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国鉄があった時代、日本国有鉄道史

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復旧から発展 第2話 輸送力増強と頓挫

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画像は直接関係ありませんが、動... 画像は直接関係ありませんが、動力近代化もこの時期から始まりました。
 国鉄では、昭和30年代が最も輝いていた黄金時代と言われており、昭和30年度の輸送量は戦前昭和11年と比較してみると、旅客で3.74倍、貨物はトン数で1.65倍へと著しい増加を示していたが、戦時中に酷使した設備の復興は、戦後のハイパーインフレで、収入から経費を賄うことは難しく、かつ、その後の朝鮮戦争後の物価及び賃金上昇はそれに追い討ちをかけることとなりました。
更に、追い討ちをかけるように桜木町事故などの大事故で、世論は国鉄の老朽施設や改善不十分な車両などに対して厳しい目を向けるようになりましたた。このため国鉄としても抜本的に改善を図るため第1次5ヶ年計画を策定し、運輸省に提出しました。
昭和31年8月政府が策定した経済自立5ヶ年計画に呼応して作成されたもので「第1次5ヶ年計画と呼ばれました。同計画は昭和32年度を初年度として
1. 老朽施設・車両を更新して資産の健全化を図り、輸送の安全を確保する。
2. 現在の輸送の行き詰まりの打開と無理な輸送の緩和を図り増大する輸送需要に応じるよう輸送力を強化する。
3. サービス改善と経費節減のため、輸送方式、動力、設備近代化の推進
を重点事項として、総投資額は当初5,020億円とされたが、好況化でさらなる輸送力のさらなる増強が期待されたことから昭和32年には約6,000億円に増強されました。
しかし、この計画も、独立採算制の建前から、資金を自前で調達しなくてはならず、3年後には資金不足に陥り再検討を余儀なくされることとなり、進捗率は50%に留まりました。
また、内容的には老朽施設の更新に追われたので新たな設備投資は大幅に遅延、北陸本線を筆頭に増大する荷物を捌ききれず、滞貨の山となっていき、貨車不足は深刻な問題となっていきました。
  この第1次5ヶ年計画は概ね老朽化施設の更改が終わったことから、推進率68%の低率ではありましたが、昭和35年度を持って打ち切られ、新たに第2次5ヶ年計画を策定することとなりました。


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復旧から発展 第1話 当時の世相概略

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トリスでハワイ 当時のテレビコ... トリスでハワイ 当時のテレビコマーシャル youtubeからキャプチャ
この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。
少し長くなりますが適当に短い章立てをして、読みやすくしたいと思います。 なお、労働問題については、別章で詳しく述べる予定ですので本編では概略を述べるに留めたいと思います。

当時の世相概略

単独講和か全面講和かでもめた講和条約は、アメリカと日本の利害と思惑が一致し、中国(中華人民共和国)及び旧ソ連(現・ロシア)とは講和条約を結ばないまま、昭和27年に講和条約は発効、日本は一応独立国としての体裁を保つこととなりました。
(アメリカとしては、早々と昭和24年頃には撤収したかったのが、朝鮮戦争の勃発で抜けられなくなったと言う経緯があります。)
ただ、日本本土も空襲による被害は甚大で、所々に焼け跡が無残な姿をさらしていたもので、昭和40年代初頭まではその片鱗を伺いうことができたものです。
現在は、コンサートなどで賑わう、大阪城ホール付近も、かつては陸軍工廠が在った所で、昭和40年頃までは、その区画だけが廃墟のようにぽつんと空いていたことを思い出すことが出来ます。

当時の為替レートは1ドル360円固定相場

また、為替レートが1$360円の固定相場に固定されていたため、輸出には有利でしたが、当時は渡航制限も撤廃されておらず、かつ外貨持ち出しも制限されていたため、現在のように誰でもが気軽に海外に遊びに行けるといったことはほとんど不可能でした。
当時壽屋(現・サントリー)が「トリスを飲んでハワイに行こう」というキャッチフレーズで、アンクルトリスのイラストとともに有名になったのも昭和30年代です、50代以上の方には懐かしい思い出ではないでしょうか。

