新性能電車の幕開け 第2話
Dec
6
中央線沿線は、戦後の人口増加が大きかったと言われています。
いささか乱暴な話ですが、中央線が通過する八王子市の人口を八王子市の統計で見てみますと、上記のグラフに有るように、昭和30(1955)年に大きく増加し、その後昭和40(1965)年までは周囲の町村合併もあったとはいえ人口が爆発的に増加していることが理解していただけると思います。
これは、戦後、東京都民が郊外に引っ越したことも原因としてあったかもしれませんが、この頃から東京一極集中の問題は起こっており、鉄道輸送にあっても、昭和8(1933)年6両編成でスタートした中央線は、昭和30年には9両編成まで対応できるようにホームを延長、その後昭和31(1956)年11月には10両編成まで対応可能となったそうですが、抜本的な改善には至っておらず、連日ダイヤの乱れによる混乱があったと記録には残っています。
昭和32年には、東京駅に中央線ホームの改良に着手しホーム拡幅工事を行ったと記述されています。
改善案として、旧形のモハ72形電車に代えて、新性能電車(101系)を導入することで、時間短縮が図れるとして計画されたのでした。
当初の計画では、オール電動車で製作する代わり、加速度は3.2km/h/sec 減速度 4.0km/h/secで、130cmの両開きドア併用で、運転時分の短縮が図れるとしていましたが、
実際には、オール電動車にすることでピーク電流(ノッチ投入時にかかる過電圧)の増大やこれに伴う架線電圧の降下などもあり変電所を強化する必要があり、その費用だけで役10億円(昭和32年当時)であり、それ以外にも性能に合わせて信号設備なども最適化を図るとなるとその経費も膨大になることや、旧形国電との混用ではさほど高加速があっても使いづらいと言うことから。当面は、出力を下げてMT比を下げる手法が取られました。
当初は8M2Tその後6M4Tとトレーラーの両数を増やす形で性能は最終的には旧形国電とさほど変わらない2.0km/h/secになってしまいました。
それでも、当初は将来的には電動車化するとのことで付随車(サハ)も動力台車を履くこととなり、DT21T(Tはトレーラーの意味)と呼ばれる電動車用台車を履き、また一部のサハにはパンタグラフの設置のための準備工事なども行われていました。
この失敗に懲りたのか、それ以降は国鉄では電車の起動加速度を積極的に公表することはありませんでした。
現在のN700系の加速度2.6km/h/secであり101系よりも速いことになります。
第一話はこちらを参照
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