万博輸送その後 新快速電車の誕生
Jan
27
大阪府吹田市千里丘丘陵で開催された、日本万国博覧会(Japan World Exposition, Osaka 1970)は、1970年3月15日から9月13日までの183日間開催され、アジア初かつ日本で最初の国際博覧会として開催されました。
期間中の入場者数は、6,421万8,770人(うち外国人 約170万人)であり、当初目標が3000万人であったので大成功を収めました。
国鉄も、輸送力増強で応えた他、茨木駅を万博東口として、バス輸送を行ったほか、新幹線の16両化、12系客車に見られる、波動用客車の増備などが行われました。
12系客車の話はまた別の機会に詳しくさせていただきますが、15年ぶりに製造された一般型客車であり、6両1ユニットで運用される客車で、冷房装置が付いた車両でありもっぱら急行用に利用されました。
車体の基本構造は、上下2段式の窓や2枚折り戸など同時期に製造されたキハ65とよく似ていました。
国鉄としては、こうした万博輸送に向けて増強した輸送力を活かすための方策が幾つか考えらることとなりました。
その一つが、新快速電車の誕生でした。
新快速電車の誕生
新快速電車は、万博輸送用の快速電車として投入された車両を使用して増発されることとなり、当初は京都~西明石間に1時間一本の割合で運転されることとなり、京都~西明石間を1時間20分で結びました。
当時は関東から転属の113系冷房改造車が投入されました。
当時の時刻表には下記のような説明文が書かれています。
ただ、国鉄本社は新快速という名称ではなく、特別快速にしたかったようですが、最終的に管理局が押し切ったようです。
ただし、10月号の時刻表では、本文が「新快速」ではなく、「特別快速」と書かれています。11月号からは「新快速」の表記かと思いますが手元に昭和45年11月の時刻表がないので確認ができません。
Discover japan(美しい日本と私)キャンペーンの始まり
そして、もう一つ国鉄が充実させた輸送力を活かすために考えたものが、Doscpver Japanキャンペーンでした。
駅頭にDiscover Japanと書かれたポスターが貼られ、駅にはスタンプが用意されていました。
an・anと言う雑誌が発行された頃もこの頃で、女性の社会進出、女性同士の旅行などが増加していった時期でも有りました。
今でも、youtubeで見ることができますが、当時の情勢のファッションなど見ることができます。
こうした新しいキャンペーンは、国鉄の強化した輸送力を吸収するのに上手い具合にマッチしてくれました。
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