国鉄では、東海道本線の電化が完成し、電気機関車による運転が開始されました

国鉄に目を向けてみますと、昭和27年以降、本格的に幹線の電化が実施され、昭和27年4月1日に高崎線の大宮~高崎間が完成、昭和28年には東海道線が名古屋まで電化完成、昭和30年7月に米原まで到達し、全線電化が完成したのは、昭和31年11月19日に完成、EF58形電気機関車が青大将塗装と呼ばれる淡いグリーンに塗られて走ったのもこの頃でした。また同じ時期には、現在は廃止されてしまった、「あさかぜ」号が、戦前の常識を破って、大阪通過の特急列車として運転を開始したことです。

政治の世界では、憲法改正論議が

再び、昭和30年代に話を戻してみますと、昭和30年には鳩山首相は、依然憲法改正論議に積極的であり、押し付けられた憲法を改正すべきとの持論を展開しますが、与野党の反対により消滅していきました。

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輸送力増強と国鉄 第6話 ディーゼル機関車の開発と頓挫

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ECAFEで展示されたDD50... ECAFEで展示されたDD50形機関車(第2次形)
画像 wikipedia
 戦前からディーゼル機関車並びにディーゼル動車の研究は進められていましたが、太平洋戦争(大東亜戦争)により石油が流通しなくなったことから研究は頓挫していました。
  戦後はローカル線経営における輸送改善の見地から山間部を走るローカル線などを中心にそういった無煙化に関する要請が強くなったこともあり、再び研究が開始されました。
気動車に関しては、戦前にDMF31系エンジン【鉄道省が、新潟鐵工所・池貝製作所(現・株式会社池貝、株式会社 池貝ディーゼル)・三菱重工業の3社が同一仕様で競作した3種の試作エンジンに便宜上同一の省形式を与えたもの】を試用して、キハ43000と呼ばれる気動車が開発されましたが、大出力を必要とするデイゼル機関車は、中々普及せず、戦前に、DC10、DC11、DB10と言った機関車が輸入され若しくは試作されまた程度でした。
いずれも、出力が小さくせいぜい入換用機関車程度のものでしかありませんでした。
 戦後大きく発展するディゼルカーは、戦前にほぼ完成していたエンジン(ガソリンエンジン GMH17をベースにディーゼル化したDNH17)とこれまた戦前に完成していた液体変速機を載せたものをベースに発展するのですが、(この辺はまた別の機会に書かせていただきます。)
国産大型デイゼル機関車は、ドイツ製エンジン搭載
 国産での大型機関車の開発に時間がかかることから、昭和28年にはDD50形ディゼル機関車が導入されます、この機関車はスルザー形ディゼル機関(900PS)に発電機を搭載、130KWモータ4台を駆動する方式で、片運転台で当時人気のあった湘南形スタイルの前面マスクを意識していたものでした。
 早速、昭和28年には1次車3両が製造され、翌年更に2次車3両が製作され、全車北陸本線に投入されました。
 出力的にはD51形蒸気機関車を少し下回る性能という触れ込みでしたが、実際の運用では、短編成の旅客車を牽引できる程度であり、方向転換にSL同様転車台を必要とすることから、常に重連使用を余儀なくされることから使い勝手はあまり良いとはいえませんでした。
 晩年は北陸本線、米原~田村間の小運転に使用されたりして昭和50年頃にその姿を消しました。(電化当初、北陸本線は坂田~田村間には架線を張っていなかったので、列車は米原及び田村で機関車交換を行なっていた。)田村駅が無人駅でありながら広い構内を持つのは当時の名残。)
 その後、DD50のエンジンの出力を増大したDF50が昭和31年に登場し、ここにひとまず亜幹線向けの機関車の標準型が出来上がりました。
ただし、電気式の欠点として、構造が複雑で重量も重く、当然車両単価も高くなるので、比較的安価で、軽量化が可能な液体式の研究も引続き行なわれていました。
現場では不評であったDF50
 また、現場の回想としてDF50も故障が多く、かなり苦労したと言った記述を見ることができます。
 また、昭和30年代には、鉄道車両業界は多くの試作機関車を試作しては国鉄で試用してもらっていました。
 成績良好な機関車jはそのまま購入されたりしましたは、多くは試用の後返却されました。
 有名なところでは常磐線で試用されてその後、購入されたDF40 (後DF90)や、DF41(後のDF91)や、山陰本線で試用されたDD91(DD54のベースとなった機関車)などが上げられます。
 余談ですが、DF90はエンジン音が非常に大きく今では騒音問題で苦情になるレベルでは無かったかと思われます。



