹線用機関車はその活躍の場を山陽本線に移すとともに、東海道区間は快適な電化の旅となり、特別急行用の機関車には、淡いグリーン(通称青大将塗装)のEF58が客車とともに準備されました。
当時は、現在と比較にならないくらい貧富の格差が激しく、特急は特別な人が乗車する列車であり、一般庶民は急行が最も早い列車と言われていました。
その代わり、編成の半分以上が1・2等車(現在のグリーン車)という徹底ぶりで、(普通車は3等の時代です。)食堂車には、2等車以上の客しか入れないそんな風格のある列車でした。
景気拡大が続く中、昭和33年には、動くホテルと揶揄された、20系客車が151系「こだま」とともに、デビュー、ビジネスライクなこだまに比べ、個室寝台を1等座席車、食堂車などからなる全室冷暖房完備の車両は庶民の憧れと言えるものでした。
完全冷暖房、固定窓による快適な車内はたちまち人気となり、こだま同様切符の取れない列車として有名になりました。
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