景気循環と国鉄 第3話 特急あさかぜの誕生
Dec
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荷物・3等合造車 3等寝台車3両、3等座席車2両、食堂車、2等座席車、2等AB寝台車(個室&開放室)2等C寝台(開放室非冷房)の編成でした。
当初案では、大阪を無視する列車(実際には停車・客扱を行う)として計画され物議をかもしたものでした。
考えられた案は下記の3つ
1)東海道夜行+山陽昼行特急とする案。(東京発は深夜になる)
2)つばめ・はとに続行する形で、山陽区間を夜行にする案(昼間の走行時間が長くなる。
3)大阪を深夜に通過するダイヤとし、東京を夕刻、博多には到着する案
3案は、前例がないと大阪鉄道管理局は反発しますが、関西始発の九州方面急行列車「玄海」・「天草」を同時に登場させるということで、本社に言い切られる形でダイヤは決定したといわれています。
実際には、旧形客車で運転されていましたので、列車が停車すれば自由に乗り降りできる状態でしたので、大阪駅を2:00に客扱いすると言うことが行われていたわけです。
余談ですが、国鉄時代は、寝台急行列車の場合は、停車駅では客扱いをしていましたがこれも、旧形客車で運転されていた頃の名残です。
当初は、大阪が非有効体時間帯になることへの危惧もありましたが、運転開始してみると、好評で、切符が取れない列車と言うことでむしろ話題になり、昭和32年7月20日からは「特急さちかぜ」が設定され「あさかぜ」に続行する形で運転されました。
誘発需要や急行列車からの転移もあったかもしれませんが、それ以上に飛行機の深夜便(ムーンライト)からの転移が大きかったのではないかと言われています。
当時ムーンライトは、博多~羽田間に飛んでおり、夜2:35頃出発し、大阪空港を経由して、朝の5:30頃に羽田に到着する便と、東京を3:20に出発し、博多に6:15に到着する便があったそうですが、定員60人に対して20人程度しか乗らないことも多くなったという記事が国鉄線の記事の中にかいてありました。
昭和30年代は、景気拡大に支えられ、人や物の動きは活発化、一方では高速道路の建設も進められることから、輸送力のさらなる拡大(特に東海道線)は喫緊の課題としてクローズアップされていくのでした。
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