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輸送力増強と国鉄 第5話 機関車の再改造と輸送力増強

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京都鉄道博物館に保存されている... 京都鉄道博物館に保存されているC6226
 戦時中に製作された、EF13、D52などは、通勤形電車の63形同様、戦時設計と言われる構造であったため代用部品や、設計の簡略化などが行なわれており、実際にD52形蒸気機関車では走行中にボイラが爆発して、機関士が死亡するといった事故が発生しています。
 そこで、これら機関車の標準化改造行なうとともに、一部は増えつつあった旅客輸送に転用するため、昭和22年頃から貨物機関車を旅客用機関車に改造する工事が行なわれることとなりました。
 現在、日本最大の機関車として、今も人気の高いC62形蒸気機関車は、D52形のボイラを流用した蒸気機関車です。 また、それとは別に、戦前は国防上の理由で、電化が制限されていた東海道線など幹線が電化され始めたため、幹線用の大型蒸気機関車を地方線区に転用する必要が生じました。
 そのため従輪(運転席よりの車輪)を一軸から二軸に改造する工事が、昭和25年から行なわれ、(幹線用の機関車は当時、軸重15t~16t、地方線区では14t程度)D52改造のD62を筆頭に、D50形改造のD60形、C59改造のC60形などが誕生しました。
他に、D51のボイラなどを流用した、C61もこの時期に誕生しています。
動画でも、詳しく解説しています。
併せてご覧ください。


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輸送力増強と国鉄 第4話 湘南電車に見られる、電車の活躍

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戦後の鉄道車両に多大な影響を持... 戦後の鉄道車両に多大な影響を持たせた2枚窓の80系電車
私鉄にも影響を与えた他、157系電車のデザインは発展型とも言われています。
 昭和25年3月、東京~沼津間に80形電車による運転が始まりました。これまでは電車といえば近距離での輸送が常識を覆すものでした。 現在も使われている、オレンジと緑の塗り分けは、茶色若しくは黒しか見たことが無かった人々には驚きの目を持って迎えられました。最も当初は赤味の強いオレンジ色であったため後に修正したと言われています。
また、湘南地方の蜜柑の色を表現したと言うのは、後からつけた理由であり、本来はとにかく明るい色を・・・と言う理由から選ばれたそうです。
この電車、当初の計画では15両編成+荷物車の最高16両編成が東京~沼津間を60分間隔、小田原までは30分間隔(ラッシュ時は15分間隔)で運転すると言う方向で進められこれに伴う車両の発注も計画されたそうですが、折からのドッジ旋風(ドッジ・ラインの縮小経済をこのように呼んだ。)により、発注数は縮小されました。
 結局発注数は、73両と大幅に縮小されましたが、その後の高速電車の礎を築くこととなりました。
この電車の登場は、戦後のすさんだ風潮の中で未来への期待を持たせるものとして役立ちました。
  特に、昭和26年の増備車から採用された流線型2枚窓は、中央部をくの字型にさせた構造で、先頭車の通称金太郎塗りとあいまって、一世を風靡したものです。
その後このスタイルは、多くの私鉄にも影響を与え、各社で非貫通、2枚窓の湘南形の亜流とも言うべき車両が全国で誕生した他同時期に誕生した気動車にも影響を与えました。

動画でも解説しています。


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輸送力増強と国鉄 第3話 貨物輸送の改善

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ワキ1000の緩急車、ワムフ1... ワキ1000の緩急車、ワムフ100形、コンテナ輸送が始まるまでの小口輸送用の急行便として活躍

画像 wikipedia
 昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留~梅田間および吹田~門司間に設定され、汐留~門司間で65時間から43時間に大幅に改善されました。
  改善の動機はドッジ・ラインによる縮小経済で貨物輸送が減少したことと、トラック輸送や船舶輸送の復旧が進みサービス改善に迫られたことも原因としてありました。
その後、朝鮮特需で需要は伸びたが、ピークを過ぎると貨車の遊休が目立つようになったので国鉄では、サービスアップと貨車の有効活用を図るために、昭和27年9月から小口貨物の速達輸送を図るべく。
「急行小口扱」を新設、貨車にも「急行便」の文字が書かれた専用貨車が使われました。これは、後にコンテナ輸送が本格化するまでは、花形列車として活躍することとなります。
この一環輸送は翌28年には更に拡充され、自動車を活用して都市の小口扱い貨物の特定駅への集約や地方における自動車代行などが実施され、東京都内や名古屋地区、仙石線、八戸線などでは国鉄自動車局が貨車代行輸送を行ったという実績があります。

併せて動画もご覧ください。


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輸送力増強と国鉄 第2話 講和条約後の日本

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輸送力増強と国鉄 第2話 講和...
 講和を獲得後日本は、国際的には独立国となりましたが、まだまだ10年戦争による疲弊は続き未だ国民の生活は豊かなものではありませんでした。
しかし、昭和30年代に入ると、次第に戦後復興と言われた時代は終わり、昭和29年(1954)からの神武景気、途中で鍋底不況と呼ばれる時期を経て、再び昭和33年(1958)からは、岩戸景気と呼ばれる好景気が押し寄せ、昭和35年、安保条約改正の責任を負う形で辞任した、岸内閣に代わって、池田内閣が組織され、所得倍増計画に見られるように、国民全体が、より豊かな生活を目指して行くことを目指し、経済が活発化していきました。
こうした好景気のおかげで、鉄道輸送も輸送量は右肩上がりで増えていくこととなりますが、その反面、戦争中に酷使した施設の老朽化が目立つようになってきました、特に、輸送力に保安設備が追いつかないといった事態となりました。
特に輸送力の増加には、軌道の改善が最優先に行う必要がありました。
軌道については昭和27年からレールの重軌条化が推進されていきました。
具体的には、D50形・D51形蒸気機関車の入線する区間及び年間通過トン数500万トン以上の線区では、30kgレールを37kgレールに、C57、C62、D52形などの入線する線区で、かつ通過トン数1000万トン以上の線区では37kgレールを50kgレールに交換する工事が9ヶ年計画で開始されました。(現在多くの路線が50kgレールであることを考えると雲泥の差がありますが、当時は30kgレールなどが結構見られたものです。)
それと並行して保線作業の近代化も進められマルチプルタイタンパー、バラストクリーナーなどの機械が導入されるなど従来の鶴嘴を持ってつき固めといった作業がなくなりました。これにより、保線区ごとに伝統的に歌われていた、保線区の歌なども次第に消えていきました。
この他、木材不足から鉄筋コンクリート枕木の生産を計画、昭和27年からコンクリート枕木が使用を開始しています。
一方、戦後復興の一環として地方自治体などでは駅前広場の整備が要望されました。
駅舎は本来鉄道の所有物のため鉄道会社が整備すべきものとされていましたが、そこまで手が回らないのが実情であり、駅舎の復旧・建設費用の一部または全額を地元に負担してもらう代わりに駅舎内に商店・食堂などの商業施設を設ける「民衆駅」構想も生まれました。
この方針に基づき、昭和23年の豊橋駅(戦後最初の民衆駅と言われている。)を皮切りに各地で申請が出されましたが、契約方式などで問題が表面化し、昭和29年には民衆駅の施設及び運営に係るさまざまな基準が設けられました。
更に昭和32年には、抜本的な改善を図るため、輸送力の増強を主眼とした第1次5ヶ年計画が策定され以下のような方針が決定されました。
①老朽施設を更新して資産の健全化を図り、輸送の安全を確保する。
②現在の輸送の行き詰まりの打開と無理な輸送の緩和を図り、増大する輸送需要に応じる ような輸送力を強化する。
③サービス改善と経費節減のため、輸送方式、動力、設備近代化の推進
でありました。

以下の動画では、更に民衆駅のことなど詳しく解説しています。


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輸送力増強と国鉄 第1話 輸送力増強

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雑誌 国鉄線 昭和31年10月... 雑誌 国鉄線 昭和31年10月号から引用

この章では、戦後の復興に向けての輸送力の増強を中心にお話をして行きたいと思います。昭和30年代のお話につきましては章を改めて行ないたいと思います。

輸送力増強

昭和24年9月、戦後初めての「特急 へいわ」が運転を開始しました。
 戦後の暗い世相の中でたとえ一般庶民には高嶺の花であった特急列車が復活するということは国民に希望を与えるものでした。
 特に、「へいわ」という愛称は、戦後の国民には素直に受入れられる名称では有りましたが、愛称については、改めて公募が行なわれることとなりました。
全国から約16万通の応募があり、その中から1,500余通を占めた「つばめ」が選ばれました。これにより、昭和25年1月1日をもって「へいわ」は「つばめ」に改称されました。
余談ですが、初代「へいわ」に使われたテールマークと「はと」のデザインは全く同じ物が使われています。さらに、同年5月11日には姉妹特急として「はと」が運転を開始しました。
 なお、特急つばめですが、昭和25年5月からは、特別2等車(現在のグリーン車)が連結されました。
これは、GHQの民間運輸局(CTS)といって、国鉄の基本的な政策などを勧告と指示を与えるポスト)のシャグノン大佐という人の強い要望(強制?)によると言われています。
このとき作られた特別2等車がスロ60と言われる形式で定員は44人と現在の標準的な車両よりもゆったりとした設計になっていました。この車両は主に外国人専用として使われたようです。
  その後、当時の日本人向けにシートの間隔を狭めたスロ50(定員48人)、スロ51(定員52人)の3形式が登場しました。
従来の向かい合わせ式の2等車は並2等(並ロ)、リクライニング装備の2等車は特二等(特ロ)と呼ばれて区別され、特別2等車には特別料金が設けられました。
これらの車両は現在のグリーン車の基礎を築いたという点では注目すべきものであり、すこぶる評判の悪かったCTSにおいて唯一評価できるものといわれています。

なお、国鉄当局は当初は1等車扱いにしたかったようですが、許可が下りず止む無く特別2等車という名称にしたわけで、結果的に2等車の全体的なかさ上げが出来たと言われています。
併せてご覧ください。


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国鉄誕生と鉄道事故 第2回 混乱期の事故

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当時の鉄道事情…実際にこのよう... 当時の鉄道事情…実際にこのような実態もあったと言われています。
 終戦当時はその疲弊した設備もあいまって多くの事故が発生し、事故の無い日のほうが珍しいと言われるほど混乱していました。
詳細は、幣ページの昭和20年からを見ていただくとして、多くの事故が発生しています。
 これには、戦時中の酷使などで発生したと思われる蒸気機関車のボイラー破裂事故などもあります。
 主だった鉄道事故を拾ってみても
 肥薩線内トンネル事故 8/22
 荷重超過のため上り勾配のトンネル内で立ち往生した列車をバックさせようとしたところ、既に列車を降りて線路を歩いていた乗客と接触し49人が死亡、20人が負傷した事件であった。
 八高線 小宮~拝島間八高線で正面衝突 8/24
 買出しで満員の列車が、小宮~拝島間の多摩川鉄橋上で衝突、104人が死亡した事故
 これは、前日の台風の影響で通信が途絶えており、本来であれば指導式と呼ばれる運転方法を行うところこれを行わずに列車を発車させてしまったために起こった事故で、保安の基本が判っていない事故であった。
 ボイラ破裂で機関車転落 10/19
 醒ケ井駅構内で、D52形蒸気機関車のボイラーが爆発、機関車は近くの川に転落、この事故で乗務員2名が即死、一人も後に死亡の事故
 この種の事故は当時多発したとされており、今後調査の上まとめていければと思っています。
 東海道線の列車追突事故 11/19
 山科駅で停車中の普通列車に、貨物列車の機関士が居眠り運転で追突。6名が死亡
 津山線 車軸折損による脱線事故 11/27
 など・・・・
他にも、昭和21年6月4日には、中央線 東中野~大久保間で急行電車が走行中に木製ドアを破損、数人の乗客が転落死という事故も発生しています。当時の電車は、ガラス窓は無くて板を釘で打ち付けていたりといった車両が多く、この事故がドアの鋼製化を進めるきっかけとなりました。

画像は、youtubeのキャプチャーです。

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国鉄誕生と鉄道事故 第1話 国鉄の復興

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国鉄誕生と鉄道事故 第1話 国...
少し時代を戻して、終戦直後のお話をしたいと思います。この章は概ね昭和20年から昭和25年頃までのお話です。

戦争で交通機関等も破壊された日本において、最低限必要な旅客・貨物輸送を確保するのは喫緊の課題でした、大量輸送という点では内航海運は有利でしたが、戦争中に徴発されたこと、港の破壊などで早急な復興は無理であり、自動車輸送にあっても早急な改善は無理なことから、必然的に鉄道輸送を早急に復旧させる必要がありました。
このため、政府は終戦と同時に鉄道復興5ヵ年計画を立て、国鉄の復旧に全力を注ぐこととなりました。
 その内容としては車両の新製(1,259両)、被災車両の復旧、被災軌道の復旧、電化工事の推進などでした。
 特に電化工事は戦前は、国防上の理由から中々進展していませんでした。
 国鉄(当時は運輸省)でも、戦時中の輸送制限(切符の発行枚数の制限など)を緩和と乗車秩序の確保策をとりますが、中々思うようには復旧は進みませんでした。
といいますのも、肝心の資財を提供できる工場や施設が破壊されているわけですから思うようには進まないわけです。
 特に資財では鉄材が不足し老朽化したレールの更改などが中々進みません。

政府は、昭和23年復興計画の見直しを行い、鉄道・石炭・鉄鋼・電力を重点産業部門として位置付けることに成り、その復興が推進されることとなりました。
 これにより車両の生産及び修繕能力は戦前の水準にようやく回復することができましたが、実際の車両の生産や電化などはドッジラインの影響で中々思うように進みませんでした。
終戦直後の国鉄の輸送人員は一日平均で約700万人、戦争中に比べ15%の減少でしたが、旅行制限の緩和などで次第に輸送量は増えて戦時中を凌ぐ状況となってきました。
 昭和20年12月以降、石炭危機が発生し、列車に一部を削減せざるを得ない状況となりました。
 さらにそこに買出し客が増えるうえ、敗戦に伴う人心の荒廃から乗車秩序は乱れ、混乱状態に更に拍車をかけることとなります。
このため、輸送力を確保するため昭和21年度には急行列車廃止と2等車(現在のグリーン車)の連結中止、学生定期の使用禁止、遠距離旅客の抑制といった規制を再び設けざるを得なくなりました。
これは戦時中に、日本に徴用された朝鮮・中国人労働者の就業拒否などが原因と言われていますが詳細は、今後さらに勉強したいと思います。

これに伴う、関連資料は。昭和21年度下期石炭危機突破対策 国立国会図書館の資料を参照 しています。
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